二葉 二節 初めての差配
跪いた二人を立ち上がらせて、私は私室の奥に置かれた机へと向かう。
願ったからには即行動すべきだろうと、私は椅子に座って机の前に立つせりへと視線を向けた。
「せり、学んだ隠密とは一体どのようなものですか?」
「隠密、といっても本格的なものではありません。せいぜい、この目立つ姿を目立たないようにするのと、話し方、でしょうか?」
「話し方……」
「えぇ。二週間でかなり様になったでしょう?」
そう言いながら、せりは恥ずかしそうに笑う。
確かに、出会った頃のせりの話し方はもっとぶっきらぼうで、投げやりなものだった。今は主家傍家の出身と言っても違和感がない話し方をしている。表情も柔らかくなり、整った見目も相まって人好きしそうな雰囲気を醸し出していた。
――隠密、といっても、周囲に違和感なく溶け込む力、と考えた方がよさそうですね……。
ならば、と私はせりに考えを告げる。
「せり。あなたには楮乃の屋敷へ向かってもらいます。楮乃の屋敷に出入りする商人や下女と接触して、屋敷の様子を探ってください。せり自身は、屋敷に入ってはいけませんよ?」
屋敷に入らなければ目を付けられることも無いだろうと考えながら、せりに念押しする。
私の為にせりやなずなが傷つくのは嫌だった。
「分かりました」
「聞き出すのに時間が掛かるでしょう。焦らず、自身の身の安全を第一に行動してください」
「はい」
擽ったそうに、はにかみながらせりが頷いた。
それを確認して、私は板の間に座ったままの萩太郎へと視線を向ける。
――今の萩太郎を、このまま屋敷へと帰す訳にはいきません……。
でも、私一人で萩太郎を匿えない。
一週間後に神託の儀を受けるまで、私の立場は曖昧なままなのだ。
弱い立場である私の代わりに、楮乃家に対して盾になってくれる人。
私が思いつくのは一人だけだった。
「なずな」
「はい!」
空色の瞳を輝かせて、なずなが意気込んで応える。
そのわかりやすい態度に少しだけ笑ってから、私はなずなへと指示を出した。
「ふふっ!なずなは私の父様を知っていますか?」
「菜乃華様のお父様……天峰柊哉様のことですね?」
「えぇ。今どこにいるか分かりますか?」
「えっと……」
「柊哉様でしたら、朝議を終えて拝殿から書庫殿へと戻られている頃かと。来週に神託の儀が控えている今、大きな議題もありませんから」
考え込んだなずなに、せりから助け船が出る。
なずなはせりの言葉にぱっと表情を明るくして、大きく頷いた。
「そうです!兄様の言うとおりです!」
「ふふっ!明日からは私の予定だけでなく、父様の予定も抑えておいてくださいね?」
「は、はい!申し訳ありません……」
消沈し謝るなずなに、首を振って気にしてないと伝えるも、なずなにはまだ早かったかなと考える。
――父様は宮廷の色んな場所にいますものね。
起きてから朝食まではここ、書庫殿。朝食後は朝議の為に拝殿へ。朝議が終われば書庫殿へと戻ってくるけれど、そのまま松風様や槐様が居られる本殿へと向かう事もあるし、白梅様が居られる寝殿へと向かう事もある。
拝殿から本殿なら距離は近いが、寝殿はこの書庫殿からは拝殿を挟んで反対側だ。突発的に動かれたらなずなが把握することは難しいだろう。
それでも、今父様が書庫殿にいてくれる幸運に感謝しつつなずなに指示を出す。
「では、なずな。父様をここへ連れてきてください。本当なら、私が父様の元へ向かうのが筋ですが、萩太郎を置いてはいけませんから」
そうなずなに言いつつも、萩太郎に関しては単なる建前だ。
“今回の騒動の中心にいた菜乃華様の行動が、今宮廷内で注視されている”
蘭寿様の言葉を思い出しつつ、脳裏を過るのは、襲撃の際に私の目を狙った雷の巫術の持ち主。
――今回の件で処罰を受けた隊員の中に、あの緋色の光の持ち主はいませんでした……。
処罰された警邏隊と入れ替わる様に姿を消した、榊様と同等に渡り合える巫術使い。
その人もまた、私の行動を探っているはず。
なら、まだ立場が曖昧なこの時期に目立った行動を取るわけにはいかない。
「分かりました!では、少し席を外しますね」
両手の拳を握って、意気込みながらなずなが退室する。
張り切りすぎて転ばないと良いけれど、と思いながら一息吐くと同時に目の前に茶器が置かれた。
「どうぞ。なずなには一歩及びませんが……」
「あら?せりは準備しなくて良いの?」
せりは苦笑いをしながら、手に持っていた急須を盆の上に置いた。
「なずなが出て、僕までいなくなったら菜乃華様がお一人になりますから……なずなが戻るまで僕が側におりますね」
「あ……」
そこまで思い至らなかった事に、顔が熱くなる。
――少し張り切り過ぎてしまいました……。
冷静になるためにも、せりが淹れてくれたお茶を飲む。
出されたのは林全ではなく、位としては一つ下の森仲のお茶だった。
「林全ではないのですね」
「はい。僕はまだ、給仕については練習中ですので。森仲で申し訳ないのですが……」
「大丈夫ですよ。萩太郎へも出してもらっても良いですか?」
「かしこまりました」
せりは淀みない足取りで萩太郎の元へと向かう。
そして、流れるように茶器を萩太郎の前へ置いた。
「どうぞ、萩太郎様」
「……」
ぼんやりと視線が定まらないまま、せりに促された萩太郎が茶器へと手を伸ばす。
そのまま、躊躇うこと無く口を付け飲み干した。
「食事は、促されたら自分でできるのですね」
でもそれは、裏を返すと促されないとできないということで。
――ここまで自我を奪わねばいけないほど、萩太郎は罪を犯したのでしょうか?
胸の奥が痛む。
椅子から立ち上がり、萩太郎の元へと向かう。
私の背後に、せりが静かに控えるのを感じた。
「……萩太郎」
「はい、菜乃華様」
私の声に合わせて、萩太郎が顔を上げる。
暗い青藍の瞳には、眉を顰めて心配そうな顔をしている私が映っていた。
――これでは、駄目。
これでは、萩太郎に届かない。
私は板の間に座り込んで萩太郎を正面から見据えた。
「菜乃華様っ!」
せりの焦った声が後ろから聞こえるけれど、無視する事で押し殺す。
萩太郎は全く動かず、表情すら微動だにせずその場にただ座っている。
ここまで顔を近づけたのは修練の時ぐらいだろうか、いや、ほとんど防具を付けていたしここまでではないか、と考えていたら、開けたままの窓から弱い風が吹き込んできた。
その瞬間、萩太郎からほんの微かに嗅ぎ慣れない匂いが漂ったような気がした。
――これは、何?
お茶ではない、でも、どこかお茶に近いような……?
どこから?と萩太郎にさらに顔を近づけた瞬間。
私室の戸が開いた。
「菜乃華様!柊哉様をお連れしました!……きゃあ!」
「えっと……萩太郎君と仲良くなったのかい……?」
匂いの元を探ろうとしていた私の顔は、萩太郎のうなじ近くにあって。
「ち、」
意識した瞬間、顔が一気に熱くなった。
「違います!!」
私の大きな声が、私室に響き渡った。




