※_ソレは焦燥する
ソレはこれからどうすべきか悩んでいた。
状況は最悪に近い。
失敗した。だが、それは回避できるものでもなかった。いや、回避しようと思えば出来たはずだ。
まさか、乗り換えた先が熱病に罹っているとは思いもしなかった。知っていたことであったのに、すっかり失念していた。
それが誤算のひとつ。そしてもうひとつの誤算。
この体の持ち主の執着が、ここまで自身に影響を及ぼすとも思っていなかった。
まさかあの少年を連れ、町へ向かうことを選択するとは自身でも思っても見なかった。
乗り移ったばかりで、まだ元の娘の自我が強く残っていたこともあるだろう。だがそれも、長くとも数時間で消える。にも拘らず、始末もせず、こうして町に至り、治療院に救いを求める選択をしたことに驚くほかなかった。
そして最後の誤算。ロンバルテスに辿り着き門衛に救いを求めた直後に意識を失い、保護されたこと。
気がついたらベッドに寝かされていた。おまけに体のそこかしこが痛み、酷く怠く、まともに動けそうにもない。
治療院が目的ではあったが、どの治療院に運ばれたのか? まるで状況がわからない。だからこそ、大人しく、控えめに、なにより弱々しく振る舞い、情報を集めた。
そして現状がどうなっているのか、世話をしに来た娘や、治療師から話を聞くことができた。よりによって生と死の協会の治療院とは。できうることなら、個人営業の治療院であって欲しかったものだ。
あぁ、そうか。こういう時はどうすれば良いのか。嘆く? 悲しむ? 涙を流す?
いや。足りない。それでは足りない。ソフィアはそれを選ばない。選択すべきは“自失”だ。農場の現実を受け入れられず、呆然とすること。
さして役に立つまいと思っていたが、存外、“演技”は一番に重宝している。
とはいえ、現状、まともに行動できそうもない。快癒するまでは大人しくしているほかないだろう。
だが状況は一変する。
農場での殺人が露見した。あんな外れの地にある農場だ。町との繋がりなど、半月程度は余裕で空いているだろうと思っていたのに。
意識を失っていたのは二日に満たないと聞いている。何故にこんなに早く露見したのか?
ソレはエレンの記憶を手繰り、ひとつ見落としていたものに気付いた。
ボルトン。農場の主である彼は、親類の慶事で二週間ほど前に王都に出掛けていた。きっと、ソレが農場を後にしたころに帰って来たのだろう。
なんとも間の悪い。僅かにでも早ければ、ボルトンも実験し、露見を遅らせることができたであろうに。
事件の捜査に来た役人から事情聴取されることとなった。その際、開かれた病室の扉の向こうから、こちらを伺う子供の姿が見えた。
子供らしくない。やたらと大人びた視線がじっとエレンを見ている。
それは扉が開き、そして閉まるまでの僅かな時間。呼吸にして、せいぜいふたつかみっつあればいい程度の時間だ。ただそれだけだと云うのに、ソレは酷く不安に駆られた。
聴取後、薬を持ってきた娘に聞いたところ、あの子供は【使徒】であると知った。
マズい。
状況の悪さをソレは知った。
使徒がどういった連中であるのかを、ソレは知っている。狩人カドマスの前に乗り移っていた暗殺者が知っていた。
死の理より逸脱した者の絶対的敵対者。不死者を許さぬ者。冥界の神々の神罰執行代行者。
まさにソレにとって天敵といえる存在だ。
逃げなくては。できるだけ速やかに。
だが現状のソレの肉体は病に侵され、まともに動くことはできない。となれば、また新たに肉体を奪わなくてはならない。
それも、この町をいつ離れても怪しまれない者に。
そしてそれをソレは見つけた。
時間がない。
あとは、それをどうやって成すかだ。
周囲を見回す。
端に追いやられたテーブルの上に、リンゴの入った籠。籠の中にはリンゴがふたつ入っている。先ほど、この治療院の職員のオリヴィアが置いていったものだ。ひとつ、丁寧に皮をむいて切り分けたものを、ソレは食べさせてもらった。
籠の陰から、小ぶりのナイフの柄が見える。彼女が置いて行ったのだろう。
ソレは逃れる方法を決めた。
寝台から降り、ナイフを手に取った。武器とするには、あまりにも心もとない薄さの刃、そして短い刃渡り。
果物や野菜の皮を剥くだけのナイフだ。これで十分と云うものだ。そして、ソレにとっても十分な代物だ。
ノエリアは今日、この治癒院を出ることになっている。
