387 見覚えのある他人
「はぁ……はぁ……」
女の源魔師が、木の陰から顔を覗かせた。
塩辛い汗が目に入り、鋭い痛みが走る。それでも恐怖で目を見開いたまま、瞬きすらできなかった。
左からサワサワ、右からカサカサ。森で鳴るあらゆる物音が、追っ手の足音に聞こえた。
女の源魔師の視線は音がするたびに上下左右へ動き、そのたびに体を震わせた。
追っ手がいないことを確かめると、木の幹にもたれて座り込んだ。途端に脇腹から、骨までえぐられるような激痛が走った。
「うっ……」女の源魔師は血で赤く染まった茶色のローブを強く噛み、必死に痛みをこらえた。
脇腹を押さえていた手を放すと、鮮血がすぐに背中へ伝い、体温が急激に下がり始めた。このまま応急処置をしなければ、間違いなく意識を失う。
女の源魔師は細やかな魔力操作で小さな氷のナイフを作り、傷口の周囲にあるローブを切り開いた。そこにはオレンジほどの大きさの傷があった。
「大丈夫……大丈夫……。傷がどれくらい深いのか、確かめないと………」
女の源魔師は乱れた呼吸を整え、顔の汗を拭うと、一気に人差し指を傷口へ差し込んだ!
「んっ……あぐぅ……!」
あまりの痛みに両脚をまっすぐ伸ばし、体を抑えきれずに痙攣させた。
傷は指一本分よりも深く、予想をはるかに超えていた。女の源魔師は指を抜き、木の幹にもたれながら心を落ち着かせた。
「今すぐログアウトして、二度とこのゲームには戻らない。それとも、このまま戦って何としても生き延びる」
二つに一つだった。
「現実では………こんな経験はできない」
女の源魔師は後者を選んだ。
ボウッ……右手の上に火球が燃え上がった。
「絶対に悪い考えだ……間違いなく後悔する……」
心臓が雷鳴のように激しく鳴り、アドレナリンが一気に全身を駆け巡った。女の源魔師は深く息を吸い、厚く折り重ねたローブを口にくわえると、血まみれの傷口を押し広げた。
半秒だけためらい――火球を傷口へ押し当てた!
血が一瞬で沸騰し、傷口から大量の蒸気が噴き上がった。激痛に背中を弓なりに反らし、口にくわえていたローブの塊を吐き出す。歯茎までむき出しになった。
本能のまま両脚を突っ張って地面をえぐり、頭を木の幹へ激しく押しつけ、別の痛みで痛みを紛らわせようとした。
どれほど強い意志があっても、本能的な反応には逆らえない――
「うわああああっ!!」
女の源魔師はついに耐えきれず、腹の中へ閉じ込めていた痛みの怪物を解き放つように絶叫した。
凄まじい悲鳴が森中に響き渡り、木々の間を駆け抜けていく……。
痛みの波が収まると、少女は弱々しく瞬きをした。体を起こした途端、再び激痛が走った。
「なんてこと……ううっ………」
少女は声を上げて泣きじゃくったが、傷口からの出血は止まり、命の危険はなくなっていた。
最後の体力ポーションを飲み干し、逃げようとしたとき、地面から振動が伝わってきた。
「まずい……大声を出しすぎた!」
少女は慌てて周囲を見回した。今の傷では走れないと判断し、重力歪曲で足元の岩を浮かせ、自分を数メートル上の木の枝まで運んだ。
完全武装したドイツ軍の騎兵隊が、怒濤のような勢いで押し寄せてきた。重い鉄の蹄が梢の葉を振り落とし、少女の真下で止まった。
顔まですっぽり覆う銀色の兜をかぶり、黒い外套と銀の鎧をまとった騎士が、双頭の鷲の大旗を掲げて現れた。
「ここに………あの女の血痕があります」騎兵の一人が銀鎧の騎士へ報告した。
「逃がさないで。まだ人数が足りない……」銀鎧の騎士は命じた。
女の源魔師は自分の口を強く押さえ、息を殺した。
ブーン――
一機のドローンが、カメラをまっすぐ女の源魔師へ向けていた……。
ヒュッ――パァン!
