二葉 十三節裏 消された名
「はっ……」
頭が揺れる。気持ち悪い。
身を貫く強烈な怒りとともに鮮明になった意識。
ここは、と疑問を抱いた次の瞬間、「お帰りなさい」の言葉とともに耐えがたい頭痛と吐き気が俺を襲って。
詳しい状況も把握できないまま、俺は足を引きずるように書庫殿の廊下を歩いていた。
「背負いましょうか?」
「っ、いらねぇ」
――こんな、誰かも分からねぇ奴に身を預けられるかよ!
それでも、今はあいつの新しい付き人……せり、とかいう奴の肩を借りてなんとか歩くだけで精一杯だ。
吐き気を押し殺し、意地で足を動かす。
「……」
そんな俺らのやりとりを、前を歩く爺さんが気配を殺して観察しているのが分かって。
――鬱陶しい……!
見えやしないのに、その背中を睨み付ける。
自分によく似た紺色の髪も。
爺さんの癖に一切隙の見えない歩き方も。
何もかもが気に障った。
「ここなら、邪魔は入らんか……。せり、ご苦労だった」
「はい、爺様」
庭を抜けて、書庫殿に入り歩くこと十五分。
連れてこられたのは、何の変哲も無い、小さな畳の部屋だった。
最低限の家具しかないその部屋は、どこか父上の部屋と似ていて懐かしささえ感じる。
「そろそろ限界であろう?楽にせよ」
「っ、うるせぇ……」
口は動くけれど、体は爺さんの言うとおり限界で。
せりの肩から腕が離れた瞬間、耐えきれずに膝を突いた。
「ぐっ……」
「全く……。せり、水を。冷たいのを頼む」
「分かりました。しばし離れます」
背後でせりが部屋を出て行く気配がした。
這いつくばってる場合じゃねぇ。動かねぇと――頭では分かっているのに、顔が上げられない。
「ほら、飲め」
「あ……?」
俯いた視線の先に差し出されたのは、質素な湯飲みに注がれた水で。
「いら、ね……」
「意地を張るな。『自身を常に最適な状態に保つのも付き人の勤め』と教わっただろう」
楮乃家にある付き人心得の一文を諳んじられて、目を瞠る。
「どうして、それを、」
「良いから飲め。話はそれからだ」
飲まないと話さない、と断固とした意思で爺さんは湯飲みを差し出し続ける。
俺は、ゆっくりと湯飲みに手を伸ばした。
「は……」
――旨い。
思っていた以上に体が渇いていたのだろう。
ぬるい水でも、体に沁みるように旨かった。
「もう一杯いるか?」
「……すまない」
いらない、と言おうとした言葉は、口から出る途中で催促の言葉に変わり。
違う!と否定する前に、爺さんが俺の手から湯飲みを取って部屋の奥へと向かう。
「今あるのはこれだけだ。続きはせりを待て」
そう言って、爺さんは水差しから移した水を俺に手渡す。
受け取った瞬間、躊躇うことなく飲み干した。
「……俺を、こんなところに連れてきてどうするつもりだ」
二杯の水を飲み干し、僅かに回復した俺は、片膝を立て目の前に座る爺さんを睨み付けた。
俺の殺気を正面から受けているはずなのに、爺さんは泰然とそれを受け流している。
俺の殺気を受けても目を逸らさなかったのは、三人だけ。
菜乃華と、榊様と槐様。
――やっぱり、ただもんじゃねぇな。こいつ。
楮乃家では誰も耐えられなかった殺気を受け流すことと言い、せりに気づかれる事無くこちらを窺っていた事と言い、得体が知れない。
悠長に座って話をする気にはなれなかった。
「……ふむ、」
爺さんの口がゆっくり開く。
「蘇芳は碌に息子の教育もできてないのか……。王族の為、樟様の為と八朔に当主を譲るべきではなかったな」
蘇芳、八朔、という名に思考が止まる。
「八朔って祖父様の……。って事は、あんたは……!」
母上に認めてもらう為に読み漁っていた家の書。
そこで見つけた家系図の中、俺の名より二代上に記されていた「八朔」の名。
そこから下に伸びる蘇芳の名とは対照的に、左に書かれていたであろう名は墨で黒く塗りつぶされていて。
俺が理解したのが分かったのか、爺さんの紺の目が愉しそうに弧を描く。
「左様。白梅様の婚約者として側にいたにもかかわらず、家の意向を全て無視し「出涸らし」の樟様へと下った愚か者……」
重い、威圧を伴った声が、俺を押さえつけるようにのし掛かる。
立てていた膝が耐えきれずに崩れた。
「楮乃の“名無し”……かつて、黄蘗と呼ばれていたものだ」
弧を描いていた目が開き、強い意志を伴った視線が俺を射貫く。
その気迫に、一瞬息が止まる。
「……自分達の因縁が姪孫まで及んでいるのは、済まないとは思う」
僅かに視線を下げ、後悔に塗れた声を出す爺……大伯父上。
「だが、」
再度、威厳のある声が俺を押し潰す。
「それを差し引いても、お前の菜乃華様に対する態度は目に余る」
滑らかな動作で大伯父上が立ち上がる。
「そこに直れ、萩太郎。その曲がりきった性根、たたき直してくれようぞ」
俺の前に仁王立ちした大伯父上に、俺はただ、小さく息を飲むしかできなかった。




