二葉 八節 せりの帰還
萩太郎が私のところへ来てから三日目の朝。
白銀杉参りを終えた私は、自室でなずなが用意してくれたお湯で顔を洗っていた。
なずなが差し出してくれた清潔な手ぬぐいを手に取り、顔を拭う。
手ぬぐいを返すとき、こちらを見つめるなずなと目が合った。
「……ありがとう、なずな」
「いえ」
短い言葉を交わしながら、二人で苦笑いを返す。
二人とも、考えている事は同じだった。
「まだ、萩太郎は戻りませんね……」
「菜乃華様……」
なずなは一瞬痛ましそうに目を細めて、次の瞬間にはぐっと拳を握って意気込んだ。
「今日こそ、萩太郎様は元に戻られますよ!信じましょう!」
「……そうですね」
夜風の語らいの後、萩太郎の自我は戻ることはなく硬直状態が続いている。
誰が呼びかけても、萩太郎の自我は殻に籠もったまま出てくることはなかった。
「本日も昼から剣舞を?」
「えぇ。萩太郎も型通りに動けていますが、神託の儀まであと四日しかありません。できる限り合わせないと」
昨日の昼、爺やが「今、まんじりと待っているだけはいけません」と私と萩太郎を書庫殿の庭へと追い立てた。
いつのまにか、爺やの手には私の薙刀と木刀が握られていて。
「本番と同じ重さの物を準備しました。さぁ、二人とも、舞なされ」と剣舞の確認をされた。
「そこ!遅い!」「今のは互いに切られてましたぞ!」「今は目線は合わずとも、合わせる努力をしなされ!」とそれは大層に指導をしてくださった。
お陰で昨日は萩太郎とともに汗だくで、早々に床についたのだった。
――今日は少し手加減をしてもらいたいのですが……。
難しいだろうな、と苦笑いが漏れる。
それは目の前のなずなも同じだったようで。
「……剣舞の終わりに、甘味をご準備しますね」
「……お願いします」
ささやかななずなの甘やかしが身に沁みる。
もう一度二人で見つめ合って、同時に吹き出し笑い合った。
****
「なずなです。菜乃華様をお連れしました」
「父様、失礼します」
朝の身支度を終えて、なずなの先導のもと父様の部屋を訪ねる。
部屋に入り中を見渡し、昨日までなかった姿を見つけて思わず声を上げた。
「せり!」
「ただいま戻りました、菜乃華様」
私の声に、はにかみながら帰還の挨拶を返すせり。
従者服を着たせりが、父様と爺やと話し込んでいた。
私はせりに近寄って、その手を取る。
「無事で本当に良かったです……!怪我はありませんか?」
「お、大げさですよ、菜乃華様!俺は無事です!」
そう言ってから、はっとして動きが止まったせりを、私は静かに観察する。
せりが言うとおり、確かにどこも怪我はしてなさそうだった。
「菜乃華様、そこまでにしましょうぞ」
「そうだね。初任務をねぎらうのも主の仕事だけど、報告がまだだから後にしようか」
「あ……」
微笑ましいというような父様と爺やの言葉に、顔が熱くなる。
――また、考えずに動いてしまいました……。
こらえ性のない自分を恥じながら、椅子に座った父様へと向かい合う。
「……おはようございます、父様」
「うん、おはよう。菜乃華」
満面の笑みを浮かべた父様が、よくできましたと言わんばかりに挨拶を返してくれた。
けれど、次の瞬間には父様の表情が引き締まったものに変わる。
「さて、おふざけはこれくらいにして……。菜乃華、座りなさい」
「はい」
父様の隣の席へと腰を下ろす。
目の前の席には、自我を失ったままの萩太郎が座っていた。
場が整い、父様が私に向かって黙って頷く。
私はそれに頷き返して、せりの方へと視線を向けた。
「せり、報告を」
なずなが続き間へと下がり、戸を閉めていた爺やが父様の背後へと控える。
皆の視線を一身に受けたせりが、静かに息を吐き胸に手を当てた。
「はい、報告いたします」
せりが語り出した。
「書庫殿を出た後、町人の子に扮装し楮乃家へと向かいました。楮乃家では家人や商家の者など、多くの人が出入りしておりました」
せりは真っ直ぐ私を見つめ、得てきた情報を落としていく。
「商家の方からは詳しい情報は得られなかったのですが、一人分多くの食材を求められたと言っておりました」
「一人分……」
「えぇ。その人物ですが、先に家人からの情報をお伝えします」
せりは一旦息を整えて、続きを話し出す。
「どの家人も『萩太郎様が王族に対し失態を犯した』ということは把握しておりました。そして、『これだから落ちこぼれは』や『落ちこぼれだから仕方がない』と、誰もが萩太郎様を軽んじる発言をしておりました」
「そう……」
せりの言葉に、脳裏に酷く動揺した萩太郎の姿が蘇る。
――あなたは、何を思って楮乃の屋敷で過ごしていたのですか……?
