一葉 十六節 決意
まだ興奮冷めやらぬと言わんばかりに、囃し立てる群衆の声がする。
「菜乃華様、立てますか……?」
へたり込んだ私を心配して、蘭様が私の顔をのぞき込んだ。
眼鏡の向こう、深緑の瞳も心配そうな光をたたえている。
それなのに、同じ緑色の瞳が先ほどの執行人の光を思い出させて、思わずびくりと肩を震わせて顔を背けてしまった。
「菜乃華、様……?」
衝撃を受けた蘭様の声が聞こえてきてはっとする。
――私は、なんて失礼な事を……!
「ごめんなさい!何でもないのです……」
慌てて蘭様と向き合い頭を下げる。
それでも、今はまだ彼女の深緑の瞳を見ることができなかった。
「……菜乃華もまだ動揺してるみたいだし、気分転換に散策でもしようか」
私達のやりとりを見守っていた桜様が、わざとらしく声を張り上げて提案した。
私はほっとして桜様に頷いた。
「はい。いきましょう」
ふらつかないように慎重に立ち上がろうとしたら、そっと目の前に手が差し出される。
「あ……」
その手の先、困ったように笑う桜様がいて、思わず私もくすりと笑ってしまう。
――桜様はいつも手を差し伸べてくれますね。
その気遣いが、今はとても温かい。
「……じゃあ、行こうか」
「はい」
一言だけ言葉を交わして二人揃って歩き出す。
今はただ、繋いだ手の温もりだけが心のよすがだった。
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ざぁざぁと勢いよく水が流れていく。
あたりを漂っていた鉄錆の匂いも、花咲の季節前の最後の北風が散らしてくれた。
ひやりとした北風が、群衆の熱に当てられていた頭を優しく冷やしてくれる。
頭を冷やす時間を十分に取ってから、私は桜様に話しかけた。
「桜様……あれは、一体何だったのですか……?」
話そう、と意気込んだはいいものの、先ほど見た光景が信じられなくて言い淀んでしまう。
……桜様が上位者の覇気を纏ってまで「見た方が良い」と言い切った執行人という存在。
今まで書庫殿を出入りしてそれなりの本を読んでいたのに、私はあれの存在を全く知らなかった。
――それどころか、私、罪人がどうなったかの記述を一度も読んだことがない……?
そんなことができるのは、一人だけ。
「……執行人。漆黒の衣を纏った、死をもたらす絶望の存在」
隣の桜様が低く歌うように語り出す。
はっとして桜様の声を注意深く聞く。
「その存在は最古の時代……初代様の、次の代から存在していたらしい」
「そんなに前から、あれが……?」
黒い靄を纏った獣の異形の姿を思い出して、背筋がひやりとする。
そんな私を見て、桜様は繋いだ手を力強く握り返してくれた。
「あぁ。その時から執行人は“初代様の教えを破った、大罪人を裁く者”として、王族と五大主家が存在を確認してきているのだけれど……」
言いよどむ桜様。
ぐっと息を詰めて、重たい口を開いた。
「執行人の詳細は……女王しか知らない。あれがどこの人間なのか、男なのか、女なのか、そもそも生きているのかすら、分からない」
一際強い北風が、私達の間を吹き抜けた。
桜様の外套が激しく私の身に打ち付けられる。
「女王しか……」
打ち明けられた話に呆然としながらも思い浮かんだのは、異形の顔で光っていた新緑の瞳。
……父様と同じ、新緑。
今にも足下が崩れ落ちそうだった。
「菜乃華、僕も教えて欲しいことがある」
隣を歩いていた榊様が立ち止まる。
金の瞳が真っ直ぐ私を射貫いた。
「……君は、あの時、何を見た?」
「……っ!」
吐き出された疑問に、息が止まる。
「教えて欲しい。少なくとも僕らは……僕と蘭には、執行人は、ただその場に立っているようにしか見えなかったんだ」
桜様の言葉に、数歩離れたところを歩いていた蘭様も頷く。
「でも、菜乃華は執行人が動く前……刑を執行する前から酷く怯えていたよね?」
「あ……」
繋いだ手がゆっくりと離れていく。
「……君が見た物を教えて欲しい」
私に向き合った桜様の瞳に射竦められて、私は俯くことすらできない。
――嘘は、吐けない……。
煌めく金の瞳はきっと、私が吐いたその場しのぎの嘘なんて見破ってしまうだろう。
「……あの時、」
魅入られたように、金の瞳から目を逸らせないまま、私の口が語り出す。
「あの時、私には、地面から溢れ出る、黒い靄が見えました……」
「黒い、靄?」
私の言葉に、視界の端、蘭様の顔からさっと血の気が引いたのが見えた。
「その黒い靄は、まるで意思があるようで……執行人の体に纏わり付いて……姿を変えました」
もう忘れてしまいたいのに、その姿は鮮明に脳裏に焼き付いてる。
「靄は、手と顔に纏わり付いて……爪を伸ばし、牙を生やし、耳を尖らせて……目が……」
続きが言えなくて口を閉ざす。
ぎらりと虚ろに光る、父様と同じ新緑の瞳。
それだけは、二人に告げることはできなかった。
「私が見ているものって……一体、何なのでしょうか……?」
私が見ている、巫術の光。
私が見た、獣の異形。
あれだけこの目の力が知りたかったのに。
今は、全てを知るのが怖い。
「黒い靄……獣に姿を変えた執行人……」
桜様の口から独り言がこぼれ落ちる。
桜様の意識は、完全に思考へ沈んでいた。
「……っ、もう、おやめください!!」
私達の思考を遮るように、蘭様が声を上げた。
その声は今にも胸が張り裂けそうな声で。
「あれは……!あれには、お二人はもう、関わらないでください……!」
目に涙を浮かべて、さらに蘭様は言い募る。
「だって、だって、あれは……!」
ひゅっ、と蘭様の喉が鳴る。
蘭様は震える手を口に当てて深呼吸を繰り返すけれど、どんどんと息は荒くなっていって。
蘭様は大きく目を開いて、とうとうその場にしゃがみ込んでしまった。
そして、荒々しい息づかいのまま動かない。
「蘭?!」
「蘭様?!しっかりしてください、蘭様?!」
息が吸えなくなっている蘭様の背を強くさする。
――蘭様は、獣の異形を知っているの……?
聞こうにも、今の蘭様は答えることができない。
蘭様を落ち着かせようとして、数分。
蘭様の呼吸が穏やかなものへと変わった。
「お願いです……桜、さま……菜乃華、さま……」
まだ息が苦しいはずなのに、蘭様は私達の腕に縋って懇願を繰り返す。
必死に繰り返される言葉に、頷きそうになる。
けれど。
「……ごめんなさい、蘭様」
はっきりと、蘭様に告げる。
私の言葉に蘭様が勢いよく頭を上げた。
「……私は、止めません」
眼鏡の向こう、蘭様の深緑の瞳が大きく見開く。
「確かに、怖いです。執行人を知ることは。あの、獣の異形を見てしまったら、尚更。でも……」
私だけが見えるもの。
それを知ることができるのは、私だけなのだから。
「私は、知りたいです。この目が見ているものは何なのか」
少しでも蘭様に安心してもらえるように微笑む。
「それがきっと、私がここにいる理由になるはずだから」
ふわりと、一陣の風が私の香色の髪を揺らした。




