一葉 二十九節 嵐の後
宵闇の襲撃から二週間。
今日、春告風が吹いた。
「暖かい……」
書庫殿の私室の窓を開けて、私は一人、春告風を浴びる。
春告風が吹いた今日から、新しい一年が始まる。
……私は十五の花咲の季節を迎えた。
本来なら今日行うはずだった神託の儀は、前代未聞の「警邏隊による王族襲撃事件」のせいで来週に延期されている。
そのせいか、宮廷内は火を失ったかのように静かだ。
「……あれさえ無ければ、今頃神楽殿にいたのですけどね」
そして、隣にはあの方がいたのかもしれない。
脳裏に浮かんだ金の瞳を、首を振ることで頭の外に追いやる。
「……さて、今日の写本はこれですね」
誰も聞いていないのに、わざと口に出しながら父様から頼まれた写本を手に取る。
ほんの数週間前は当たり前だったこの静寂が、心寂しい気持ちに拍車を掛けた。
そして、その寂しさに忍び寄るように、月明かりの下の濡羽色と金の瞳が私を支配する。
――これでは、駄目。
私は、例え混じりと誹られることになっても、山神様の巫の一人として立つと決めたのだから。
こんなところで郷愁に囚われていてはいけない。
「私は、私にできることをする……」
かつて榊様からもらった言葉を呟いて、胸の前で手を握り込む。
その言葉だけが、今の私の支えだった。
そんな私の思考を裂くように、部屋の戸が控えめに二回叩かれる。
「どうぞ……」
入室を促しつつも、今日は、というか、私に対する来客なんて一体誰なのだろうと、疑問が浮かぶ。
けれど、その疑問は、開いた戸の向こうの深緑の髪ですぐさま霧散した。
「菜乃華様。向かうのが遅くなってしまい、申し訳ありませんでした」
「蘭寿様!それに……せり、なずな!」
「菜乃華様……!」
「菜乃華様、ただいまより、僕達が付き人として側に侍ります」
感極まった様に空色の瞳を潤ませているなずなと、すっかり付き人としての所作を身につけたせりが二人して私の元へと寄ってきた。その後ろを、微笑ましそうな顔をした蘭寿様がゆっくりついてきた。
「この三週間で最低限のことは身につけました。あとは、神託の儀までの一週間で菜乃華様のお側で経験を積めば、それ以降も動けるかと」
「蘭寿様……本当に、何から何までありがとうございます……!なんとお礼をすれば良いのか……」
「お礼は、菜乃華様のこれからの動きで返していただけたら……せり、なずな。茶の準備を」
「はい!」
「かしこまりました。失礼します、菜乃華様」
二人が連れ立って続きの部屋へと去って行く。
静かになった部屋で私は蘭寿様と向かい合った。
……蘭寿様が来たら、ずっと聞きたかった事がある。
「……榊様は、どうお過ごしですか?」
「……つつがなく、お過ごしですよ」
眼鏡の向こうの深緑の瞳が、ついとさりげなく逸らされた。
それだけで理解してしまう。
榊様の謹慎はまだ解けていないのだ、と。
「そう、ですか……」
「……続きは、お茶を飲みながらにしましょうか」
浮かない私の返事に、蘭様は苦笑いを溢しながら窓際の席へと私を誘導する。
「……そうですね」
返事をしながら、私も窓際へと向かう。
春の陽光が室内に満ち、穏やかな空気が流れているはずなのに、私にはどこかよそよそしく感じた。
****
「おいしい……腕を上げましたね、なずな」
「そう言ってもらえて嬉しいです」
「内向きの仕事はなずなの方が上達が早かったですからね。では、僕たちは続きに控えてますので……なずな、いくぞ」
「はい。では、菜乃華様、蘭寿様、失礼いたします」
「失礼します」
揃いの侍従服を着た二人が続きの間へと退出する。それを見届けてから、私は再度茶器に手を伸ばした。
飲み慣れた林全のお茶も、何故かほんのり労られているような、そんな優しい香りがする。
なずなの気遣いが心に沁みた。
「なずなのお茶は、優しい香りがしますね」
同じ事を思ったのか、向かいで同じように茶器に口を付けた蘭寿様が呟く。
それに私は頷いた。
「えぇ……本当に」
「……本当はもっとゆっくりこのお茶を楽しみたいのですが、時間がありません」
蘭様が残念そうに茶器を置く。
私は、それに合わせて茶器を置き、背筋を伸ばした。
「菜乃華さまは、今回の事をどこまでご存じですか?」
「今回の……私達に対する襲撃事件の、ですよね?」
蘭寿様は静かに頷く。
私は静かに息を吐いて、答えた。
「父様から概要は……私達を襲った者達は、警邏隊を罷免され北海に回されたと……」
「えぇ……それですか?」
「……一人だけ、私や榊様に巫術を向けた隊員が、執行人の刑に処されたと、聞いております」
そう答えると、蘭寿様は静かに頷いた。
「えぇ。全てその通りです……そして、今回の騒動の中心にいた菜乃華様の行動が、いま宮廷内で注視されている」
「……はい」
「誰がどう動くか予想できません。二人を側から離さないでください」
「はい、ありがとうございます、蘭寿様」
「これも、榊様のご意思ですから」
ふわりと笑う蘭寿様に、榊様の面影を感じで胸が締めつけられる。
――会えなくても、榊様は私の味方でいてくださるのですね。
あの、月明かりの下で交わした約束のとおり。
思わずこぼれ落ちそうになった涙を、私は目を閉じて堪えた。
「……菜乃華様」
そんな私に、気遣わしげな蘭寿様の声が届く。
ゆっくり目を開けて、その深緑の瞳と向き合った。
「蘭寿様には改めて感謝と……謝罪を」