それはきっと、酷く居心地が悪く、苦しいものだったのだろう。
父様も想像したのだろう、その形の良い眉が強く顰められていた。
「……続きを」
「はい。僕は、奥方の部屋周りを整えている侍女に接触することができました。その者によると、再教育を告げられた奥方は、ご当主様よりも酷く怒り、萩太郎に罵声を浴びせていたと。そして、それをご当主様は黙って静観していたそうです」
「え……」
――ご当主は、奥方の言動を静観していた……?
宥める事無く、静観という言葉に嫌な気持ちが胸中に広がった。
「父様……」
「うん……萩太郎君は、辛い環境にいたんだね」
こちらで再教育を引き受ければ良かったかもしれない、と父様が小さく漏らす。
「柊哉様、過ぎた事を言っても詮無いですぞ」
「……そうだね。ごめん、せり君。続けて」
「はい。……おそらく、これが一番重要な情報です」
私達の会話を静かに聞いていたせりの口が開く。
一番重要な情報、という言葉に部屋の空気が一気に引き締まった。
「その侍女は合わせてこう言っておりました。……『再教育を告げられた後、酷くお怒りだった奥様がこっそり誰かを招き入れていた。その者の近くを通った時、変な匂いがした』と……。報告は以上です」
「匂い……ですって!」
せりの言葉とともに脳裏に蘇ったのは、萩太郎から香った、微かな嗅ぎ慣れない匂い。
「菜乃華、心当たりが?」
「えぇ。なずなに父様を呼びに行ってもらった時に、微かに嗅ぎ慣れない匂いがしておりました。これって……」
「あぁ……薬物だね」
父様が深刻そうに頷く。
その後ろ、爺やが大きなため息を吐いた。
「あぁ……やはり、か」
「爺や?」
伏せていた爺やの目が、ゆっくりと開く。
紺の瞳には、深い怒りの念が籠もっていた。
「……一昔前、この爺がまだ若造だった頃、一つの噂話があったのです」
怒りの籠もった重い声が、私の背筋を伸ばす。
爺やは落ち着こうともう一度大きく息を吐いたけれど、その瞳の怒りは全く引いていなかった。
「……子を落ち着かせる薬。癇癪が酷い子供に与えると、人が変わった様に落ち着く、魔法の薬があると。……そして、その噂は本当だったのです」
「それなら、僕も書庫殿で読んだことがある。飲まされた子は、落ち着く代わりに抜け殻の様になってしまったと」
「そんな薬があったのですか……?!」
今の萩太郎そのものの症状に、父様へと詰め寄る。
「薬、というのであれば解毒薬は?!その書にはなんと書かれていたのですか?!」
「落ち着きなさい、菜乃華。……書には、全ての答えが書かれているわけではないよ」
父様の苦渋に満ちた言葉に、嫌な予感が胸を過った。
「え……?」
「……薬の被害はあったけれど、その薬の抜けは早く、子に被害がほとんど出なかった。しかし、状況を重く見た白梅様から、その薬の使用禁止と、制作者の出頭の命が出たけれど……」
「えぇ。使用された薬のほとんどは使用済みで実物は手に入らず、解毒薬を作ることはできなかった。当然、制作者も出てこなかった……。そして、白梅様の命の後、再び噂が流れたのです……」
父様の言葉を引き取った爺やが、重たい口を開く。
「出回った薬は試作品で、子供らへの投与は実験だったのではないか、と……」
「実験……?!そんな、子供達を使って、なんて酷いことを……!」
「菜乃華様、それだけじゃありませんぞ。その薬が今、時を経て此奴に使われたということは……」
「……薬は完成し、今も密かに作られ続けていて、誰かが楮乃家へと流した、と」
父様と爺やの推理に、背筋が凍った。
――白梅様の命を無視して薬を完成させた何者かが、この天峰国にいる……?
女王の命すら無視し、その薬を作り続けた者がいる。
そんな人物が身近にいることが、ただ怖かった。
「た、大変です!」
重苦しい沈黙を破るように、酷く慌てたなずなが続きの間から戻ってきた。
その慌てように、私は立ち上がってなずなの元へと向かう。
「なずな?どうしたの?」
膝に手をついて、荒い息を必死に整えているなずなの肩にそっと手を乗せる。
なずなは二度、三度と大きく息を吐いてから、勢いよく顔を上げた。
「奥様が……楮乃家の奥様が、菜乃華様に会いたいと書庫殿に来ております!」
その言葉に、部屋にいる皆の緊張が高まった。




