二葉 十五節 神託の儀 前夜
「はぁ……疲れましたね……」
お休みなさいませ、菜乃華様、と続きの間になずなを見送ってしばらく。
私は一人、私室のガラス戸を開けて板の間に座り夜風を浴びていた。
視線の先、雲が掛かり月の見えない夜なのに、淡く輝く白銀杉が見える。
「明日は、とうとう神託の儀……」
暖かな夜風が私の髪を弄ぶ。
口に出してもまだ実感が湧かなかった。
――私は、山神様から神託を賜ることができるのでしょうか?
ずっと、考えないようにしていた事。
それが頭の中を巡って、眠れない。
――剣舞は、もう体が勝手に動くくらいにはなりましたけれど……。
前日になっても、私に山神様の慈悲は訪れなかった。
それが、辛い。
「……はぁ」
――結局、萩太郎との修練は無駄だったのでしょうか……?
萩太郎といえば、父様の部屋でのぶつかり合いの後、何故か態度が軟化した。
これまでの萩太郎は、こちらの事などお構いなしに常に全力で私を潰しに掛かっていた。けれど、あのぶつかり合いの後は、ほんの僅か、こちらを窺うような剣筋に変わったような気がする。
――互いの剣筋を見て、それに合わせるのは剣舞の基本ではありますけれど……調子が狂いますね。
もっとも、爺やが付きっきりで剣舞を見てくれていたので、萩太郎も爺やの目があるところで私に危害を加えられなかっただけかもしれない。
――ひとまず、この三日間で大きな怪我もなく剣舞を合わせられて良かったです。
怪我などしたら、そもそも神楽殿に立てなくなるのだから。
心の中で爺やに感謝を捧げる。
それでもまだ眠気は訪れなくて、思考が巡る。
「……山神様の、神託」
ぼんやりと白銀杉を見ながら独り言が零れる。
書庫殿には当然、歴代の神託の儀が記録された書が収められている。
けれど、私はその書に触れたことはなかった。
もし、その書に神託を賜れなかった王族の末路が書かれていたら。
それは、いつか私が辿る結末そのもので。
榊様に目の特性を教えてもらえなかったら、私はその結末に進むしかなかった。
――榊様が、いてくれて本当に良かった。
榊様のお陰で、私はこの宮廷を生きていける。
「……榊様」
――榊様の神託の儀はどのようなものだったのでしょう?
脳裏に閃く、金の瞳と濡羽色の髪。
巫術の申し子と言われるだけあって、さぞ神託も厳かなものだったのだろう。
――私も見てみたかったな……。
その瞬間。
視界の端を、僅かな白金の光が横切った。
「え……?」
驚いて、視線を手前の雑木林へと落とす。
そこには夜に飲まれた雑木林しかないはずなのに。
拝殿に向かう道から少し外れたところ。
そこから、白金の光が舞うのが見えた。
「榊、様……?」
あの、鮮やかな金色の光。
間違えるはずがない、榊様だ。
――どうして、こんな時間に、あんな場所に……。
立ち上がって、欄干に手を掛け目を凝らす。
雑木林から漏れた白金の光は僅かに空に舞って、消えた。
「待って……!」
叫びながらも立ち上がって部屋を飛び出す。
転げ落ちるように階段を駆け下りて、もどかしく思いながら靴を履いて。
息を切らして向かった雑木林の境。
明かりの巫具の光も届かない、その場所で。
また微かに、白金の光が舞った。
「榊様、ですよね……?」
掠れた声で彼の名を呼ぶ。
沈黙がその場に降りて。
微かに、草をかき分ける音がした。
「……やっぱり、菜乃華にはばれちゃうか」
風が吹き、月を覆っていた雲が晴れる。
零れ落ちた月明かりとともに、苦笑いをしながら榊様が雑木林から歩み出た。
「榊様……!」
「こんばんは、菜乃華」
金の瞳を緩ませて、榊様が微笑む。
思わず、私は榊様の元へ駆け寄った。
「どうしてこちらへ……!謹慎は……?!」
「謹慎は明日解けるよ。さすがにお祖父様も、花咲の奉納に僕を出さないわけにはいかなかったんだろうね」
たった数時間なら、誤差でしょ?と榊様は笑う。
「ですが、私のせいで……」
「謝らないで、菜乃華」
首を振り、私の言葉を遮る榊様。
「蘭寿も伝えたはずだよ。『これは、僕が自分で動いた結果であって、菜乃華に責はない』って」
「あ……」
「僕なら大丈夫。心配しないで」
再度告げられた言葉に、私はそれでも漏れそうな謝罪の言葉が漏れないように、口を引き結んで頷く。
「分かりました……」
「うん。でも、今日菜乃華に直接会えて良かった。本当は、せりかなずなに伝言を託す予定だったから」
「そうです。何故このような時間に、こちらへ?」
夜遅く、謹慎の解けてない榊様自らが書庫殿に来た理由。
――榊様の方でも、何かあったのでは?
