376 遠ざかっていく人
影の旅団の庇護を離れ、加奈、一樹、キティ、マイロは危険を承知で北東へ向かい、Kanatheonの残党を探していた。
「はぁ……もう、疲れた!」一樹は肩で息をしながら言った。
キティは草むらの陰で足を止め、森の小道を窺った。人影は見当たらず、今のところは安全だった、鎌の刃を研いでいた。
加奈と一樹は空腹で力が出ず、その場に倒れ込んだ。
「疲れないのか?」一樹は不思議そうにマイロへ尋ねた。
マイロは鼻で笑い、答えようともしなかった。
「お前は?」一樹は懲りずにキティへ尋ねた。
「疲れた」
「少し休まないのか?」
「お前たちが休んでる」キティは感情のこもらない声で答えた。
一樹は穴があったら入りたいほど恥ずかしくなった。加奈はすでに眠っていたため、意を決して立ち上がった。
「もう休めたのか?」キティは、一樹が自ら見張りを買って出て草むらのそばにしゃがむのを見て尋ねた。
「俺なら大丈夫だ。休んでくれ。俺は――」一樹が言い終えるより早く、キティは横になって眠り始めた。
一行は再び沈黙に包まれた。リリリと鳴く虫の声に、一樹のまぶたも重くなっていく。
意識が体から抜けていくように遠のき、虫の音も次第に薄れていった……。
パキッ!
突然、林道から枝の折れる音が響いた。
一樹が勢いよく目を見開くと、キティはとっくに目を覚まし、代わりに見張りについていた。
「子猫だ」キティは草葉の隙間から音の主を確認した。
「悪い、もう少しで寝るところだった」一樹は何度も謝った。
「もう少し? 三十分は寝てた」キティは気にも留めずに言った。
一樹は地面に頭を埋めたくなった。
マイロはキティの肩を叩くと、何も言わずにキティと見張りを交代した。
「寒い」キティは震えながら体を抱き、身を丸めて暖を取った。
「一樹、ログアウトして、事態が収まるのを待たない?」マイロが尋ねた。
「仲間がまだ危険な目に遭ってるんだぞ! お前たちは? ギルドのしがらみも、守るべき相手もいない。どうして本サーバーに残るんだ?」一樹は問い返した。
「しがらみ? 守る? ふふふ……」マイロは苦笑しながら首を横に振った。
「何がおかしいんだ?」一樹は不機嫌そうに言った。
「もしお前がもう死んでいるか、ログアウトしていたとして、加奈が本サーバーに残ると思うか?」キティが尋ねた。
「残る! だって、俺のギルドが――」一樹は答えた。
「ギルドがなかったら?」そう問い返され、一樹は即座に言葉を失った。
「そもそも、お前と知り合っていなかったら?」キティがさらに条件を突き詰めると、一樹はますます答えられなくなった。
「ほら、お前は加奈のことを何も分かってない」キティは微笑み、地面に寝転んで空を見上げた。
「そんな仮定だけで、加奈の人柄を決めつけられるわけないだろ!」一樹はムキになり、眠っている加奈の顔を見ながら反論した。
「加奈の本質は変わらない。人間の本質も変わらない。人を殺すことや、狩られるスリルを楽しむ人間は必ずいる」マイロが不意に口を開いた。
「PVPが好きなのと、いたぶられるのが好きなのは別だ!」一樹はきっぱりと言い返した。
マイロは白い毒薬を二本取り出した。
「どちらのほうが白い?」
一樹はじっくり見比べたが、二本の毒液はまったく同じ色だった。
「では、今は?」マイロが片方の白い毒液に銀色の液体を一滴垂らすと、たちまち灰黒色に変わった。
「どういう意味だ?」一樹は眉をひそめて尋ねた。
「この世には、もともと白も黒もない。黒があるからこそ、白に意味が生まれる。この混沌とした仮想世界は、白く塗り固められた現実よりも本物らしいと思わない? 私たちは、自分の中の黒をここへ思う存分ぶちまけているのよ」マイロは笑いながら、灰色の毒液を草地へ流した。草はたちまち枯れ果てた。
「PVPが好きな人間は……狩られる恐怖を味わったことがあるからこそ、人を殺す快感がどれほど癖になるか分かる。その二つは、どちらが欠けても駄目がなんだ。加奈は……死を追い求めるプレイヤーだよ」キティは空へ拳を突き出し、笑いながら言った。
「勝手なことを言うな! ドイツのプレイヤーはあんなに凶暴なんだぞ。捕まったら酷い拷問を受けるんだ。だったら自殺してログアウトしたほうがマシだ」一樹は反論した。
