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十段を三人倒したので俺は十一段です  作者: 三流小説家QIfengRR


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第8章 自販機で会おう

朝の九時。


駅前の自販機。


武志はそこにいた。


特に意図はなかった。


昨夜からずっと気になっていることがあって、それを考えながら

歩いていたら、なぜかまた渋谷駅前の自販機の前に立っていた。


右足。


動画②の0:52。


「雑やな」と言った誰か。


三つが頭の中で回っていた。


缶コーヒーを買った。


ブラック。


今日は試しに違うのにした。


前のコーヒーに裏切られたので、心機一転、別の会社のコーヒーに

してみた。


飲んだ。


「……いや、これも違うな。」


武志は静かに言った。


朝から負け試合だった。



花は、午前八時四十七分に駅前に到着していた。


十三分早く着いていた。


これは昨日のカフェのときと同じ誤差だった。


彼女は、誤差ではなく習慣であることに気づいた。


この習慣が何を意味するかは考えないことにした。


改札の近くのベンチに座った。


ノートパソコンを開いた。


開いたけれど、画面は見ていなかった。


ただ、ノートパソコンを開いた姿の女の方が、駅前で座っているのに

自然に見える、と計算していた。


計算している自分に気づいた。


計算しなかったことにした。


スマートフォンを出した。


昨夜のドキュメントを開いた。


> 明日 午前九時 駅前自販機


それを消すか迷った。


消さなかった。


代わりに、横にこう書いた。


> これは観察だ。

> 観察は学術的に正当だ。

> 学術的に正当なものは、恥ずかしくない。


それを見た。


三秒見た。


> 恥ずかしい。


と追加した。


保存した。


閉じた。


顔を上げた。


武志が、まっすぐこちらを見ていた。



一瞬、時間が止まった。


花の体感では、三秒。


実際には、たぶん〇・六秒。


武志は、別に彼女を見ていなかった。


彼女の後ろの、駅の出口の方を見ていた。


出口の方に、見覚えのある男がいたからだった。


武志が昨日、山本と戦ったときの警察官――森巡査――が、制服のまま、

コンビニのおにぎりを食べながら、こちらを見ていた。


武志は、森を見た。


森は、武志を見た。


森は、気まずそうに目を逸らした。


でも、場所は変えなかった。


ただ、おにぎりを食べ続けた。


武志は、少しだけ笑いそうになった。


笑わなかった。



花は、武志が自分を見たのだと思っていた〇・六秒の間に、三つのことを

経験した。


一つ目:心臓が一瞬止まった。


二つ目:「変なことにしない」と昨日書いたはずなのに、今朝の自分が

ここにいることの全面的な敗北を悟った。


三つ目:ノートパソコンを閉じ忘れていることに気づいた。


画面には、ドキュメントのタイトルが見えていた。


> 継続観察――対象:黒金武志


武志から読める距離ではない。


花は、それを冷静に確認した。


確認した自分が、冷静な女の自分ではないことに気づいた。


ノートパソコンを閉じた。


閉じたノートパソコンを胸に抱えた。


抱えた自分に、なぜ抱えたのか、と聞いた。


答えは出なかった。



その時、状況が三つに分岐した。


一つ目:武志が、森の方へ歩き出した。


二つ目:花が、反射的に、全く同じ方向へ一歩踏み出した。


三つ目:健二が、改札の向こうから、カメラを肩に担いで、出てきた。


健二は、改札を出た瞬間に、武志と、森と、花を、同時に視界に

入れた。


健二は止まった。


カメラを構えた。


でも、録画は押さなかった。


まだ何も起きていなかったが、何かが起きる前に、押してもいい瞬間が、

そこにはあった。


健二は撮影者として、そういう瞬間を見分けられるようになっていた。


息を止めて、待った。



武志は、森の前に立った。


森は、おにぎりを飲み込んだ。


武志はこう言った。


「ほんまに非番か?」


森は、制服を見下ろした。


「……非番です。」


「制服やん。」


「……予備があるので。」


「制服の予備、非番の日に着るんか。」


森は、しばらく沈黙した。


それから言った。


「……見たかったんです。」


武志は、うなずいた。


「見たいだけで来たんか。」


「はい。」


「捕まえに来たんじゃなくて。」


「はい。」


「個人的に。」


「はい。」


「……本気か?」


「本気です。」


武志は、森を上から下まで見た。


森は、おにぎりの残りを、持つ手に少し力を入れた。


武志は、こう言った。


「ほな、ついてこい。」


森は、驚いた顔をした。


「……どこに?」


「わからん。」


「……分からない場所に?」


「いつもそうや。」


武志は歩き出した。


森は、一瞬迷った。


それから、おにぎりをコンビニの袋に戻して、ついていった。



その全てを、花は見ていた。


ノートパソコンを胸に抱えたまま。


彼女は、自分が今日、この場所に、この時間に来た意味が、

完全に崩壊したことを感じていた。


観察対象は、警察官を引き連れて、どこかへ行こうとしていた。


これは、観察じゃない。


これは、事件だった。


彼女はスマートフォンを出した。


ドキュメントを開いた。


新しい行を書いた。


> 対象、警察官を勧誘。

> 目的不明。

> 行き先不明。

> 本人も行き先を知らない。


保存した。


それから、もう一行だけ追加した。


> 追う。


閉じた。


歩き出した。



健二は、カメラの録画ボタンを押した。


追った。


同時に、花にも気づいていた。


花が武志たちを追い始めていることにも。


健二は、撮影者として、この瞬間を、正しく記録する義務があると感じた。


同時に、人間として、二度と戻れないところに足を踏み入れている気が

した。


彼は、最初の動画を撮った日のことを思い出した。


あの日の自分は、「何を撮るんですか?」と聞いていた。


武志は「歴史や」と答えた。


健二は当時、冗談だと思っていた。


でも最近は、だんだん、冗談じゃなかったんじゃないか、と思い始めて

いた。


カメラを肩に乗せ直した。


追いかけた。



山田は、三軒茶屋の駅に着いた。


地図アプリを開いた。


武志のアパートの、だいたいの場所は特定できていた。


自撮り動画の背景、一昨日の目撃情報、そしてごくわずかに、講道館の

記録システムに残っていた古い住所の半分。


山田は歩き始めた。


でもその瞬間、山田は知らなかった。


彼が訪ねようとしている男は、今、渋谷で、警察官を一人、花を一人、

カメラマンを一人、従えて、どこへ行くとも決めないまま、歩き出して

いたことを。


三軒茶屋のアパートは、空だった。


そして、空のアパートの壁には、

十九世紀の論文よりも先に、

ある投げの理論を書き残した線が、一本あった。


山田は、それをまだ知らなかった。


知らないまま、道を歩き続けていた。


歩きながら、山田は一度だけ、空を見上げた。


晴れていた。


二十二年間、晴れているのに気づく余裕がなかった。


今日は気づいた。


山田は、少しだけ、笑った。


自分でも驚くくらい、自然に。


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