二葉 九節 楮乃三葉
「奥様が……楮乃家の奥様が、菜乃華様に会いたいと書庫殿に来ております!」
なずなの声に、私をはじめ皆の間に緊張が走る。
萩太郎を返せ、ということだろうか?でも、萩太郎が書庫殿に来て三日。今すぐに返せということなら昨日に来ていたはず。
――楮乃家の奥様が、何故今になって……?
思惑が分からなかった。
思考に耽る私の耳に、大きな柏手の音が響く。
「まぁ、来られたなら致し方がありませんな。丁重におもてなししましょうぞ」
いち早く平常心を取り戻した爺やが、皆の意識を自らに向けるために手を叩いたのだった。
「せり、そなたは部屋の準備を。なずなは茶の湯を沸かせ。相手は楮乃の奥方だ。甘味の準備も怠るでないぞ?」
「っ、は、わかりました」
「は、はい!では、失礼します……!」
爺やに促され、せりとなずなが部屋を出ていく。
残ったのは私と、父様、爺や、萩太郎の四人。
「さて……」
せりとなずなが下がったのを確認して、爺やが萩太郎を見つめながら思案顔で呟いた。
「狙いは此奴、か?」
「いや、それにしては来る時間が変だ。中途半端すぎる」
爺やの指摘を父様が否定する。
「一昨日や昨日なら分かる。この状態の萩太郎君を手元に置いておきたいんだろうって。でも、丸二日ほぼ放置だ。その間、萩太郎君の様子も変わったところはなかった。目的は萩太郎君じゃない」
「なら、狙いは菜乃華様ということですな」
「だね」
二人の視線が私に定まる。
その視線の鋭さに、私の肩が跳ねた。
「私、ですか……」
「あぁ。どうする?菜乃華」
父様が僅かに心配が滲んだ瞳で私に問いかける。
「あと四日で神託の儀とはいえ、今の菜乃華はまだ正式な王族ではない。僕が隣に付いても問題はないよ」
問題はない、と言いながらも、勧めはしないといった父様の言い方に、首を振って大丈夫と伝える。
「女性同士の茶会に、保護者であるとはいえ父様が参加するのはまずいでしょう。私一人で大丈夫ですよ」
父様の提案をやんわり断り、笑う。
――ここで父様を矢面に立たせたら、私の体面に傷がついてしまう。
それでは、あの時私の体面を守ろうとしてくれた榊様の思いを無碍にしてしまう。
それだけは、したくなかった。
「父様、爺や。私が奥様のお相手をしている間、萩太郎を任せて良いですか?私が狙いと見せかけて、その隙に萩太郎を奪還する、ということも考えられますよね?」
「まぁ、たしかに。でも……」
「そこまでですぞ、柊哉様」
言い募ろうとした父様の言葉を、爺やが毅然と断ち切る。
「菜乃華様が覚悟を固められたのです。いい加減、子離れしなされ」
「……わかったよ。菜乃華、気をつけて」
爺やの言葉に、諦めたように息を吐いた父様に向かって、私は安心してもらえるよう、殊更に優美に微笑んだ。
「えぇ。行って参ります」
****
なずなに案内されたのは、書庫殿の入り口に近い、主家向けの応接室。
板の間には重厚な絨毯が敷かれ、アルメリア調の高級家具で整えられたその部屋に、翡翠のかんざしで紺の髪を結い上げ、黒縮緬の羽織を着たそのご婦人は酷く浮いて見えた。
私は、その女性の正面の椅子に腰掛け、軽く頭を下げた。
「楮乃三葉様。お待たせしましたね」
「いえ。こちらこそ、急なご訪問を許してくださり、感謝いたしますわ」
楮乃の奥様……三葉様は、私の言葉に動じることなく、微かに笑みを浮かべながら泰然としている。
まさに、五大主家の奥方に相応しい振る舞いだった。
「私も、萩太郎様のお母様にお目にかかれて嬉しく思います」
「まぁ、嬉しいお言葉ですわ」
互いに微笑みあいながら、なずなが茶を給仕する時間を稼ぐ。
なずなが下がる時、三葉様の視線が一瞬、なずなの方を向いた。
「……彼女は?」
「私が紬家に頼んだ侍女ですよ。ほら、萩太郎が私の側を離れた時がありましたから」
「そう、ですわね……」
言外に萩太郎の再教育について匂わせると、三葉様が歯切れ悪く返した。
――萩太郎について触れられたくない、ということでしょうか?