「それは……拷問が気持ちいいかどうかによるね」キティは陰険な笑みを浮かべた。
…
銀耳山脈――
「キティ、うまくやってるかな……」雨間刻は心配そうにつぶやいた。
そのとき、ヘメルが再び部下たちを率いて、影の旅団の洞窟を訪れた。
「お前ら、出ていけ!!」雨間刻が怒鳴ると、すぐに何人もの仲間に地面へ押さえつけられた。
ドイツ軍の将校は大量の食料を置いていき、紳士のように柑々を石竜へ乗せると、ハゲグの塔へ連れていった飛び立った。
「柑々!!」雨間刻は泥まみれで地面に這いつくばったまま、翼を広げて飛び去る柑々を見つめた。だが、彼女は一度も振り返らなかった。
「雨間刻、これは柑々が自分で決めたことだ。彼女を困らせないでくれないか?!」火野良が洞窟から飛び出し、怒鳴った。
「全部お前のせいだ! こんな食料のために柑々を売り渡して、良心が痛まないのか?! 放せ!」雨間刻は地面を叩いて跳ね起きた。その勢いは凄まじく、五人の狂戦士でも押さえきれなかった。
火野良はすぐに飛びかかり、雨間刻と組み合った。狂乱した雨間刻の力が自分を上回っていることに気づいたときには、火野良の体は宙へ持ち上げられかけていた。
「話を聞け!! 落ち着け!」火野良は雨間刻の軸足を払って体勢を崩し、仲間たちと力を合わせて再び地面へ押さえつけた。
「柑々はもうハゲグの守りを調べ上げている……これは彼女が描いた地図だ。毎回、鏡像の分身を放って、こっそり情報を集めてたんだよ……」火野良は服の懐から小さな紙の束を取り出し、雨間刻に小声で告げた。
そこに記されていたのは、間違いなく柑々の筆跡だった!
「どうして俺に言わなかった?」正気を取り戻した雨間刻が尋ねた。
「お前は感情がすぐ顔に出るだろ。先に話したら、柑々の芝居が全部ばれる」火野良は白い目で雨間刻を見て、その場を立ち去った。
…
ドイツ軍に占領されたハゲグの城――
「柑々さん、この豚すね肉のローストはお気に召しましたか? 伝統的なドイツの豚すね肉は硬くてぱさついていますから、あなたの好みに合わせて、わざと柔らかめに焼かせたのです」
ヘメルはハゲグの塔の屋上で、柑々とキャンドルディナーを楽しんでいた。そばには男性の執事NPCが二人。
柑々は豚肉をフォークで刺して目の前に掲げ、川辺でドイツ軍の食料配給を待つ本サーバーのプレイヤーたちを眺めた。胸にはさまざまな思いが入り交じっていた。
「実は、ヘメル様の豚すね肉が柔らかいのは、焼き方ではなく、肉の質が高いからです。フォークだけでも、皮と肉を簡単に切り分けられます。以前、ゲームの中で小さな店を経営していたことがあります。でも、努力すれば料理が成功するとは限らないと気づきました。肉そのものに、初めから質の差があるからです。だから私は学んだんです……必死にレシピを研究するより、上質な肉を探したほうがいい、と」
柑々はにっこり微笑んで料理を置き、人差し指でワイングラスのステムをそっと撫でた。
「では、上質な肉は見つかりましたか?」ヘメルは、柑々の白く滑らかな手の甲をそっと撫でた。
柑々は手のひらを返し、ヘメルの好きなように撫でさせた。それから人差し指を曲げ、彼の手のひらを下から上へ軽くなぞる。ぞくりと痺れるような感覚が、ヘメルの腕を駆け上がった。
柑々は狐のように目を細め、唇を噛んで微笑んだ。最後にはわざとヘメルの指へ自分の指を軽く絡めてから、ようやく手を引いた。
挑発に耐えきれなくなったヘメルは不意に立ち上がり、軍服を整えて柑々へ歩み寄った。
「ヘメル様、もう少し散歩に連れていっていただけませんか?」柑々はすぐにヘメルの胸へ手を当て、またもやその先を求める彼を拒んだ。
「分かりました……」ヘメルは気落ちしたものの、紳士らしさを崩さず、柑々のために木の椅子を引いた。
塔の下まで戻ると、かつて六口弥生を陥れた日、ハゲグ中の男たちが彼女の美貌に熱狂した光景が脳裏をよぎった。本サーバーの男たちの姿は消え、残っているのは険しい顔のドイツ人プレイヤーとNPCの衛兵、そして双頭の鷲が描かれた大旗だけだった。
川辺まで歩いても、対岸で食料を待つプレイヤーたちはまだ立ち去っていなかった。彼らは収容所の囚人のように、ドイツ人プレイヤーたちから監視されている。
