二葉 七節 夜の一人語り
日が落ちた廊下を萩太郎の手を取って歩く。
触れる指先に潰れたばかりのまめの感触がある。
「萩太郎、その、痛くはないですか?」
「……?」
萩太郎は小首を傾げて黙ったまま。
問われたことすら理解していないその態度に、楮乃家に対する憤りが募る。
――これだけ萩太郎が費やしてきた努力を、なかったことにするのが本当に正しいと思っているのでしょうか?
楮乃家は萩太郎の何を見てきたのだろう。
彼はずっと、剣に向かい合ってきたのに。
「さ、菜乃華様、着きましたぞ」
「あ……ありがとう、爺や」
思考の淵に沈んでいた私を、爺やの声が現実に引き戻す。
萩太郎に用意された部屋は父様の部屋から二つ離れたところだった。間の部屋に爺やが待機して万事に備えるのだろう。
振り返って萩太郎を見やって、繋いでいた手を離した。
「さぁ、萩太郎、この部屋ですよ」
「はい……」
「では、爺や後は……」
頼みました、と言おうとしたら、爺やが黙って首を振った。
「菜乃華様、萩太郎殿と話をしなされ」
「え?でも……」
今の萩太郎と会話なんて、と思ったのが顔に出たのだろう、「それでもです」と爺やが念を押した。
「話せなくても聞こえているでしょう。菜乃華様が、今何を思い、何を考え行動しているのか、当事者なのですからしっかり話すべきです」
「ですが……」
爺やに答えつつ、ちらりと萩太郎を盗み見る。
表情がない萩太郎は、散々いたぶられた修練の時の萩太郎に似ていて怖いのだ。
――できれば、早く立ち去りたいのですが……。
そんな私の考えも爺やにはお見通しのようで。
「菜乃華様、山神様の巫になろうとする者が逃げてはいけません」
重々しい声で爺やが私を叱る。
「王族は、山神様の声を聞くだけが仕事ではありません。その声を民に届け、それでも溢れた不平不満を裁くのも仕事です」
まぁ、裁くのは今は楮乃家の仕事になっておりますが、と脇道に逸れながらも爺やの話は続く。
「初代陽葵様は山神様の巫となられた後も、民草の元に降り話をしていたと書かれていたでしょう?菜乃華も、山神様の巫を目指すのならば、対話を避けてはいけません」
そう言ってから、爺やの瞳がゆるりと弧を描く。
「大丈夫。もしもがあれば、この爺が控えております故。菜乃華様は言えなかったこと、言いたいことを思う存分こやつにぶつけなされ」
「……ぶつけて萩太郎に怒鳴られても、爺やが助けてくれる?」
「もちろん!完膚なきまでにたたきのめしますぞ!」
私の萩太郎を恐れる気持ちを汲んで、爺やがわざと大きな声で茶化してくれる。
それを聞いて、覚悟ができた。
「分かりました!とことん話してきます!」
「その意気ですぞ!さぁ、行ってらっしゃいませ」
その言葉とともに、爺やが部屋の戸を開けてくれる。
私は、後ろに佇んだままだった萩太郎へと向かい合った。
「……萩太郎、少し話しましょうか」
「はい、菜乃華様」
無感情に萩太郎はただ頷く。
それに胸を痛めながら、私は萩太郎の手を取り部屋へと入った。
部屋の中は簡単にではあるけれど綺麗に整えられていて、畳敷きの部屋に衣装籠や屑籠、畳まれた布団など、必要最低限のものが隅に置かれている。その向こう、ガラス戸で仕切られた先の欄干に、椅子が二脚向かい合ってならんでいた。
――最初から、萩太郎と話をさせるつもりだったのですね。
爺やと父様に踊らされました、と苦笑いが零れる。
でも今は、と萩太郎へと振り返る。
「あちらでもよろしいですか?」
「……はい」
萩太郎が頷くのを確認して、ガラス戸を開けて欄干へと出る。
目の前の椅子に萩太郎を座らせて、私はもう一方の椅子へと腰掛ける。
花咲の暖かな夜風が一陣、私と萩太郎の間を通り抜けた。
「萩太郎……」