なら、父様や爺やの言うとおり、この訪問の目的は私ということになる。
私は気を引き締め直した。
「それで?三葉様は、なぜこのような時間にこちらに?」
指先まで優雅に見えるよう、細心の注意を払って茶器を置いた手をそっと戻す。
蘭寿様の笑みを思い出しながら私も同じように笑う。
――私が、この人を恐れている事を知られてはいけない……。
私は、王族の天峰菜乃華。
楮乃家の奥方に屈する訳にはいかない。
「……このような時間に、と申しますけれど」
三葉様はふっと小さく息を吐いて、落ち着いた声とともに黒の目がぴたりと私を捉える。
幼子を慈しむようにゆるりと弧を描いた瞳に、背筋に汗が伝ったのが分かった。
「菜乃華様の方が先に無作法を行いましたよね?」
「……何のことでしょう?」
袖元で口元を隠し小首を傾げる。
けれど、私の小手先のはぐらかしが主家奥方に通じるわけもなく。
「あらあら、可愛らしい!」
同じように袖元で口を隠し、ころころと少女の様に笑う三葉様。
けれど、黒の瞳はぴたりと私を正面に据えたまま。
そして、三葉様の笑い声が止まる。
「……薄鈍色の髪に、空色の瞳」
笑みを消した三葉様の口から告げられるのは、せりとなずなの色。
「……混じりの仔を私達の屋敷に放ったのは、そちらでしょう?」
核心を突いた言葉が部屋を支配した。
「楮乃家としては、萩太郎の再教育も滞りなく終えております。これ以上、痛くない腹を探られる謂れはありませんよ?」
「滞りなく、って……!」
三葉様の言いように、箍が外れた。
「あんな……!人形の様な姿を「教育」と楮乃家では言うのですか?!」
テーブルに手を突き、三葉様へと身を乗り出す。
「禁止されてる薬を使ってまで、萩太郎の意思を奪う必要はなかったでしょう?!萩太郎には、萩太郎の思いや信念があったのに……!!」
そこまで言って三葉様の方を向いて、凍り付く。
三葉様の黒の瞳は凪いだまま。
……私の言葉は、また、届かない。
「思いや信念、ですか……」
一息吐きながら、私の言葉などなかったかのように茶器に手を伸ばす三葉様。
嫌なくらい指先まで洗練された所作で茶を一口含む。
そして、凪いだ瞳のまま私を見据えた。
「私は、王家の要望に添ったまで」
何の感情も見いだせない、冷えた声が私の胸を掴む。
「そちらが望んだのです。「萩太郎の再教育を」と」
底知れない黒の瞳が、私を捉えて放さない。
「私は、あの子を菜乃華様が扱いやすい様にしたまで」
――あぁ、この人は。
気づいてしまった事実に、背筋が凍る。
――本当に、心の底から、萩太郎に薬を盛ったことが正しいと信じている……。
「そちらの要求通りにしたのですから、混じりを我が屋敷から下げてください。こちらは筋を通したのですから、探られ続けるのは不愉快です」
形の良い眉を顰めて不快感を示す三葉様をこれ以上刺激したくなくて、私は浮かせていた腰を下ろした。
「……わかり、ました」
――三葉様が何を考えているのか、分からない……。
怖い。
私の埒外の常識で動くこの人が、怖い。
「分かっていただけたようで、嬉しいですわ」
袖元で口を隠し、艶やかに笑う三葉様。
私は、得体の知れない彼女にむかって、ただ微笑むことしかできなかった。




