第19章 喧嘩、売りに
翌朝、午前十時。
講道館、本部、正面玄関。
老人と、武志は、ゆっくりと、階段を、上がった。
老人は、白い、道着の、上着だけを、
薄い、ジャケットの代わりに、着ていた。
ズボンは、普段の、黒いズボン。
足元は、運動靴。
腰には、黒い帯。
色は、あせていた。
でも、巻き方は、完璧だった。
武志は、自分の、道着を、着ていた。
こちらは、新品だった。
昨日の夜、買った。
玄関を、入ると、受付の、女性が、目を、上げた。
彼女の、目は、即座に、三つのことを、認識した。
一:高齢の、道着の、男性。
二:若い、道着の、男性。
三:有名な、あの、黒金武志。
彼女は、一瞬、呼吸を、止めた。
それから、プロとして、静かに、こう言った。
「……本日、お約束は。」
老人は、首を、振った。
「ない。」
「……失礼ですが、どちら様でしょうか。」
老人は、ゆっくり、受付に、近づいた。
身分証を、出さなかった。
名刺も、出さなかった。
ただ、こう、言った。
「……山田浩、呼んでくれ。」
受付の女性は、うなずいた。
「広報の、山田、でしょうか。」
「せや。」
「お名前を、伺っても。」
老人は、少し、考えた。
それから、こう、言った。
「『先生のとこに、昨日、茶、二本、持ってきた件』
って、伝えてくれ。」
受付の女性は、その奇妙な伝言を、メモに取った。
取りながら、ペンが、少し、震えていた。
内線で、山田は、呼び出された。
受付の女性の、声は、珍しく、緊張していた。
「山田さん、お客様です。」
「誰ですか。」
「ご芳名は、伺えませんでしたが……」
「……はい。」
「伝言があります。」
「どうぞ。」
「……『先生のとこに、昨日、茶、二本、持ってきた件』、
と、おっしゃっています。」
山田は、スマートフォンを、落としかけた。
落とさなかったのは、二十二年の、制度的握力のおかげだった。
「……すぐ、降ります。」
山田は、自分の、ネクタイを、外した。
外してから、机の、引き出しに、入れた。
引き出しの、奥に、押し込んだ。
もう、二度と、戻さない、つもりで。
そして、立ち上がった。
一階に、降りると、老人と、武志が、
受付の、ソファに、座っていた。
二人とも、体格的には、大きくなかった。
でも、ソファが、二人の、重みで、
実際よりも、深く、沈んでいるように、見えた。
山田は、二人の前に、立ち、深く、頭を、下げた。
老人は、立ち上がった。
立ち上がっただけで、山田の、視界の、
縮尺が、変わった気がした。
「山田君、やったな。」
「はい。」
「よう、昨日、来てくれたな。」
「……はい。」
「ほんで、ネクタイ、外したか。」
山田は、一瞬、止まった。
「……はい。」
老人は、うなずいた。
「ええ、判断や。」
「……ありがとうございます。」
老人は、静かに、こう、続けた。
「今日、館長、おるか?」
山田は、深く、呼吸した。
「……います。」
「呼んでくれ。」
「……呼ぶ、というのは。」
「会いに行きたい、と、伝えてくれ。」
「なんと、お伝えすれば。」
老人は、少し、考えた。
それから、ゆっくりと、こう、言った。
「……名前のない、十一段が、来た、と。」
山田は、息を、飲んだ。
そして、深く、頭を、下げた。
「……かしこまりました。」
山田は、階段を、上った。
三階の、館長室まで。
一段、一段、上がるたびに、二十二年の、
自分が、少しずつ、軽くなった。
軽すぎて、怖かった。
でも、軽さは、嫌いではなかった。
館長室の、前で、彼は、止まった。
ノックの、作法を、忘れるかと、思った。
忘れなかった。
体は、二十二年を、覚えていた。
ノックした。
「どうぞ。」
