第2章 渋谷の十一段
動画は朝までに四百万回再生された。
昼には八百万。
黒金武志がコンビニでメロンパンを食べ終え、渋谷をぶらつき始める頃には、
一千二百万を超えていた。
コメント欄はもうコメント欄ではなかった。
祭りだった。
誰かが止める前に火薬庫へ突っ込んだタイプの祭り。
【コメント】
Ryusei_fights
「今渋谷おるんやけど こいつどこ?」
TokyoStreetScene
「最初に見つけたやつ今年一番の動画撮れるぞ」
User123
「お願いだからこの人に喧嘩売らないで」
JudoMaster88
「全員、何かする前に動画②の0:52を見ろ
あれはネタじゃない」
└ Ryusei_fights
「コンテンツやろ?」
└ JudoMaster88
「警告だ」
武志は、そのどれも読んでいなかった。
そもそも武志は、あまり文字を読まない。
今の彼は、自販機の前で缶コーヒーを睨んでいた。
メロンパンはもうない。
残る問題はコーヒーだった。
十七種類ある。
多すぎる。
「……多ないか?」
ブラック。
微糖。
カフェオレ。
糖質オフ。
なんか強そうなやつ。
なんか健康そうで信用できんやつ。
多すぎた。
武志は、人生の分かれ道に立たされた男みたいな顔で自販機を見つめた。
――その向かい。
渋谷のカフェ二階、窓際の席。
霧島花は、ノートパソコンと空のコーヒーカップ三つに囲まれていた。
二十一歳。
スポーツ科学専攻。
人の顔より先に重心移動を見るタイプの女。
彼女のスプレッドシートには、これまで二百三十七人の選手が記録されていた。
一時間前に、二百三十八件目が追加された。
黒金武志。
段位:十一段と主張。
年齢:二十代半ば推定。
スタイル:未分類。
特記:添付メモ参照。全部。
花は一晩中、あの三本の動画を見ていた。
特に二本目。
0:52。
止める。
戻す。
進める。
止める。
また戻す。
十四種類の記録済み技と照合。
十一種類の未記録変形技とも照合。
古い文献。
現代の試合映像。
講道館の理論書。
自分のメモ。
全部確認した。
残った結論は、二つだけだった。
十九世紀に理論だけ残され、誰にも再現できなかった技を、
あの男が偶然拾い上げたか。
あるいは。
黒金武志が、何かを発明したか。
二十二歳前後で。
たぶん不機嫌なまま。
しかも、ほぼ無自覚に。
どちらに転んでも異常だった。
花は窓の外を見た。
武志はまだ自販機の前にいた。
今度は缶を二本持ち比べていた。
真剣だった。
意味が分からないくらい真剣だった。
画面を見る。
0:52。
また窓。
武志。
また画面。
また窓。
四分経っていた。
男のコーヒー選びを、四分間観察していたことになる。
これは正常ではない。
花はノートパソコンを閉じた。
開いた。
閉じた。
もう一度、窓を見る。
いなかった。
立ち上がった。
空のカップが一つ倒れた。
その頃、武志はスクランブル交差点の端に立っていた。
特に理由はない。
交差点がそこにあったからだ。
さっきのコーヒーは、まあまあだった。
悪くはない。
ただ、外れだったと思う。
迷ったもう一本のほうが正解だった気がする。
缶を片手で軽く潰す。
振り返りもせず、四メートル先のリサイクルボックスへ放る。
カン、と綺麗に入った。
ポケットに手を突っ込み、信号待ちの群衆を眺めた。
人は左右に流れていく。
武志は動かない。
なのに、誰もぶつからない。
川が岩を避けるように、人の方が自然に道を変えていった。
そのとき。
「おい!」
カメラの音がした。
スマホ五台。
ジンバル付きの高そうなカメラが一台。
どう見ても健二の機材より高い。
持ち主たちは十九から二十五歳くらい。
高価なストリートウェア。
撮られる前提で作られた笑顔。
先頭の男が、頭の中でサムネイルまで完成させた顔で武志を指さす。
「おまえ、十一段のやつやろ?」
武志はグループを見た。
カメラを見た。
またグループを見た。
「……迷子か?」
何人かが笑う。
先頭の男は笑顔を崩さない。
「いやいや、企画やねん。ちょっとチャレンジしたいんよ」
「興味ない」
「すぐ終わるから」
「いらん」
「コンテンツになるし」
「俺はならん」
武志は歩き出した。
グループも動いた。
半円に広がる。
角度を維持する。
導線を塞ぎすぎない。
慣れた動きだった。
先頭の男が横を歩きながら続ける。
「いやでもさ、みんな、おまえが本物の格闘家とは思ってないわけやん?
