二葉 十八節 白杉の間
「菜乃華、準備は……できているね」
「はい、父様」
戻ってきたなずなに小物を着けてもらっていたら、ちょうど終わったところで父様が私の部屋にきた。
父様は濃紫の単に黒地に金の刺繍の入った袍と袴を纏っていた。頭の冠と合わせて正装を見るのは初めてだ。見慣れないその姿に、いつもの父様ではないような気がして少し戸惑う。
そんな私の内心を察して、分かってるよ、と父様は微笑んで頷いた。
「うんうん。見慣れないよね、この服。今日だけだから、頑張って慣れてね」
「ふふっ!はい、父様」
ふざけて言われたその言葉に、緊張していた気持ちがほぐれる。
くすくす笑い続ける私を、父様は黙って見つめていた。
「父様?」
あまりにもじっと見つめられすぎて、思わず父様に声を掛ける。
すると、父様はさっきまでとは違う、もっと柔らかな表情で微笑んだ。
「いや……菜乃華もとうとう十五歳になったんだなと、感慨深くなってしまってね」
「え……?」
その言葉に驚いていると、父様がゆっくり私の元へ歩み寄ってきた。
そして、髪を乱さないように優しく頭を撫でられた。
「菜乃華。十五歳おめでとう。よくここまで大きな病も怪我もなく育ってくれた……。ありがとう」
「あ……」
喜ばしく、けれど僅かに切なさの籠もった父様の言葉に、胸に温かなものが灯る。
何か言葉を返さないと、と思うのに上手く形にならなくて。
黙って見つめることしかできない私を、それでも父様はやさしく受け入れてくれた。
頭を撫でていた手が、頭に着けた釵子から伸びる組紐に落ちる。
その組紐の色は黒と金と青藍。
「ヘレナの組紐、だね」
「はい……」
その言葉を最後に部屋に沈黙が落ちる。
目の前の新緑の瞳に映るのは、悲しみ。
……どうしてこの場に、母様が居ないのか。
――あぁ、父様も一緒なのですね。
ただ、母様だけが欠けたこの空間が、悲しい。
「……よく、似合っているよ」
「……ありがとうございます」
お互い、瞳に映る悲しみに気づかないふりをしながら微笑み合う。
すると、控えめに部屋の戸が叩かれた。
「柊哉様、時間です。お急ぎくだされ」
「分かった。……行こうか、菜乃華」
「はい」
時間を告げる爺やの声に、緊張が高まる。
父様に気丈に頷き返して、私は父様に続いて部屋を出た。
部屋の外には灰色の狩衣を着た爺やと萩太郎が待っていた。
爺やの狩衣は質素で装飾はないけれど、萩太郎は私と剣舞を奉納するからだろう、爺やの狩衣より光沢があり、格が上のものになっている。
そして、袖口の露紐が母様からの組紐に変わっていた。
私が部屋に出た瞬間、目の前の爺やと萩太郎が素早くその場に跪く。
「菜乃華様、今日の良き日を迎えられた事、この爺が言祝がせていただきます」
「同じく、楮乃家嫡男萩太郎、言祝がせていただきます」
二人揃って朗々と紡がれた言葉に思わず目が丸くなってしまう。
けれど、廊下の遠くの方でこちらを窺う家人の姿を見つけて腑に落ちた。
――ここからもう、私のあり方をみられているのですね。
爺やの格式張った言葉は、彼らへ見せつけるため。
なら、私は。
「面を上げなさい」
顔を真顔で固めて、威厳があるように。
いつもより固い声で二人に上から告げる。
「その言葉、確かに受け取りました。これからも、よろしく頼みます」
言い終えるのと同時に、目尻を弛めて親しみを表す。
遠くの方、家人達の周りの空気が揺れた気がした。
――これで、私も王族であると思い出してくれたら良いのですが……。
少なくとも、今までと同じように軽視してはいけないと印象づけられたら御の字だろう。
息を吐きながら、冷めた視線を家人達の方へ向ける。
私の視線を受けた家人達は肩を震わせ、素早くその場から去って行った。
「はぁ……」
「お見事、菜乃華様」
もう一度ため息を吐いた瞬間、爺や笑みを深めながら立ち上がった。
「さすが、立派な巫見習いですなぁ」
「爺や、からかわないでください」
私の緊張を解すために、わざと芝居がかった言い方をした爺やを窘めた。
その横で、萩太郎が憮然とした顔で家人達が去って行った方向を見ている。
「……は、」
家人たちが去った廊下を見つめていた萩太郎から、嘲りを含んだため息が落ちてきた。
「どう……」
「あぁ、邪魔が入ったせいで時間が迫ってるね。行こう、菜乃華」
ため息の訳を聞こうとしたら、時計を見上げた父様に急かされてしまった。
気になりつつも、先を歩き出した父様と爺やの後を萩太郎と並び歩いて行く。
ちらりと横を窺うと、萩太郎はいつも通りの表情に戻ってしまっていた。
――何が、萩太郎の気に障ったのでしょう?
さっきの家人達の態度は褒められたものではないが、萩太郎の琴線に触れるような事は無かったはず。
何故?と考えている内に父様達の足が止まる。
父様の向こう、大きな襖に描かれているのは大きな杉と雄大な山。
――拝殿中央、白杉の間。
ここで初めて、私は父様以外の王族の方々と謁見する。
「失礼」
爺やが小さく断りを入れて左へと避ける。
――ここから先に入れるのは、王族のみ。
爺やと萩太郎は、謁見の間、白杉の間の横の小部屋で待機することになっている。
私に声を掛ける事も無く、爺やとともに右へ避けた萩太郎を私は目で追わない。
静かに深呼吸をして、爺やが立っていた場所へ歩みを進める。
――ここからが、本当の始まり。
私が、私のまま山神様の巫として生きていく為の、最初の一歩。
――私は、迷いません。
私は、この天峰国で生きていく。
「いきましょう、父様」
父様に小さく微笑みかける。
そんな私に、父様は小さく笑って頷いて、真剣な表情で襖へと顔を向けた。
「松風様、柊哉様をお連れしました」
襖の左側に立っていた爺やが部屋の中へと声を掛ける。
「同じく、菜乃華様をお連れしました」
右側に立つ萩太郎が淡々とした声でそれに続いた。
「……入ってよし」
低く、とても重苦しい声で入室許可が降りる。
その声とともに、目の前の襖がゆっくりと開いた。