銃弾が木を貫いて肩へ突き刺さり、女の源魔師を枝から撃ち落とした。騎兵隊は彼女を生け捕りにすると、プラムスへ向けて出発した。
「嫌!!!!! 嫌ああああああああああ!!!!!!!!!!!!」
…
移動中――
「今日の………人数は足りた?」銀鎧の騎士は隣の副官へ尋ねた。
「四次職が一人いれば、二次職十人分になります。これで十分です………アンドリア様」副官は答えた。
「ご苦労様…………」アンドリアは沈んだ声で答えた。気は進まなかったが、それでも双頭の鷲が描かれた大旗を掲げた。
「アンドリア………この機会にKanatheonと和解してみませんか?」副官は小声で尋ねた。
「私たちはニフェトを裏切り、彼女は復讐を選んだ。もう、私たちが和解できる余地はない」アンドリアはため息をついた。
かつて本サーバーを自由に駆け回り、自らの立場に誇りを抱いていたアンドリア騎士団は、今やドイツ人の命令で本サーバーの実力者を狩る猟犬に成り下がっていた。
この大旗は………あまりにも重い。
突然、先頭の騎兵たちが鋼鉄のワイヤーに足を取られ、人馬もろとも地面へ投げ出された。同時に三人の初心者が畑から飛び出し、騎兵隊へ牛の糞を投げつけた。
「糞でも食らえ、ドイツ野郎!」三人は罵りながら、牛の糞を投げ続けた。
「ふざけるな! 追え!」副官は激怒し、騎兵隊を率いて畑へ突撃した。
アンドリアは止めようとしたが、明日も十人を引き渡さなければならないことを思い出し、そのまま部下たちを向かわせた。
騎兵隊は畑に仕掛けられた複数の獣用の罠を踏み、揃って顔から地面へ突っ込んだ。
「ははははっ! 馬鹿ばっかりだ! 何が第四帝国だよ?! 笑わせるな!」三人は再び騎兵たちへ牛の糞を投げつけた。
「お前たちに何が分かる?!」副官は全身を牛の糞まみれにしながら、初心者たちへ怒鳴り返した。
ドイツ人プレイヤーが本サーバーの言葉で言い返したのを聞き、三人はさらに激怒した。
「自分のサーバーを裏切ったくせに! お前らこそ糞を食え!」三人はますます勢いよく牛の糞を投げた。
自分の騎士団が侮辱されるのを見たアンドリアは、無性に腹が立った。
アンドリアは手綱を引き、高度な騎乗技術でZ字を描くようにすべての罠を避けると、宙を舞って三人の目の前へ着地した。
三人は顔から血の気を失った。獣用の罠をすべて避けられる者がいるとは思わず、すぐに背を向けて逃げ出した。
アンドリアはすぐさま前へ飛び出し、中央にいた女の魔導士を槍で突き倒した。ところが、その体は鋼鉄のように硬く、システムの保護を受けている。レベル五十未満の初心者だったのだ。
「ノクシア!」残る二人はすぐに女の魔導士を助け起こした。
バサッ!
三人が顔を上げると、目の前にいた銀鎧の騎士が双頭の鷲の大旗を地面へ投げ捨て、呆然と自分たちを見つめていた。
「鋼線も獣用の罠も、牛の糞も攻撃判定は出ていない! 俺たちは規則を一つも破っていないぞ!
