一枝 一葉 六節 父様
桜様との会合を終えた翌日。
私はここ数年で一番すがすがしい朝を迎えていた。
「……痛く、ない」
布団から身を起こして、顔の前で手を開いては閉じてを繰り返す。昨日までは起き上がるだけでも筋肉痛や打撲、痣の痛みで顔をしかめながら起きていたけれど、今日はそれらの痛みが綺麗さっぱり消えている。
ぐっと体伸ばしつつ腕、首、上半身と上から順に自分の体を確認していっても打撲どころか靴擦れの痛みすら感じない。ここ最近、思考に靄がかかっているような、頭が鈍く思い感覚があったけれど、それすらも消え失せている。
私がまだ小さい時には、父様が頼んでくれた医務局の家人に癒やしの巫術をかけてもらった事もあった。それでもここまで綺麗に痛みが消えることはなかった。
「桜様だから、なのでしょうね」
ぐっと手を握りこんで小さく呟く。
桜様の癒やしの巫術の発動と同時に現れた光の奔流。単純に巫術の強さに比例して現れているのなら、これだけ綺麗さっぱり痛みが消え去っているのも頷ける。
ただ、光の奔流が、それすなわち巫術の強さの現れであると結論づけるのはいささか時期尚早だろう。
「……確かめないと」
私自身が、王族としての責務を果たすために。
握った手を開いてぱんっと一回頬をたたく。
頭の奥に残っていた眠気を一気に払いのけた。
****
「やっぱり体が軽い……」
寝間着の上から打ちかけを羽織って、いつもと同じように本殿に向かう。
昨日と同じように靴裏には小石の刺激があるし、空気も冷たくて肺が痛いくらいだけど、足取りも軽く登っていける。今までどれだけ自分が無茶をしていたか、どれだけ追い詰められていたかが分かってしまった。
「父様が心配したのも当たり前ですね……」
思えば、修練を始め、それと同時に山神様参りも始めたわけだけど、その時から父様は必ず朝食を一緒に食べていた。私は単に朝しかゆっくり食べてる時間が無いからかしら?と軽く考えていたけれど、父様は思い詰めた私が心配だったんだろう。どれだけ編纂の仕事が貯まっていたとしても、朝議まで時間が無かったとしても、必ず私の顔を見てお茶だけは一緒に取っていた。
ーー今になってそれに気づくなんて、私も根を詰めすぎでしたね……。
そんなことを考えていたらあっという間に本殿に着いた。
見上げた先にある白銀杉は今日も相変わらずうっすら白く輝いている。
「……もしかしたら、白銀杉も本当は光っていないのでしょうか?」
初めて見たときから白く輝いていたから気にしてなかった。でも、桜様に私の目の特異性を教えてもらった手前、私が見ている世界は皆とは違っている可能性が高い。
ーー桜様にも確認しないと。
頭の片隅にしっかり刻み込む。
でも、今はまず。
「山神様……」
昨日までみたいにきつく手は握らない。
自然な力で両手を組んでそっと額に押し当てる。
目を瞑って一回大きく深呼吸。
心のざわめきを、木々のざわめきに溶かし込んで。
「私の事を、見守っていてください」
もう、山神様には願わない。
今は、桜様が教えてくれたこの目を信じるだけ。
「この目を授けてくれた事、感謝いたします」
そう呟いた瞬間、白銀杉から一陣の風が吹く。
清浄な空気を纏ったその風が、私の事を応援してくれるように思えた。
****
「菜乃華、何かいいことがあったのかい?」
「え?」
山神様参りを終えて書庫殿に戻った私は、いつものように父様と朝食を取っていた。今はほとんど食べ終えて食後のお茶を飲んでいる最中。森半家の煎茶の良い匂いが部屋の中に漂っている。
「昨日と比べて険がとれたというか、穏やかになったというか……そう、雰囲気が柔らかくなってるなぁって」
「そう、ですか?」
いつもと比べてまくし立てるように述べられた言葉の勢いに、つい返事が中途半端になってしまう。なんとなく父様と視線が合わせづらくて、俯いて茶器の水面に視線を落とした。
ゆらりと揺れる水面に、不安そうな、でもどこかすっきりとした表情の私の顔が映る。
確かに昨日までとは表情が違うと思うのと同時に、朝、お参りの時に考えていたことが脳裏をよぎった。
ーー謝らないと。
私に巫術が無いことを一番気に病んでいたのは父様だ。だから、私が巫術を身につけられるように楮乃のご当主様にも頼み込んでくれたし、周囲に巫術がないと周知されてからも、宮廷内に私の居場所があるように書庫殿での仕事を割り振ってくれた。
そして、お参りや修練にのめり込み過ぎていた私を何も言わずにそっと見守ってくれた。
「父様、あの」
「ん?」
伝えなきゃと、思い切って顔を上げたら、父様は優しい顔をして私を見守ってくれていた。
その、あまりにも優しい光をたたえた瞳に、飛び出そうとした言葉が喉の奥で絡まる。