脳裏に光を失った青藍の瞳が蘇る。
怖くて、胸の前で手を握りしめた。
「うん、それなんだけど」
榊様の顔から笑みが消える。
思い詰めた表情で、榊様が話し出した。
「萩太郎の事はこっちでも把握してる。菜乃華が萩太郎を元に戻してくれて良かった」
「知っているのですか?萩太郎に何が起こったのか……」
「そっちが把握してる事は、一応」
私の問いかけに、榊様は静かに頷く。
「僕らを襲った襲撃者のことも、楮乃家に招かれた薬師のことも、こっちでも探っているけど、まだ正体は掴めてない……。ごめん」
「榊様……」
悔しそうに顔を俯かせた榊様に、なんて声を掛けたら良いか分からない。
それでも、襲撃者、という言葉に伝えなければいけないことを思い出して、重たい口を開く。
「榊様、あの、襲撃者の事なのですが……」
「どうしたの?何かあった?」
榊様が顔を上げて、口数早く問いかける。
その言葉に緩く首を振りながら、私は答えた。
「いえ、新しい事はなにも……。けれど、あの人は、」
私の目を狙った稲妻。
その前に、この目が捉えた微かな緋色の光。
「稲妻の巫術を放つ際、微かな緋色の光を見ました。襲撃者の巫術の光は緋色です」
「緋色……」
「そして、」
告げづらい内容に、思わず言葉が詰まる。
それでも、と息を飲み込んで榊様に伝えられなかったことを口に出す。
「襲撃者は、榊様と戦っている間は巫術を一切使ってませんでした……。光が一切、見えなかったのです」
「それは……!」
榊様が言葉を無くす。
しばらく黙った榊様は、すぐに強く首を振って動揺を鎮めていた。
「教えてくれて、ありがとう。……そう、あいつは巫術なしであれだけ動けるのか……」
「はい……」
力なく呟かれた榊様の言葉に静かに頷く。
すると、榊様が思い詰めた表情で、私の方を見た。
「襲撃者は僕に対しては巫術を使わなかった……。そして、薬を使われた萩太郎……。これでようやく繋がった」
夜風が一陣、私達の間を吹き抜ける。
月がまた雲に隠れた。
闇に飲まれた視線の先、榊様は私を真っ直ぐ見つめたまま口を開いた。
「……向こうの狙いは、菜乃華の神託の儀の阻止、だ」
葉擦れの音が止まる。
耳が痛いほどの静けさが、私と榊様の間に落ちた。
「私の、神託の儀の阻止……」
呆然と、榊様の言葉を繰り返す。
――何故、私が狙われるのでしょう……?
榊様が目の特性を教えてくれるまでは、私は巫術も使えない“混じりの仔”で……。
そこまで考えてはっとする。
榊様を見返すと、私が気づいたことが榊様も分かったのだろう、重く頷いた。
「私を狙う人は……」
震える体を宥めて、口を開く。
「私の目の事を知っている」
私が宮廷で生きていく為の、唯一の武器。
それを、相手に知られている。
得体のしれない恐怖が私を襲った。
「そう……。だから、あの襲撃者も初撃で菜乃華の目を狙った。菜乃華に、目の力を使わせないために」
険しい表情で榊様が呟く。
「僕への追撃で巫術を使わなかったのは、菜乃華の目が、個人の巫術の色を見分けられると知っていたから」
闇夜に榊様の声が溶けて消える。
「襲撃が失敗し、向こうは狙いを萩太郎に変えた……。おそらく、あの自我のない萩太郎に命令を出すつもりだったんだ」
一際強い風が吹く。
耳障りな葉擦れの音が辺り一面を包んだ。
「“その剣で、菜乃華を殺せ”って……」
体の震えが止まらない。
そんな私の手に榊様の手が伸びた。
温かな両手に、私の手が包まれる。
「菜乃華、気をつけて。明日の神託の儀、嫌な予感がする」
暗闇の中、榊様の声だけが聞こえる。
「萩太郎から薬が抜けていて本当に良かった……。決して萩太郎を離さないで。せりとなずなは君の側に居られない。何かあったとき、動けるのは萩太郎だけだ」
真剣に私を心配する声。
その声に、身のうちから湧いた恐怖が少しずつ収まっていく。
「はい……。必ず」
その言葉とともに、強く頷く。
そんな私を見て、榊様が優しく微笑む。
「菜乃華、大丈夫。俺が必ず、君を守るから」
「……えぇ。頼りにしています、榊様」
その言葉に、榊様と同じように微笑む。
夜風が吹いて、雲が晴れる。
月明かりが、榊様の金の瞳を優しく照らした。