1)いかなるギルドにも所属してはならず、新たにギルドを結成することも禁ずる
2)開放区域では、番号が記された腕章を必ず着用する
3)帝国軍および帝国軍に所属するプレイヤーへ、ダメージ判定を伴う攻撃を行ってはならない
4)腕章を着用していない身元不明のプレイヤーを発見した場合、帝国の巡回兵に通報しなければならない
お前たちは名誉ある軍隊なんだろ?!」男の剣士は怒鳴りつけた。
「ふん、ただの飼い犬ね。黒の森で本サーバーのために戦死した人たちが報われないわ!」ノクシアは憎しみに満ちた目で銀鎧の騎士を睨みつけた。
「そうだ、そうだ! 全員ただの犬だ! 肥溜めに湧く蛆虫より卑しいぞ!」男の剣士は、まだまだ罵り足りない様子だった。
もう一人の女弓使いだけは何も言わず、ノクシアを支えながら銀鎧の騎士を警戒していた。
銀鎧の騎士は一言も発さず、最初から最後までノクシアだけを見つめていた。
「罵られすぎて馬鹿になったのか?! この犬!」男の剣士はさらに怒鳴った。
「ちょっと! 牛の糞を投げても規則違反じゃない。私たちを連行することはできないわよ!」ノクシアは銀鎧の騎士の様子がおかしいことに気づき、怖くなった。
銀鎧の騎士はノクシアの声をもう一度聞いた途端、馬から飛び降り、その前に跪いて深々と平伏した。
三人は呆然とし、男の剣士も罵るのをやめた。
銀鎧の騎士は再び立ち上がり、地面に落ちた双頭の鷲の大旗を見つめた………やがて身を屈めて拾い上げると、馬へ乗って立ち去ろうとした。
「待って!」ノクシアはすぐに銀鎧の騎士を呼び止めた。
銀鎧の騎士は止まったが、振り返らなかった。
「私の正体を知っているの?」ノクシアは険しい表情で尋ねた。
銀鎧の騎士は答えなかった。
「私を知っているんでしょう?! お願い、銀龍の刻印がどうなっているのか教えて! でも、私が戻ったことはアンドリアに言わないで。あの人が危険を冒して私を捜しに来るのが怖いの」
ノクシアは感情を抑えきれず、涙を流した。
「彼女は……もう死んだ」兜の奥から、くぐもった女の声が響いた。白馬に乗って兵を率い、その場を離れた。
ノクシアは瞳から焦点を失い、その場に崩れ落ちた。
「信じない!! 私を利用して、あの人をおびき出すつもりでしょう! 言っておくけど、あの人は絶対に死んでいない! 必ず戻ってくるんだから!!」ノクシアは銀鎧の騎士の背中へ怒鳴った。
銀鎧の騎士は馬の腹を締めつけ、長い外套をはためかせながら地平線の彼方へ消えていった。
…
鉄耳山脈――
「火野良ギルマス、こちらの食料に受領の署名をお願いします」ドイツ軍の将校は告げた。
「どういう……ことだ?!」火野良は驚愕した。ドイツ人プレイヤーたちが、五台の荷馬車いっぱいのパンを運んできたのだ。
「柑々総統から皆さんへの贈り物です。決められた量の物資を定期的に納めていることへの報奨だそうです」ドイツ軍の将校は説明した。
「柑々?! 柑々はどこだ?!」雨間刻は駆け戻ってくると、焦って尋ねた。
「ああ、あなたが雨間刻さんですね」ドイツ軍の将校は柑々から雨間刻の特徴を聞いていた将校は、彼の姿を見ると笑顔で尋ねた。。
「お前は誰だ?! 柑々はどこにいる?!」雨間刻は激怒し、荷馬車の覆いをめくったが、柑々の姿はなかった。
「柑々総統はご無事です。心配はいりません。これをあなたへ渡すよう、特別に申しつけられました」ドイツ軍の将校は告げた。
雨間刻は手紙を受け取り、開こうとした瞬間、火野良に片腕をつかまれて止められた。
「ありがとうございます! 俺たちは作業に戻ります!」火野良はすぐに大げさな笑顔を作って言った。
ドイツ軍の将校はうなずき、その場を離れた。
洞窟へ戻ると――
「馬鹿か?! 柑々はお前を信じたから、パンとは別に手紙を渡したんだぞ!」火野良は激怒した。
「焦りすぎた。すまない」
雨間刻は改めて手紙を確認し、赤い封蝋が押されていることに気づいた。
封を開けると――中に入っていたのは、プラムスの地図だった!
「これは?!」全員が驚きの声を上げた。
「洞窟の入口を閉めろ!」火野良はすぐに命じた。
「ドイツ軍がプラムスに敷いている防衛網の地図だ!」
「でも……筆跡が柑々のものと少し違う。何か所か書き直されてる」
雨間刻は大浴場、広場、城壁に記された複数の印を指さした。
「協力者がいるのかもしれない。柑々の苦労を無駄にするな!」火野良は興奮し、プラムスを奇襲する方法を考え始めた。
夜明けは近い――少なくとも、その場にいた誰もがそう信じた。
…
皆さんなら、大切な旧友を守るために、自分はもう死んだと嘘をつけますか?




