一葉 二十八節 別離
「菜乃華……」
榊様が私の名を呼ぶ。
いつもは優しいその声が、今はやけに固く聞こえて。
冷えた夜風が私達の間を吹き抜けていった。
「……榊、様」
まだ慣れないその名前を静かに呼びながら、金の瞳を見つめる。
揺れることなく私を見つめている金の瞳に、心臓が大きく跳ねた。
「本当に、」
言葉にしつつも、揺れることのない金の瞳で気づいてしまった。
――もう、桜様と過ごしたような穏やかなときは戻らない、と。
「本当に、最後なのですか……?」
たったそれだけの言葉を伝えるのに、声が震える。
金の瞳が静かに伏せられた。
「……あぁ」
「……っ、何故なのです?」
肯定した榊様の言葉に、咄嗟に「嫌です」と言いそうになったのを寸前で堪える。
でも、心の内は荒れ狂ったままだ。
――何故、語らう事すらできないのですか……?
榊様が頷いた今でも信じたくなかった。
例え隣に立てずとも、同じ王族として榊様と切磋琢磨していけると。
歳の近い王族として、これからも交流はできると思っていたのに。
蝋梅の庵で、榊様と茶を飲み交わした景色が色褪せていく。
消えてしまいそうな景色を忘れたくなくて、私は強く目を閉じた。
そこに、榊様の言葉が落ちてくる。
「もともと、この関わりも菜乃華の神託の儀までのつもりだったんだ……邪魔が入って、短くなってしまったけれど」
「神託の儀まで……でも、それを終えたら、私は正式な王族として……」
「そう、正式な王族として……女王候補となる」
「っ……!」
――女王、候補……!
この天峰国は女王制だ。私が正式な王族として認められるということは、女王を継ぐ権利が生まれると言うこと。
――やっと、王族として立派に努めを果たそうと思えたばかりなのに……。
私に女王など務まるはずがない。
けれど、私の意思など関係なく宮廷は動いていく。
私が理解したのが分かったのか、榊様が小さく息を吐いて笑った。
「あぁ、君が女王を目指してないのとは関係なく、君の一挙手一投足に宮廷の皆が注目する……そんな中、婚約者でもない僕との逢瀬は君の名を損ねてしまう。分かるね?」
「……はい」
――分かりたくない。
それでも、榊様は私の事を一番に考えてくださっているから。
ゆっくりと、頷いた。
「……ごめんね、菜乃華」
「……謝らないで、ください」
苦しげに告げられた謝罪の言葉に、緩く首を振って榊様は悪くない、と伝える。
突然の出来事に動揺していたけれど、少し考えれば榊様の指摘はもっともな事で。
……だからこそ、榊様が隠したもう一つの理由にも気づいてしまった。
「……榊様が私と距離を置こうとするのは、それだけが理由ではないですよね?」
単に噂を恐れているだけなら、榊様がこれほど苦しげな顔をするはずがない。それこそ、接触だけを考えるなら蘭寿様を通じてなどやりようはいくらでもあるはず。
それすらも避けなければいけないほど、榊様が警戒しなければいけない相手が宮廷内にいるとしたら……。
「……」
榊様の顔が強ばる。
――あぁ、やはり……。
榊様が「桜」と名乗った理由。
私に正体を隠す為と、もう一つ。
「理由は松風様……ですか?」
周囲にも……松風様にも、その正体を悟らせない為の偽装だったとしたら。
「……菜乃華は、本当に賢いよね」
榊様が観念したように呟く。
「そう、僕の祖父……現王配の松風様は、父の時からこの国に王を立てるのを熱望している。父上は警邏隊へと上手く逃げたが、僕は……」
「巫術の、申し子……」
「そう、逃がしてはくれないだろうね」
金の瞳を苦しそうに歪めながら榊様が笑う。
――そんな顔、見たくありません……。
ままならない、と諦めた様に笑う榊様なんて、見たくなかった。
「菜乃華は、王を立てたいお祖父様からしたら目的を阻む障害でしかない。僕が菜乃華と親しくしていると知ったら、強行手段を取るだろう……今日の襲撃の比じゃないだろうね」
「これも、松風様の仕業だと……?」
「……」
榊様は黙ったままだけれど、否定もされなかった。
……自分を王位に付けるために、刺客を放ったのが実の祖父だとしたら。
今、榊様はどれだけ辛い思いをしているのだろう。
――どうして、榊様がこんな目に……。
そっと榊様の手を取った。
「菜乃華……?」
「……」
夜風に当たり冷えた手に、少しでも温もりが伝わるように。
榊様はお一人ではないと、私がいますと伝わるように。
強く、両手で握りこんだ。
「……榊、様」
溢れそうになる涙を堪えて、顔を上げる。
見上げた先、榊様の金の瞳は月明かりを湛えて儚げに揺れていた。
「私、強くなります……目の力も、先ほどの力も、自分の力にしてみせます!ですから!」
あなたを一人にさせたくない。
その思いだけで、言葉を紡ぐ。
「私が、一人の立派な王族になれたら、側へ……隣へ立っても良いですか?」
金の瞳が大きく見開かれる。
次の瞬間、榊様はとても嬉しそうに笑った。
「あぁ……待ってる」
そう、心の底から嬉しいと告げられた言葉に、心臓が大きく脈打つ。
同時に、胸の奥からむず痒いような気恥ずかしいような、落ち着かない感情が湧いてくる。
――この感情は、一体何……?
なんとなく、榊様の顔が見られなくてそっと顔を俯ける。
でもそれは、榊様の言葉で一瞬で無に帰した。
「菜乃華、顔を上げて」
「え……あ……」
――今は、無理です……!
そう言いたいのに、榊様の声の響きにつられるようにゆっくりと顔が上がる。
儚げに揺れていた金の瞳が、今は確かな輝きをその瞳に宿して私を真摯に見つめている。
また、とくりと心臓が跳ねた。
「……これからは天峰榊として君に接することになるけれど……信じて」
言葉とともに強く手を引かれる。
あ、と思った瞬間、私は榊様の温もりに包まれていた。
「僕は……」
熱い吐息と共に、掠れた声が鼓膜を揺らす。
「俺は、ずっと菜乃華の味方だから」
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