第1章 黒帯試験に落ちた男
はじめまして。
この作品は、柔道とインターネット文化を混ぜた現代コメディです。
真面目な武道の話というより、
「もし本当に強いのに段位を持っていない男がいたら?」
という発想から始まりました。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
第1章 黒帯試験に落ちた男
講道館の試験室は、畳と消毒液と、静かな失望の匂いがした。
三人の試験官が低い机の後ろに座っている。
白い髪。
落ち着いた目。
動かない姿勢。
五十年間人を投げ続けた者だけが持つ、静けさだった。
その前に立っている男は、まるで竜巻に柔道着を着せたような雰囲気だった。
黒金武志。
頬をぽりぽり掻く。
「ちょっと待ってや。」
中央の試験官が静かにうなずく。
「基本形をお願いします。」
武志は瞬きをした。
「……基本の?」
「はい。」
「子供のやつ?」
「はい。」
道場が静まり返る。
武志はゆっくりと周りを見渡した。
天井。
壁。
窓。
隠しカメラでも探すみたいに。
そして笑った。
「いやいやいや。これジョークやろ?」
誰も笑わない。
試験官はただ待っている。
武志は首の後ろを掻いた。
「いやな。俺もう十年ぐらい大人ぶん投げとんねん。」
「ほんで今さら、お辞儀してステップするやつやれ言うん?」
「そうです。」
武志は畳を見る。
それから試験官を見る。
「……マジかい。」
沈黙。
武志はため息をついた。
「やらんわ。」
そのまま出口へ歩き出す。
背後から声。
「試験を辞退しますか?」
武志は振り返る。
「あんたら俺落とすんやろ?」
「子供の体操やらへんから。」
試験官は静かに言う。
「規定の形を行っていません。」
武志は肩をすくめた。
「アホくさ。」
試験官が紙に何か書く。
中央の試験官が顔を上げた。
「結果。不合格。」
道場が静まり返る。
武志はしばらく立っていた。
そしてゆっくりうなずいた。
「……ほなええわ。」
道場を出た。
— — —
外は東京の午後。
武志は自販機の横に座り、缶コーヒーを開ける。
空を見る。
「なんやねん黒帯試験……」
「子供の遊びみたいなんやれ言うて……」
長い沈黙。
そして急に体を起こした。
「……待てよ。」
指を折って数える。
一本。
二本。
三本。
スマホを取り出す。
検索。
柔道 最高段位
「十段……」
武志は考える。
真剣に。
一分間、考える。
「ほなこうや。」
コーヒーを一口。
「十段が三人おるやろ?」
指を三本立てる。
「そいつら全員倒したら……」
また数える。
「十より上や。」
沈黙。
もう一度数える。
「十……プラス一……」
自分を指さす。
「十一段や。」
武志は立ち上がった。
目がギラギラしている。
周りの通行人を見渡す。
誰も反応しない。
鳩が一羽、足元を歩いていく。
武志は鳩を指さした。
「聞こえたやろ。」
— — —
その夜、武志は求人を投稿した。
— — —
クラウドワークス。
カテゴリ:動画制作・撮影。
内容:
「撮影スタッフ募集。
即日対応可能な方。
軽作業あり。
多少の移動あり。
屋内撮影メイン。
日給一万五千円。
経験不問。
何を撮るか聞かないこと。」
十七人が応募した。
武志は一番安い人を雇った。
— — —
名前は松田健二。
二十二歳。
映像専門学校中退。
現在はコンビニのおにぎりと静かな絶望で生きていた。
翌朝、彼は自分には少し良すぎるカメラを持って現れた。
武志は彼を上から下まで見た。
「カメラ落とすか?」
「落としません。」
「よし。」
健二は武志を見た。
柔道着を。
その目的ありげな表情を。
「……何を撮るんですか?」
武志はもう歩き始めていた。
「歴史や。」
— — —
三日後。
インターネットが爆発した。
同じ週に動画が三本投稿された。
三か所の道場。
三人の超高齢の柔道レジェンド。
一人の全力バカ。
そして毎回カメラを落としそうになるカメラマン。
— — —
【動画①】 阿部道場・埼玉
老師範が低い机で書類を確認していると、引き戸が開いた。
武志が入ってくる。
深々と礼をする。
「すんませんな、先生。」
老人がゆっくり顔を上げる。
「何がです?」
武志はもう動いていた。
次に起きたことは四秒間の出来事だった。
九十一歳の老師範は、片手を上げることができた。
それは助けにならなかった。
カメラが横に傾く。
廊下で弟子が叫ぶ。
レンズの後ろから、健二の声がかすかに漏れた。
「……マジか……」
カメラがなんとか安定する。
ちょうど間に合って、残骸を映した。
その一秒後、画面に手がかかる。
「撮影やめろ!」
暗転。
でも切れる直前の一秒間――
武志がもう一度、丁寧に礼をしていた。
「ありがとうございました、先生。ほんまに。」
— — —
【動画②】 大後体育館・東京
武志が手書きのメモ帳を持って入口に立っている。
カーディガンを着た老人が受付の向こうから目を細めて見ている。
「何か用ですか?」
「はい。」武志がページをめくる。「ちょっと試合してくれません? すぐ終わります。」
「……なぜ?」
「十一段になるため。」
長い沈黙。
老人が一度まばたきする。
「十一段などない。」
「なります。」
また沈黙。
「あなたね――」
武志はもう畳の上にいた。
「ここで待ちます。」
九十三歳の老師範は、武志を一度投げた。
綺麗な。
完璧な。
一本だった。
武志は畳に背中から落ち、三秒間天井を見つめた。
カメラが顔にズームインする。
健二の声、小さく:
「……大丈夫ですか……」
武志が立ち上がった。
「ええ技やな。」
そして老師範をかなり強く投げた。
道場が騒然となった。
カメラが四十五度回転した。
映像には天井、消火器、誰かの左肩、そして畳が映り、最後にやっと武志が映った。
武志は立っていた。
本当に申し訳なさそうな顔をして。
「すんません。すんません。大丈夫ですか?」
老師範は仰向けのまま、天井を見た。
長い間。
「……今の投げは何だ。」
「わからんです。」武志が言う。「今作りました。」
また間。
「……教えてくれ。」
「無理です。」武志が言う。「もう行くんで。」
武志は出て行った。
健二はまだ撮影しながら、老師範を見た。
それから武志が出て行ったドアを見た。
それからカメラを見た。
その表情が言っていた。
専門学校、辞めるんじゃなかった。
— — —
【動画③】 大沢邸・神奈川
これは違った。
老師範が庭に座っていた。
茶を飲んでいた。
完全に静かだった。
武志は石畳を歩いて近づき、庭の端で靴を脱ぎ、丁寧に礼をした。
「先生。」
「はい。」
「十一段になりに来ました。」
老師範がゆっくりカップを置く。
武志をしばらく見る。
それからまたカップを持ち上げる。
「十一段などない。」
「まだな。」
間。
「座りなさい。」
武志は座った。
老師範が茶を注ぐ。
ほぼ一分間、二人は無言だった。
カメラは庭の茂みの後ろから撮影されていた。
健二がいるべき場所では、まったくなかった。
カメラが風で少し揺れた。
それから老師範が静かに言った。
「老人を倒すことが、最強への道だと本気で思っているのか?」
武志はこれを真剣に考えた。
「まずはそこからやと思います。」
老師範は長い間、武志を見た。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……面白い。」
その後のことは、はっきりとは撮影されなかった。
健二は後でこう説明した。
「三回落としそうになりました。
一回目はスピードで。
二回目は信じられなくて。
三回目はちょっと泣いてたので。
説明文には書かないでください。」
武志は勝った。
最終的には。
時間はかかった。
— — —
一週間後。
合計再生数:一千二百万回。
コメント欄は戦場だった。
— — —
【コメント】
User123
「こいつ天才なのか犯罪者なのか分からん マジで聞いてる」
JudoMaster88
「フォームはめちゃくちゃ でも動画②の0:52の投げ
コーチ歴二十年やけど
あれが何なのか分からん」
TokyoTiger
「十一段は存在しないのになぜか信じてしまう おかしい」
SenseiKen
「正式な師範のもとで三十年修行した
三本全部四回見た
こいつは完全にイカれてるか
今現在生きてる中で一番危険な人間か
たぶん両方」
講道館公式(認証済み)
「そのような段位は存在せず、当館は一切関与して――」
└ User123への返信
「もう渋谷におるで 遅い」
松田健二_映像制作
「カメラマンでした。
他のお仕事も受け付けています。
お願いします。」
— — —
一千二百万回目の再生が記録されたその夜。
渋谷のカフェの窓際の席に、一人の女が座っていた。
ノートパソコン一台。
空のコーヒーカップ三つ。
数時間動いていないことを示す種類の静けさ。
名前は霧島花。
動画を見ていた。
三本とも。
十四回目だった。
数えていなかった。
動画②の0:52で一時停止していた。
十一分間、そこで止まっていた。
画面の中で、動きの途中で凍りついていたのは、成立するはずのない投げだった。
体の位置関係がおかしかった。
組み方が型破りだった。
力の角度は、彼女が論文に書いた少なくとも二つの原則に反していた。
それでも老師範は地面にいた。
投げにかかった時間は一秒以内だった。
花は画面に近づいた。
少し離れた。
また近づいた。
スプレッドシートを開いた。
これまで見てきた選手を記録した二百三十七件のエントリー。
一番下までスクロールした。
二百三十八件目を追加した。
名前:黒金武志。
段位:十一段と主張。
年齢:不明。二十代半ば推定。
スタイル:未分類。
特記:添付メモ参照。全部。
凍りついた画面を見た。
それから、他の二百三十七件のどれに対してもしなかったことをした。
最初から動画をもう一度見た。
分析のためではなく。
ただ見るために。
終わったとき、花は空になったカフェで、外の街の音を聞きながら、冷えたコーヒー三杯とともに、しばらく動かなかった。
それからノートパソコンを閉じた。
ジャケットを着た。
カフェを出た。
外は渋谷の夜だった。
うるさくて、明るくて、あらゆる方向に動く見知らぬ人々で溢れていた。
花は交差点まで歩いた。
端に立った。
群衆を見た。
彼はいなかった。
当然いなかった。
深夜だった。
それでもしばらくそこに立っていた。
それからスマートフォンを取り出した。
スプレッドシートを開いた。
二百三十八件目にもう一行追加した。
直接見る必要がある。
スマートフォンをしまった。
交差点をもう一度見た。
家に帰った。
あまり眠れなかった。
書くべきメモがたくさんあった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
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コメントも大歓迎です。
作者の励みになります。
次の話もよろしくお願いします。




