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十段を三人倒したので俺は十一段です  作者: 三流小説家QIfengRR


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第10章 喫茶店「トネリコ」

公園通りから小道に入った先の、古い喫茶店。


看板には「喫茶 トネリコ 創業昭和四十一年」とあった。


扉を開けると、ベルが鳴った。


昭和の音だった。


武志は、店内に入った。


入ってすぐ、カウンターの奥のマスターに、軽く頭を下げた。


マスターは、うなずき返した。


初対面の挨拶ではなかった。


「いつもの」ほどでもなかった。


「何度か来たことがあります」と「明日も来るかもしれません」の

中間みたいな、一年に三回くらい来る客への挨拶だった。


武志は、奥の四人掛けテーブルに座った。



ドアが、二分後にまた鳴った。


森が入ってきた。


森は、武志を見て、立ち止まった。


それから、別のテーブルに座るべきかどうか、三秒迷った。


武志が軽く顎で向かいの席を示した。


森は、向かいに座った。


マスターが水を持ってきた。


森は、メニューを見た。


「……コーヒーを。」


「ブレンドで?」


「はい。」


マスターはうなずいた。



ドアが、さらに四分後に鳴った。


健二が入ってきた。


カメラを持ったまま。


健二は、店の空気を三秒で読んだ。


マスターを見た。


マスターが、わずかに首を振った。


撮影はダメ、という無言の通告だった。


健二はカメラを下ろし、肩から外し、足元に置いた。


そして、武志と森の隣の二人席に座った。


マスターが水を持ってきた。


健二は、少し緊張した声で言った。


「えっと、ブレンド、お願いします。」


マスターがうなずいた。



ドアが、さらに七分後に鳴った。


花が入ってきた。


彼女は、中を見て、全員が中に入ったことを確認した。


彼女は、入る前に三秒立ち止まり、「帰る」「入る」の二択の間で、

脳内を激しく往復した。


入った。


入ってから後悔した。


でも、ここで帰ったら、もっと目立つことに気づいた。


壁際の、二人席に座った。


武志たちからは、斜めに視線の届く位置。


でも、偶然の客として処理されうる位置。


完璧だった。


完璧じゃなかった。



マスターが、彼女にも水を持ってきた。


花は、メニューを開いた。


開いた瞬間、マスターがこう言った。


「お連れさんですか?」


花は、固まった。


マスターの声は、大きくなかった。


ただ、静かな店内では、十分通る音量だった。


武志が、マスターの言葉に、ゆっくり振り向いた。


花と目が、合いそうで、合わなかった。


花が、反射的にメニューを持ち上げて、顔を隠したからだった。


マスターは、花の反応を、三秒見た。


そして、表情を変えずに、こう続けた。


「……いえ、失礼しました。おひとり様ですね。」


花は、メニューの後ろで、静かに息をした。


「はい……。」


マスターは、うなずいた。


戻っていった。


戻る途中で、武志の横を通ったとき、マスターは、武志にだけ

聞こえる声で、こう言った。


「連れだよ。」


武志はうなずいた。



ドアが、さらに十一分後に鳴った。


山田が入ってきた。


山田は、中を見て、止まった。


武志がいた。

制服の警察官がいた。

カメラを抱えた若い男がいた。

壁際で、なぜかメニューで顔を隠している女性がいた。


山田は、この場所が、今、講道館職員の自分にとって、どういう場所

なのかを、三秒で再評価した。


評価結果:ここは完全に、何かが起きている場所だった。


山田は、後ずさりしかけた。


でも、ドアベルが鳴ってしまっていた。


全員が、少なくとも誰かが来たことを、もう知っていた。


帰ると逆に目立つ。


山田は、カウンター席に座った。


カウンターが一番、目立たない席だった。


マスターは、山田を見た。


山田を、数秒、見た。


マスターは、山田を知っているような顔をした。


気のせいかもしれなかった。


「ご注文は?」


「……コーヒーを。」


「ブレンドで?」


「はい。」


マスターはうなずいた。


店の中は、ほとんど無音になった。


五人の客。

誰も、誰のことも知らないふりをしていた。

でも、全員、他の全員の存在を、強烈に意識していた。


マスターが、コーヒー豆を挽き始めた。


ゴリゴリという音だけが、店内に響いた。



二分後、コーヒーが順番に運ばれてきた。


武志の前に一杯。

森の前に一杯。

健二の前に一杯。

花の前に一杯。

山田の前に一杯。


マスターは、最後の一杯を置いた後、カウンターに戻った。


そして、カウンター越しに、五人全員に聞こえる音量で、

こう言った。


「まあ、好きにやってください。」


それだけ言って、彼はカウンターの奥に消えた。



最初に口を開いたのは、武志だった。


彼は、コーヒーを一口飲んだ。


顔をした。


「……ここのは、まあまあやな。」


森が、自分のコーヒーを一口飲んだ。


「……美味しいと思います。」


武志は、森を見た。


「コーヒー分かるんか?」


「あまり。」


「ほな黙っとけ。」


「すみません。」


健二は、二人の会話をカメラに収めたかった。