治癒士として地方の各村落を回る。これは治療院で各種医療技術を学んだことに対する対価ともいうべきものであり、義務化されているものだ。地方を回るといっても、精々が1年程度の期間だ。
だが彼女はそんなことをするつもりは一切ない。
途上まではその通りに動くが、適当なところで行方不明となるつもりでいる。名前を変えるだけで、別人となるには十分だ。別に犯罪を犯しているわけではないのだから、さした問題はない。
ただ、治療院に属する治癒士に課せられた義務を放棄し、身に着けた技術で金を稼ぐだけ。
それが彼女、ノエリアの価値観である。
帝国に渡り、地方貴族専属治癒士にでも収まることができれば、残りの人生安泰だろう。そうも考えていた。
予定外に警吏による事情聴取に同席するという無駄な時間を取られることになったが、出発を翌日に回す程でもない。
少なくとも、自身の評判を落とすような真似を僅かでも住まいと、彼女は細心の注意を払って活動していた。
彼女とて、あからさまに協会と敵対して目を付けられるつもりはない。
一刻ほど遅れながらも出立の準備を終え、彼女は担当していた患者それぞれに挨拶をして回っていた。
当然エレンの病室にも回り、そして他所よりも少しばかり時間が掛けたあと退室し、その病室周囲に【隠蔽】の魔法を掛けた。
それは、ソレが以前に乗り移った暗殺者から身に付けたものだ。
認識阻害の魔法を改造し組み上げた、設置型の特殊魔法。
その魔法を掛けた場所を認識できなくなるうえ、そこにあった用事をも一時的に忘却させる魔法だ。
魔法の範囲に入った者は、単にド忘れしたとしか思わないため、暗殺者が自身の仕事の発覚を遅らせるのに重宝していた魔法だ。最長で丸一日隠蔽できる魔法であったが、肉体を乗り換えたソレには、その魔法を扱い切れるだけの資質が失せているため、効果時間は数時間程にまで落ちてしまっている。
もっとも、それだけあれば十分だ。
そして協会から出ようとしたとき、受付にいた中年男性に気がつき、足を止めた。
ボルトン。エレンが身を寄せいていた農場の主。
「あ、ノエリアさん。お疲れ様です。こちらボルトンさん。エレンさんの保護者さんです。ボルトンさん、彼女がエレンさんとアレン君の治療を今日まで担当されいたノエリアさんです」
受付席に座っているフェリがボルトンを紹介した。そしてボルトンがそれに続くようにノエリアに礼を述べる。
ボルトンが現われたのはソレにとって誤算であった。だが、これは嬉しい誤算だ。ソレはボルトンの存在を無視していたのだ。所在が不明であったために。
しかもタイミング的には丁度いいといえる。
ソレはボルトンににこやかに対応すると、彼をエレンの病室へと案内することにした。荷物はひとまずフェリに預けておけばいい。
案内し、【隠蔽】を解き入室。と同時に再び魔法を掛け、病室内の惨状に腰を抜かしているボルトンの首にナイフを差し込み殺害する。
この時ナイフは抜かない。病室内に痕跡を、血を残すわけにはいかない。
ソレはボルトンに隠蔽魔法を掛けると、どうどうと治療院内を歩み、治療院裏庭にある枯れて使われなくなった井戸にまで運び、そこへ放り込んだ。
そう簡単に開かないように被せられた蓋は重かったが、ノエリアの力でもどうにか開くことはできた。かなり派手に行動しているが、ボルトンに掛けた【隠蔽】のおかげで、誰にも気付かれることはない。
上手くいけばエレンを殺害したのはボルトンということになるだろう。
さて。あとは蓋を戻し、荷物を回収してロンバルテスから出るだけだ。
ソレは何食わぬ顔で受付へと戻ると、預けた荷物を受け取り、外へ出た。
急がずに、慌てずに、いつも通りに。予定を大幅に超過している焦りを隠しつつ、治療院の厩舎へと向かう。
馬丁に挨拶をし、村落を回るために用意された馬に荷物をくくりつける。
さぁ、とっとと町を離れるとしよう。実のところ、出立するにはもう遅い時間だ。明日にした方がいいと止められるかもしれない。そうなる前に町を出なくては。
挙動不審にならぬよう細心の注意を払いながら、ソレは馬に跨った。
さぁ、あとは町をでるだけだ。だが出た後も用心するに越したことはない。予定のルートは無視しなくては。殺人が露見すれば、きっとボルトンと最後にあった私を追って来るはずだ。
その内心とは裏腹に、ソレはゆったりとした速度で大通りを進んでいった。