驚き見開く深緑の瞳を真っ直ぐ見据えつつ、私は深く頭を下げた。
「未成年である私を宮廷の外へと連れだし、それに伴う襲撃の咎を榊様が受けたと聞いております……時が来るまで、私室に謹慎だ、と」
そう、今榊様は、私室に謹慎という名の軟禁処分を
受けている。
本当ならそれは、私と出会わなければ受けるはずのなかった罰で。
――私が混血でさえ無ければ、警邏隊も手を出そうとは思わなかったでしょうし……。
私のせいで人一人の命が失われた事。
私と一緒にいたから榊様が罰を受けた事。
……私だけがお咎めなしという現状が、ただただ恨めしかった。
「菜乃華様、顔を上げてください」
蘭寿様の冷たく鋭い声が私の言葉を遮る。
その響きの冷たさに驚いて、私は顔を上げた。
蘭寿様は冷静な……少し苛立ちの籠もった瞳で私を見据えている。
ひゅっと喉の奥が閉まった。
「……菜乃華様は正式な王女となられます。そのような方が、軽率に頭を下げてはなりません」
「はい……」
蘭寿様の叱責が胸に刺さる。
やはり、まだ私は王族たり得ないと気落ちしてしまう。
覚悟も振る舞いも何もかもが足りない。
そして、私の覚悟や振る舞いに関係なく、今回の事件の様なことはこれからも起こるのだろう。
私が王族としてこの宮廷で過ごす限り、ずっと。
――それでも。
俯きそうになるのを堪えて、蘭寿様の深緑の瞳を見返す。
――私は、混血の王族として山神様の巫になると決めたのです。
だから、こんなところで挫ける訳にはいかない。
改めて決意した私を、蘭寿様は鋭く見返して。
そして、ふっと微笑んだ。
「菜乃華様、そのような過度の自責はおやめください」
「え……?」
「榊様は自らのご意思で動かれました。菜乃華様とお会いすると決めたのも榊様のご意思です」
水面を揺らすように、蘭寿様の声がゆるりと私の耳に届く。
「あの襲撃は私達も想定外でしたが……それでも、ご自身で動かれた結果起こった事に対する責任は、自ら背負いこそすれ、他人に背負わすお方ではありません」
「あ……」
蘭寿様の言葉に、脳裏に上に立つ者として振る舞う榊様の姿が鮮やかに蘇った。
――私が謝罪しても、榊様は喜ばない。
「それでも気になさると言うのなら……菜乃華様は、榊様に託されたことを成していただけたら、榊様は喜ばれると思います」
「榊様から、託されたこと……」
蘇るのは、耳朶に触れた榊様の手の熱さと、月明かりを映した金の瞳。
“この国を……天峰国を救って欲しいんだ”
巫術もろくに使えない、混血の私に何故そんな大逸れた願いを託したのは分からないけれど。
それが、榊様の願いというのならば。
「……精一杯、努めます」
目の前の蘭寿様に、そして、この場にいない榊様に向かって誓いを立てる。
蘭寿様は満足そうに微笑みながら頷いた。
****
「せり、なずな。こちらへ」
お話を終えられてすぐ、蘭寿様は榊様の元へと戻られた。
私は続きの間に控えていたせりとなずなを呼び出す。
二人は先ほどまでとは違う、深く落ち込んだ様子でこちらの部屋へ入ってきた。
「せり?なずな?」
「菜乃華様……」
「菜乃華様、お守りできず、申し訳ありませんでした……」
泣きそうななずなと、悔しそうに言葉を詰まらせたせりが同時に頭を下げる。
「私達、榊様に助けてもらったようなものなのに……!」
「お役にたてないどころか、僕たちの代わりに菜乃華様をお守りしていただいて……謹慎処分も……」
声を潤ませたなずなと後悔に塗れるせりの言葉に、二人は何も知らなかったのだと気づいた。
二人にとっても、榊様は自身の境遇を救ってくれた恩人だ。
きっと、私達三人は同じように後悔している。
だから、私が。
「……ふたりとも、顔を上げなさい」
はっと、二人が顔を上げる。
後悔に塗れる二対の空色の瞳が私を真っ直ぐ射貫く。
……私は、それに怯んではいけない。
だって、私は。
「今回の事に、あなた達の責ではありません。過度に自責する必要はありませんよ」
この二人の主で。
「その代わり……これからは私にしっかり仕えてくれれば、それで結構です」
二人を導くと決めたのだから。
「二人とも、お願いしますね」
そして、この振る舞いが山神様の巫へと……榊様のお側へと繋がると信じて。
「っ、はい!」
「菜乃華様、これからは僕達がお守りいたします……!」
二人の空色の瞳に、強い決意の光が宿る。
そんな二人に、私は穏やかに微笑みかけた。
瞬間。
私室の戸が静かに叩かれる。
部屋に沈黙が落ちた。
「誰でしょう……?」
「俺が開ける。なずな、菜乃華様の隣へ」
「はい、兄様」
私が呟くのと同時に、せりが素早く指示を出して戸へと向かう。
そっと、なずなが私に寄り添った。
扉へ向かったせりが静かに戸を開く。
隙間から覗いたのは、鮮やかな青藍の髪と。
光を無くした、青藍の瞳。
「……菜乃華様」
抑揚のない、平坦な声が私の名を呼ぶ。
その声に侮蔑の響きがないのは、出会ってから初めての事で。
「萩太郎……?」
思わず、その名を呼ぶ。
声の主……萩太郎は、静かにその場に跪く。
「不肖の身ではありますが……楮乃萩太郎、ただいまより菜乃華様に付き従います」
抑揚のない、感情を削いだ声が部屋を支配する。
凪いだ青藍の瞳が無機質に私を射貫いた。
これで第一部完となります。
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