動画は面白いけど――」
「おもろない」
「じゃあ証明できる?」
武志が止まった。
グループも止まる。
六台のカメラが一斉に角度を上げた。
武志は先頭の男を見た。
怒っていない。
苛立ってもいない。
珍しい虫を見つけた人間の顔だった。
「喧嘩したいんか?」
先頭の男が一瞬黙る。
台本にない質問だった。
「いや、チャレンジっていうか――」
「イエスかノーや」
仲間を見る。
一人がうなずく。
もう一人が手で合図する。
回ってる。続けろ。
先頭の男が肩を張った。
「ああ。やろうや」
武志がうなずく。
「オッケー」
それだけだった。
構えはない。
気合もない。
見るからに分かる準備もない。
立ち位置を、少し変えただけだった。
本当に、少しだけ。
先頭の男が踏み込む。
体格のわりに速い右。
多少の訓練がある動きだった。
だが。
武志は、そこにいなかった。
三十センチ。
ただ、それだけ左へずれた。
次の瞬間。
先頭の男は地面に寝ていた。
こういう場面で「何が起きたか分からなかった」と書くのは、たいてい大げさだ。
今回は違った。
本当に分からなかった。
殴られた感覚はない。
投げられた感覚もない。
重力が急に自分に冷たくなった、みたいだった。
仰向けで渋谷の空を見る。
巨大スクリーン。
洗顔料の広告。
新型スマホ。
どこかから流れる音楽。
仲間のスマホが、全部まだ自分を撮っていた。
「……は?」
武志は、最初の位置からほとんど動いていなかった。
同じ顔で見ている。
「まだあるか?」
二人目が出た。
「俺、ちゃんと練習して――」
言い終わる前に地面。
三人目が出た。
二秒もった。
それでも地面。
四人目と五人目が、同時に一歩だけ下がった。
コンテンツと現実の差を、今学んだ顔だった。
武志は待った。
「……俺らは大丈夫です」
「そうか」
うなずいて、何事もなかったみたいに歩き出した。
背後では三人が転がり、二人が立ち尽くし、
六台のカメラだけが元気に回り続けていた。
先頭の男は起き上がった。
スマホのアップロード画面を見る。
入れるはずだったタイトル:
『偽十一段に喧嘩売ってみたwww』
消した。
数秒考える。
打ち直す。
『十一段にチャレンジしてみた』
少し止まる。
一行追加。
『(本物だった)』
投稿。
交差点の反対側。
霧島花は、完全に静止していた。
カフェから出て、十一メートルの距離で一部始終を見ていた。
メモは取っていなかった。
取るべきだったことを、忘れていた。
代わりにやっていたのは、彼の動きを見ることだった。
動き、というより。
ほとんど動かないのに、周りの人間が次々と地面に落ちていく、
その構造を見ることだった。
経済性。
絶対的な最小限。
パフォーマンスがない。
見せ場がない。
格闘技らしい格闘技の形が、どこにもない。
ただ、ある場所に立っていて、状況の幾何学が組み替わって、
彼はほとんど同じ場所に立ったままだった。
異常だった。
バッグを強く握りしめていることに気づく。
力を抜く。
スマホを取り出す。
スプレッドシートを開く。
二百三十八件目。
追記。
直接観察:渋谷スクランブル交差点
対象:未訓練~半訓練の複数
交戦時間:各二秒以内
総移動量:最小
特記:一件目の処理は、私がアクセスできるいかなるデータベースにも一致しない
指が止まる。
顔を上げる。
武志はまた自販機の前にいた。
さっきと同じ顔をしていた。
缶を二本、軽く疑いながら見比べていた。
何かが、花の顔でほとんど起きかけた。
起きなかった。
新しいセクションを作る。
継続観察――対象:黒金武志
一行目を保存。
二行目を打つ。
変なことにしない。
三秒見る。
消そうか迷う。
残した。
三行目を追加した。
明日 午前九時 駅前自販機
保存。
閉じる。
歩き出す。
更新すべきメモがたくさんあった。