同時に、何故か胸の奥がぐっと締め付けられ涙がこぼれそうになった。
ーー今ここで泣いては駄目。
父様に余計な心配をかけてしまう。
それだけは嫌だった。
「……とう、さま」
「なんだい?」
「…私、父様の子として生まれてきて良かった。今、それを伝えたくなったの」
「……え?」
父様の目がこれでもかと大きく見開かれる。
口もぽかりと開いたままで、その滑稽な姿に行儀が悪いけどくすくすと笑ってしまった。
「ふふっ!父様、顔が変よ?」
「あ、あぁ、ごめんね!」
「ふふふっ!」
わたわたと慌てる父様の手から今にもお茶がこぼれそうになっている茶器をそっと取り上げる。
そのとき、ふわりと視界に明るい金色がよぎった気がした。
ーーあぁ、そうだった。
まだ母様が生きていた頃。
今と同じように、慌てた父様から茶器を預かっていたのは母様だった。
私は、そんな二人を眺めるのがとても好きだった。
こんな大切なことを忘れていたなんて。
ーー改めて、桜様に感謝しなきゃ。
桜様がいなかったら、こんな穏やかな時間を過ごせていたか分からなかったのだから。
「……あのね、父様」
「んんっ!…うん、どうしたの?」
喉を鳴らして気を落ち着かせた父様に真剣に向きあう。
それが、今まで心配ばかりかけてきた私の、精一杯の信頼の証しだから。
「正体は明かせないのだけど、とある人から、私の目について教えてもらったの」
「目?」
「うん。誰から、とは詳しくは言えないのだけど……」
桜様の事は言わない方がいい。私の推測が正しければ、桜様とはいずれ公式の場で出会う事になるだろうから、父様に伝えるのはそれからでも遅くないはず。
……と、言うのは言い訳。
少しだけ、ほんの少しだけ、桜様との逢瀬を楽しみにしてる自分がいる。
父様であっても、いや、父様だからこそ、桜様との逢瀬を邪魔されたくなかった。
「まだ私の目については分からないことが多いけれど、その人も一緒に目について調べてくれることになったの」
「そう……」
「うん。…うまくいけば、神託の儀を超えられると思うの。…ううん、超えてみせる」
「菜乃華……」
「父様、心配をかけているのは分かっているの。でも、もう少しだけでいいの。見守っててくれませんか?」
ぱっと頭を下げて父様に許しを乞う。ついさっき、心配かけすぎたと反省したのに、その舌の根が乾かぬ間にさらなる心労を父様にかけてしまう自分が情けなかった。
「……菜乃華、顔をあげなさい」
「……」
開けた視界の先にいた父様は、さっきまで乃狼狽え具合が嘘のように落ち着いていて、真剣なまなざしで私の事を見据えていた。
「目、か……。菜乃華はヘレナから何か聞いたことはあるかい?」
「母様?いえ、なにも……」
「そうか。突然だったものな……」
異国から嫁いできた母様は、この国の気候に慣れることはなかったのだろう。
五年前にあっけなく流行病で儚くなってしまった。
亡くなるまで本当にあっという間で、寝込んだ母様と話す機会も、見送ることもできなかった。
「私も詳しくは聞けなかったのだけれど、ヘレナも何もないところをじっと見ていることがあったよ」
「それって…!」
「うん。菜乃華の目もヘレナと同じかもしれない」
父様の言葉に思わず腰を浮かせてしまう。
がたりと、机の上の茶器が大きな音を立てた。
「菜乃華の目はヘレナ由来なのかもしれない。私はアルメリアのお義父様達に親書を送ろう。菜乃華、話せる範囲でいいから、菜乃華の目について教えてほしい」
「はい!」
私の大きな声が室の中に響き渡る。その声にはっとして、赤くなる顔を自覚しながらゆっくり椅子に掛け直した。
「えぇっと、よろしくお願いします、父様……」
「ふっ……うん、任されたよ。あぁ、それと」
「何でしょう?」
行儀の悪い態度に恥ずかしくなりながらも、これで話は終わりだろうと思ったら、父様から続きの言葉が出て再度父様に向き合う。
目が合った父様は、表面上は穏やかな顔をしているけれど、その瞳の奥は笑っていなかった。
「とある方については聞かない。ただ、その人が菜乃華の事を害することがあったなら、私は、その人が例えどんな人であっても報復をするからそのつもりで」
「父様……」
「私は、もう二度と家族を失うのはごめんだよ」
その人にちゃんと伝えておいてね?と目を細めて笑う父様から伝わるのは、私と母様に対する深い愛情。
改めて、私は深く父様に頭を下げる。
「はい。必ず」
「うん。菜乃華に、山神様のご加護を」
「……ありがとう、父様」
しっかりと、父様に向けて笑顔を返す。
昨日のような無理矢理作った引きつった笑みを返さずにすんだことが、とても誇らしかった。