一方、ドイツ軍の指導者と肩を並べ、川辺を散歩していた。たった一本の川を隔てただけで、両者の地位がどれほどかけ離れているかは一目瞭然だった。
「君に言われたとおり、ハゲグ周辺の狩場を開放したところ、プレイヤーたちの反応も良くなりました。君は本当に大したものですね」ヘメルは笑いながら言った。
「私なんて、ほんの少しかじった程度です。ヘメル様は人心を操る術をよくご存じなのに、わざと私に進言させ、手柄を譲ってくださったのでしょう?」柑々は恥ずかしそうに微笑み、ヘメルの腕へ自分の腕を絡めた。
「ははっ! 柑々さんは本当に底が知れない! 君なら代理指導者にうってつけでしょうね」ヘメルは笑った。
「代理指導者とは何ですか?」柑々が尋ねた。
「そろそろでしょう……このサーバーは我々が粛清したことで人口が減っています。システムは近隣地域の新規プレイヤーを、このサーバーへ振り分け始めています。すでに一団の新規プレイヤーが、間まもなくレベル80に到達します。我々は彼らに直接干渉できず、新米たちの活動範囲を制限することしかできません。そこで、本サーバーのプレイヤーから一人を代理指導者に選び、第四帝国を代表して初心者たちを管理させます。かつての城主と同等の権限も与えられます」ヘメルは説明した。
「どの王都を任せていただけるのですか?」柑々はすぐに尋ねた。
「好きな場所を選べます。しかし、やめておいたほうがいい。ルースが間違いなく君を狙うでしょう。私のそばに残っても同じことです。今の君は城主と変わらない。もう、あの役立たずの男たちに守ってもらう必要などありません」
ヘメルの手は再び柑々の細い腰を撫で始め、そのまま尻へ伸びていった。
「もう……ほかの人たちは……必要ない……」柑々は考えに沈みかけたが、ヘメルの手をひどく煩わしく感じ、その腕を押しのけた。
再び拒まれたヘメルは逆上し、柑々を壁際へ突き飛ばした。
「柑々さん、君はもう何度も私を拒んでいる。私が何を望んでいるのかも、私が君に至高の権力を与えられることも分かっているでしょう。ならば、そろそろはっきりさせましょう」
ヘメルは柑々の首筋へ唇を押しつけようとした。
「ヘメル様……このゲームでは、そういうことはできないはずでしょう? 何をするつもりですか?」危険を感じた柑々は、すぐにヘメルを押し返した。
「抵抗するふりか? 本当に生まれつきのサキュバスだな……」それを聞いたヘメルはますます興奮し、絹のように滑らかな白い布をゆっくり取り出した。
「これは何?」柑々は眉をひそめて尋ねた。
「これは成人向けコンテンツの制限を解除するためのキーアイテムだ。新世界で手に入れた。白い布越しなら……何をしてもいい……だから、さあ。ずっと君が欲しかったんだ!」ヘメルは白い布を自分の腰に巻きつけると、柑々の両肩を強く押さえ、跪かせようとした。
「嫌……駄目……やめて!」柑々は力いっぱいヘメルを押しのけた。
「影の旅団に手を出してほしくなければ、逆らうな。あそこには、君をとても気にかけている男がいるんだろう?」ヘメルは険しい顔で言った。
柑々の頭の中が突然、真っ白になった……
「私に何の関係があるの? どうして他人のために危険を冒さないといけないの?」
「私がここに残っていること自体、もう誰のことも必要としていない証拠じゃないの?」
考え込む柑々に、ヘメルはすぐさま釘を刺した。
「柑々さん、私を殺してみろ。第四帝国軍の軍靴が、君の仲間たちの家を踏み潰すことになる。君もルースのもとへ送られ、直々に拷問される。そのときになれば、きっと私が恋しくなるでしょう」
「代理指導者に、私をしてくださいますか?」柑々は急に態度を変え、ヘメルの肩へしなだれかかって甘えた。
「代理指導者を決めるのはルースだ。だが、君は私についてくれば、それだけで十分だ」ヘメルは待ちきれない様子で柑々を抱き寄せた。
「分かりました、ヘメル様……少し準備をさせてください。明日は、思う存分一緒に楽しみましょう……」柑々はヘメルの頬へ軽く口づけし、その場を立ち去った。
「ようやく分かってくれたのか! よし、待っているぞ!」ヘメルは唇を舐めて笑った。
扉が閉じた瞬間、柑々の笑みは消えた。
彼女は誰もいない廊下を、一度も振り返らずに歩いていった。
…
柑々……行かないで……行かないでよ……