でも、マスターに首を振られたことを覚えていたので、収めなかった。


収めない代わりに、彼は、頭の中で、このシーンを脚本として

メモしていた。


プロのカメラマンとして、これは、たぶん、アカデミー賞級の

シーンだった。


脚本は:コーヒー、警察官、武道家、

名前のある女の子、名前のない公務員。


ジャンル:不明。



山田は、カウンター席で、自分のコーヒーを見下ろしていた。


今、視界に、黒金武志の後頭部が見えていた。


距離、約三メートル。


十二年ぶりに、藤村恵三を思い出した夜から、今ここまで、

一週間だった。


一週間で、人生が、これほど狭い距離に縮まることが、あるのかと、

山田は思った。


胃のあたりが、少し、うずいた。


コーヒーを一口飲んだ。


苦かった。


制度的には、完全にアウトの状況だった。


でも、コーヒーは、美味しかった。



花は、自分のコーヒーを見ていた。


見ていた。


ずっと見ていた。


飲めなかった。


飲むと、唇が震えそうだった。


観察対象が、三メートル先に座って、コーヒーを飲んでいた。


観察対象が、その向かいで、警察官と、コーヒーについて話していた。


観察対象が、「まあまあ」と言った時点で、花の頭の中の、

「彼は本当に味覚に興味があるのか否か」という長年の問いに、

重要な新データが加わった。


新データは、こうだった。


対象は味覚にこだわりがある。

ただし、言語化能力は限定的。

「まあまあ」と「うまい」と「外れ」の三段階しか

使っていない可能性が高い。


花は、これを頭の中でノートに書いた。


書いている自分に、静かに絶望した。



武志は、二口目を飲んだ。


今度は、何も言わなかった。


ただ、カップを置いた。


静かに言った。


「全員、誰か、紹介しようか。」


店の中の空気が、完全に止まった。


森が、目を見開いた。


健二が、呼吸を止めた。


花が、メニューで、顔を完全に隠した。


山田が、カウンターで、静かに、コーヒーを置いた。


マスターは、カウンターの奥から、顔を出さなかった。


武志は、カップを持ち直した。


「……いや、ちゃうな。紹介されたないんやったら、ええわ。」


誰も、何も言わなかった。


武志は、もう一口飲んだ。



沈黙が、たぶん三十秒続いた。


最初に動いたのは、山田だった。


山田は、カウンター席から、立ち上がった。


ゆっくりと、武志のテーブルの横まで歩いた。


全員が、山田を見ていた。


花も、メニューの端から、そっと見ていた。


山田は、武志の前に立ち、頭を下げた。


そして、こう言った。


「失礼します。講道館の、山田と申します。」


武志は、山田を見上げた。


数秒、見ていた。


それから、ゆっくり言った。


「……俺を落としたやつか?」


山田は、もう一度、頭を下げた。


「……そのうちの一人、です。」


武志は、カップを置いた。


静かに。



そして、武志はこう言った。


「座れや。」


山田は、一瞬、躊躇した。


でも、武志の声には、怒りはなかった。


あるのは、興味だった。


山田は、座った。


武志の、斜め向かいに。


森の、隣に。


森は、山田を見た。


山田は、森を見た。


警察官と、講道館職員。


どちらも、今、職務上、ここに「いないはず」の場所にいた。


二人は、わずかに、同志的な視線を交わした。



その時、花が、思わず、ぽつりと、声を出した。


「あ……。」


誰も聞いていない、はずだった。


でも、店内は静かだった。


武志の耳には、届いた。


武志は、花の方を、ゆっくり見た。


彼女と、初めて、はっきり目が合った。


花の世界から、音が消えた。


武志は、数秒、彼女を見た。


それから、こう言った。


「メニュー、下ろしてええよ。」


花は、メニューを、下ろした。


自分の手が、自分のものじゃないみたいに、勝手に動いた。


武志は、彼女の顔を見た。


認識している、という顔ではなかった。


でも、「この人、最近、見たな」という顔でもなかった。


もっと、もっと薄い、なにか。


「気配、消すん、下手やな。」


武志は、それだけ言った。


花の脳内で、あらゆるスプレッドシートが、同時に爆発した。



健二は、カメラに手を伸ばしたかった。


手を伸ばすべきだった。


でも、マスターの首振りを思い出して、やめた。


歴史的瞬間を、撮影しないという選択は、撮影者にとって、

ほぼ死に等しい行為だった。


でも健二は、今、ひとつの真理に達した。


撮影しない方が、よい瞬間もある。


この真理は、専門学校の三年間で、一度も教わらなかった。


でも今、カウンター席のマスターの後ろ姿が、

そう教えてくれた気がした。



武志は、全員をざっと見渡した。


警察官。

撮影者。

観察者。

講道館職員。

マスター(カウンターの奥からは出てこない)。


武志は、静かに言った。


「ちょっと話、しようか。」


全員が、うなずいた。


うなずいた後、全員が「え、俺も?」という顔をした。


武志は、それには答えなかった。


ただ、三口目のコーヒーを飲んだ。


「……まあまあやな、これ。」


マスターが、カウンターの奥から、静かな声で言った。


「ありがとうございます。」


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