入った。
館長は、七十八歳。
現役の、柔道九段。
穏やかな、顔立ち。
山田は、頭を、下げた。
「館長、ご相談が。」
「何か、あったか。」
「……一階に、お客様が。」
「どちら様だ。」
山田は、息を、吸った。
それから、静かに、言った。
「……名前のない、十一段、が、
お会いしたい、と。」
館長の、目が、一瞬、鋭く、なった。
本当に、一瞬。
それから、穏やかさに、戻った。
「……ほう。」
「はい。」
「若い男も、一緒か。」
「……はい、黒金武志です。」
館長は、うなずいた。
「山田君。」
「はい。」
「通してくれ。」
「……かしこまりました。」
山田は、階段を、下りた。
今度は、少し、速かった。
一段、一段、下りるたびに、胸が、鳴った。
老人と、武志の前に、戻り、頭を、下げた。
「……館長が、お目にかかります。」
老人は、うなずいた。
「ええな。」
武志は、うなずいた。
「はい。」
三人は、階段を、上り始めた。
老人の、足は、軽かった。
八十を、超えているとは、思えなかった。
武志は、後ろから、静かに、ついていった。
山田は、先頭で、導いた。
階段の、真ん中あたりで、老人は、ぽつりと、言った。
「……山田君。」
「はい。」
「お前、明日から、うちの、弟子になるか?」
山田は、足を、止めかけた。
止めなかった。
止めたら、老人の、ペースを、崩すと、
本能的に、感じた。
「……弟子、ですか。」
「稽古、受けてみんか、って話や。」
「……私は、講道館の、職員です。」
「だから何や。」
「……兼業、禁止です。」
「誰が、そんなこと、決めた。」
「……規定で。」
「破れ。」
山田は、笑いかけた。
笑わなかった。
でも、内側で、静かに、笑った。
「……検討、致します。」
「検討するな。破れ。」
「……はい。」
武志は、後ろで、小さく、言った。
「……先生、あっさり、弟子増やすんや。」
老人は、振り返りもせず、こう言った。
「お前が増やしたんやろ、わしの仕事を。」
武志は、うなずいた。
「……すんません。」
「ええわ。たまには、仕事したる。」
館長室、到着。
山田は、ドアを、ノックした。
館長が、自ら、開けた。
扉を、開けた瞬間、館長と、老人の、目が、合った。
一秒、二秒、三秒。
館長は、ゆっくり、頭を、下げた。
深く。
九段が、無段の、男に、頭を、下げていた。
老人は、軽く、うなずいた。
返礼は、しなかった。
する必要が、なかった。
館長は、顔を、上げた。
静かに、こう言った。
「……お久しぶりです、兄さん。」
山田は、息が、止まった。
「兄さん」。
老人と、館長は、兄弟弟子だった。
老人は、講道館の、制度の、内側にも、
かつて、いた人間だった。
ただ、ある時、消えた。
講道館の、記録には、残っていなかった。
記録には、残らないように、消えた。
山田の、二十二年は、その事実を、
今、この瞬間、知った。
老人は、館長を、見た。
それから、こう言った。
「……お前、まだ、館長、やっとるんか。」
「はい。」
「辛くないか。」
「辛いです。」
老人は、うなずいた。
「辞めろ、とは、言わん。」
「はい。」
「ただ、お前の、次の、仕事を、作ろうと思って、来た。」
館長は、少しだけ、目を、細めた。
「……お聞き、します。」
老人は、振り返り、武志を、指した。
「これや。」
「黒金武志。」
「十一段、自称。」
「実際、まだ、雑。」
「でも、雑が取れれば、たぶん、強い。」
「そこで、な。」
老人は、館長に、近づいた。
一歩、二歩、三歩。
館長の、すぐ、前。
静かに、こう、言った。
「……この子を、講道館の、預かり、にせえ。」
山田の、世界が、停止した。