「……」
目の前の萩太郎はぼんやりと空を見つめたままだ。
その青藍の瞳には怒りも、憎悪も、軽蔑も浮かんでいない。
ただ、無だった。
「……萩太郎、あなたはこれでいいのですか?」
私の問いかけだけが、夜風すら止んだ静謐な空間にぽつりと広がる。
「私は、あなたの剣を一番受けてきました。だから、あなたがどれだけ真剣に剣に向かい合っていたか、私が一番理解していると思います」
まめだらけの指に節くれ立った手。
まめの下には刃物で切った後治癒したであろう、盛り上がった皮膚もあった。
……彼の努力の証。
「今なら、どうして勝てなかったのか分かります。あなたは、あの中の誰よりもただ努力していた。……まぁ、狙いはとても卑怯だと思いますけど」
萩太郎の狙いは、いつも私の死角を突いていて、とても痛かった。
消えない痣、抉られたような痛み。
それを、少しでもこの人に返したくて、私も必死に薙刀を振るった。
それでも、私が初めて彼を打ち負かすことができたのは、あの緩やかな時の流れの中、微かな巫術の光を捉えた時だった。
不正とも思えるその時がなければ、私は彼にずっと勝つことができなかっただろう。
「……あなたが巫術をほとんど使わなかった。それでも、誰よりも強かった。……剣のみであの強さを身につけたのには、なにか理由があるのでしょう?」
理由、という言葉に微かに萩太郎の指が動いた。
「萩太郎?」
「……あ」
萩太郎の口から、掠れた声が漏れた。
「……お、おれ、は」
耐えきれない、と萩太郎が立ち上がる。
茫洋と彷徨っていた萩太郎の瞳が大きく見開かれ、激しく揺れていた。
「お、れは……!」
萩太郎は手で顔を覆いながら、声を荒げた。
大きく肩で息をしながらも、指の隙間から見える瞳はただ一点を見つめている。
「萩太郎?!萩太郎、しっかりしてください!」
「菜乃華様?!失礼しますぞ!」
私の叫び声に反応した爺やの声が遠くに聞こえる。
爺やに助けを求めようとした瞬間、大きく息を吸った萩太郎から押し殺した、苦痛に満ちた声が漏れた。
「はは、うえ……ちち、うえ……」
そう言ったきり、萩太郎の体から力が抜ける。
意識を失った萩太郎の体が、欄干の向こう側へと倒れていく。
「萩太郎!」
必死に腕を伸ばして、萩太郎の裾を掴む。
けれど、指先に絡む程度の布生地では萩太郎の体重を支えきれなくて。
あっと思う間もなく、指先から裾が逃げた。
――落ちるっ!
顔から血の気が引く。
「っ、この、未熟者が!」
怒鳴り声とともに爺やが駆けつけて、落ちかけた萩太郎の体を掴む。
爺やの腕が、欄干を軋ませるほど強く萩太郎を引き上げた。
「ふぅ……全く、世話が焼ける」
「あ……爺や」
爺やの姿を見て、やっと伸ばした腕を引っ込めた。
爺やは萩太郎を抱えながら、私へと振り返る。
「菜乃華様、許可なく割り込んでしまい、申し訳ありません」
「いえ、助かりました。ありがとう、爺や」
「いやなに、間に合って良かった。にしても……」
爺やは萩太郎を一瞥する。
「こやつ、意識を取り戻したのですか?」
「えぇ……一瞬でしたが」
「ふむ……」
萩太郎を見ながら、爺やが考え込む。
その目は何かを確信めいていて。
「爺や、何か気づいたのですか?」
「……いやなに、まだ確固たるものではありませぬ」
爺やは静かに首を振りつつも、難しい顔のまま萩太郎を見つめ、何かを考え込んでいる。
私も釣られて萩太郎を見た。
あれだけ激しく動揺していた萩太郎は、今は目を閉じ、静かに眠っている。
――私が、萩太郎を怖がらずにもっと話していれば、あれだけ動揺した理由が分かったかもしれないのに。
冷えた夜風が私の髪を弄ぶ。
あれだけ怖いと思った青藍の瞳。
それが今は、酷く遠く感じた。




