第9章 パレード
午前十時十七分。
渋谷、センター街。
武志を先頭に、五人の行列が進んでいた。
本人に自覚はなかった。
一番前:黒金武志。
二番目:森大輔(非番、制服)。
森は、武志の斜め後ろ二メートルを歩いていた。
制服で、コンビニ袋を下げていた。
コンビニ袋の中には、食べかけのおにぎりと、なぜか飲み物がもう一本、
増えていた。
森は自分でもなぜ飲み物を二本目買ったのか分かっていなかった。
ただ、「この男について歩くなら、水分補給が必要そうだ」という、
職務経験に基づく判断が、どこかで働いていた。
職務ではなかった。
三番目:松田健二。
カメラを肩に担ぎ、左手にマイクを握り、右手でたまに構図を確認し、
口で「マジか……」と一分に一回くらい言っていた。
「マジか」は、撮影中の彼の呼吸みたいなものだった。
四番目、少し離れて:霧島花。
ノートパソコンのバッグを胸に抱き、十二メートルの距離を保ち、
視線は武志の踵に固定されていた。
彼女の頭の中では、スプレッドシートが開いていた。
そのスプレッドシートの新しいシートには、こう書かれていた。
行動追跡ログ 01 / 木曜日 午前十時十七分
対象:センター街を東南東へ進行中。
速度:時速四・二キロ。
同行者:制服警察官(一名)、撮影者(一名)。
目的地:本人も含め誰も知らない模様。
五番目:行列の一番後ろ、二十メートル離れた場所に、
全員が気づいていない人物が歩いていた。
山田浩、四十七歳。
彼はそこに「偶然」到達していた。
偶然ではなかった。
三軒茶屋のアパートが空だったあと、駅に引き返した山田は、
なぜか電車を逆方向に乗ってしまい、気がつけば渋谷にいた。
渋谷に着いてから、なぜここに来たのか分からず、しばらく
交差点を眺めていた。
そこで、見覚えのある後ろ姿が通り過ぎた。
武志の後ろ姿だった。
動画を十四回見ていれば、背中で分かる。
山田は、背中で分かることに気づいた瞬間、
静かに、長いため息をついた。
そして、追いかけ始めた。
追いかけ始めてから、自分が制度的な人間ではなくなりつつあることに
気づいた。
気づいたけれど、足は止まらなかった。
武志は、歩きながら、空を見ていた。
正確には、ビルとビルの間の空を。
渋谷の空は、夕方になるとオレンジになる。
朝は、白と青の中間みたいな色だった。
武志は、その色を見ながら、昨日からずっと考えていた。
「雑やな」と言ったやつは、誰やねん。
右足の軸を見れるやつ。
自分がまだ気づいていなかった、右足の軸のズレに、他人が気づく。
それが意味することは、二つしかなかった。
一つ:そいつは、自分と同じレベルで、動きを見れる人間。
二つ:そいつは、自分を、ずっと昔から、知っている人間。
武志は、二つ目の可能性について、あまり深く考えないようにしていた。
森は、話しかけようか迷っていた。
非番で、制服で、コンビニ袋を持って、変な男の後ろを歩いている
という状況に対し、何か、筋の通った説明をしておきたかった。
でも、説明する相手がいなかった。
自分に説明する必要があった。
森は、ぼそっと言った。
「これ、休暇届け出すべきなのかな。」
武志が前を向いたまま言った。
「聞こえとるで。」
「すみません。」
「別にええけどな。」
「……今、どこ行くんですか?」
「わからん。」
「それ、昨日も言ってましたね。」
「いつもや。」
森は、うなずいた。
うなずいた自分が、なぜ納得しかけているのか、わからなかった。
健二は、歩きながら撮影していた。
長いワンカット。
映画的には贅沢な撮影法。
でも今回は、下手に編集を切ると、流れが壊れる気がした。
武志の歩く背中。その斜め後ろの警察官。
そしてさらに後ろ、遠景に、たぶん霧島花と呼ばれている女性。
健二は、花のことは知らなかった。
ただ、「最近よく見る人」として認識し始めていた。
最初に気づいたのは、二日前の自販機横。
次に気づいたのは、昨日の渋谷スクランブル交差点、ビルの壁際。
そして今朝、改札前のベンチ。
撮影者は、同じ人物が同じ空間に繰り返し現れることに、特に敏感になる。
健二は、花について、一つの結論に達しつつあった。
「この人、対象者の一部になってきている。」
撮影者として、それは事実の問題だった。
感情の問題ではなかった。
事実として、画面の構成要素として、彼女は登場していた。
もう隠しておけなかった。
健二はカメラを、ほんの少しだけ引きで構え直した。
花が、フレームの中に入った。
花は、撮られていることに気づいた。
気づいた瞬間、心臓が跳ねた。
でも、反射神経は研究者の反射神経だった。
彼女は、瞬時に、ポケットからイヤホンを取り出して、片耳に入れた。
そして、スマートフォンを耳に当てて、誰もいない相手と話すふりをした。
「……はい……はい、そうです……いや、今ちょうど駅の近くで……
ええ、そうなんです……はい、じゃあ、後で……」
偶然、渋谷の真ん中で、たまたま同じ方向に歩きながら、電話を
している女性。
カメラに映っていても、それなら、怪しくない。
彼女はそう計算した。
計算している自分が、どれほど怪しいかに、気づかないふりをした。
さらにイヤホンをもう片方の耳にも入れた。
追跡者のはずの彼女は、この瞬間、ポッドキャストを聞きながら
歩いている仕事帰りの大学院生に偽装した。
偽装完了。
完璧だった。
完璧じゃなかった。
健二はカメラの画面を見ながら、ほんの一瞬だけ笑いを噛み殺した。
追跡者の、反射的な偽装。
ほぼ本能だった。
健二は、静かに、心の中で言った。
「この人、観察の訓練、絶対されてる。」
その訓練は、今、完全に逆方向に使われていた。
武志は、歩き続けていた。
彼には「目的地」という概念が、今日は薄かった。
日によって濃さが違った。
今日は薄い日だった。
ただ、昨日のコメントと、右足と、動画②の0:52が、頭の中で
ぐるぐるしていて、それを整理するために、歩いていた。
武志にとって、歩くことは、考えることに近かった。
道場の畳の上では、体で考える。
外の道では、足で考える。
渋谷の地形は、思考のための悪くないレイアウトだった。
長すぎず、短すぎず、人が多すぎず、少なすぎず。
考えごとを、最後まで終わらせるのに、ちょうどよかった。
武志は、センター街を抜け、公園通りを上り、NHK方向に向かっていた。
理由は特になかった。
足がそっちに行った。
公園通りの途中で、武志は急に立ち止まった。
後ろの四人も、それぞれの距離で、それぞれのタイミングで、止まった。
森:二メートル後ろで。
健二:少し遠慮して、三メートル後ろで。
花:十二メートル後ろで、通行人のふりをして。
山田:二十メートル後ろで、ディスプレイを見ているふりをして。
武志は、電柱に寄りかかった。
スマートフォンを出した。
動画②を開いた。
0:52。
再生した。
一時停止した。
右足を、じっと見た。
少しうなずいた。
それから、電柱から離れ、歩き出した。
後ろの四人も、それぞれのタイミングで、歩き始めた。
このパレードは、完全に無言で、完全に不自然で、完全に
正常な人間社会の行列としては成立していなかった。
それでも、渋谷の街は、何事もないように、受け入れていた。
渋谷は、だいたい、いつもこんなものだった。




