第18章 公園
NHKの、裏の、小さな、公園。
砂場と、ブランコと、ベンチ一つ。
子供は、いなかった。
夕方だった。
公園の、片隅に、誰かが、育てているらしい、
アジサイが、数本、咲いていた。
老人は、公園に入ると、ベンチに、座った。
武志は、ベンチの前に、立った。
老人は、武志に、こう言った。
「座らんでええ。」
「はい。」
「そこ、立っとけ。」
「はい。」
武志は、立った。
老人は、リュックを、下ろした。
中から、小さな、タオルを、出した。
顔を、軽く、拭いた。
それから、水筒を、出した。
蓋を、開けた。
お茶の匂いがした。
老人は、一口、飲んだ。
「……旨いな。」
独り言だった。
武志は、何も、言わなかった。
後ろの、四人は、公園の、外に、立っていた。
柵の、外。
中に入るべきか、外で待つべきか、誰も、
指示を、受けていなかった。
指示を、出す人間も、いなかった。
だから、全員、外で、立っていた。
健二は、カメラを、構え続けていた。
距離が、遠かった。
音は、拾えなかった。
でも、映像だけは、撮った。
森は、制服のまま、腕を組んだ。
花は、ノートパソコンのバッグを、胸に、抱えた。
山田は、一歩、前に、出かけて、すぐに、下がった。
自分が、この場に、参加する資格は、ないと、思った。
ただ、見届けるだけだった。
老人は、水筒を、閉めた。
リュックに、戻した。
それから、ベンチから、立ち上がった。
背中が、少し、丸かった。
でも、丸さの中に、バネが、あった。
老人は、武志の、前に、立った。
身長差、二十センチ。
でも、武志の方が、小さく見えた。
老人は、こう言った。
「……俺を、投げてみい。」
武志は、一瞬、止まった。
止まった後、こう言った。
「……本気で、ですか。」
「本気で。」
「先生、怪我しますよ。」
「せん。」
「絶対、ですか。」
「絶対や。」
「……はい。」
武志は、構えた。
構えかけて、構えを、崩した。
なぜなら、老人の前で、構える自分が、
馬鹿らしく、見えたからだった。
構えた瞬間、老人が、すでに、
自分の動きを、読んでいる、と、感じた。
武志は、構えを、解き、ただ、立った。
両手を、下げた。
肩の力を、抜いた。
呼吸だけ、深く、した。
老人は、うなずいた。
「それや。」
「はい。」
「来い。」
「はい。」
武志は、動いた。
何が、起きたか、はっきりとは、言えない。
武志は、老人の、襟を、取りに、行った。
行った。
行った、のだが。
右手が、空を、掴んだ。
左手も、空を、掴んだ。
老人は、そこに、いなかった。
三センチほど、後ろに、ずれていた。
たった、三センチ。
でも、それだけで、武志の両手は、
空を、掴んでいた。
武志は、即座に、前に、一歩、出た。
老人は、同じだけ、後ろに、下がった。
三センチ。
また、届かなかった。
武志は、さらに、前に、出た。
老人は、同じだけ、下がった。
三センチ。
武志は、三歩、進んだ。
老人は、三歩、下がった。
二人は、砂場を、半分ほど、横切った。
老人の、足は、地面を、蹴っていなかった。
滑っているようにも、見えなかった。
ただ、武志の、手が、届かなかった。
物理の、法則に、反しているように、見えた。
でも、誰が見ても、老人は、ちゃんと、歩いていた。
柵の、外。
花は、目を、見開いていた。
呼吸が、止まっていた。
数秒間、彼女は、自分が、研究者であったことを、
完全に、忘れていた。
ただ、見ていた。
人間が、届かない、ということが、どれほど、
美しい、ことなのか、初めて、知った。
触れない。
掴めない。
合わない。
ずれている。
それは、空手でも、柔道でも、合気道でも、
なかった。
もっと、薄い、なにか。
彼女の、脳内の、全スプレッドシートが、
沈黙していた。
書けなかった。
書こうとしても、カテゴリが、なかった。
初めて、「未分類」という言葉が、
「未発見」の、意味を、持って、響いた。
山田は、唇を、噛んでいた。
噛んでいるのに、気づかず、噛み続けていた。
痛みは、感じていなかった。
彼の、脳内では、藤村の、論文が、
ページを、めくりながら、再生されていた。
実践者は、相手を、投げない。
相手は、自ら、投げられる。
実践者は、ただ、そこにいるだけだ。
でも、この老人は、その、さらに、手前を、
やっていた。
実践者は、そこに、いない。
相手は、自ら、届かない。
実践者は、ただ、呼吸しているだけだ。
山田は、唇から、少しだけ、血が、滲んだ。
武志は、砂場の、向こう端で、止まった。
止まってから、三秒、動かなかった。
それから、ゆっくりと、立ち上がった、というか、
もう、立っていたのだが、肩を、下ろした。
笑った。
本当に、小さく。
「……敵わんな。」
老人は、こう、答えた。
「当たり前や。」
「……はい。」
「動画で、十一段、名乗ったんやろ。」
「はい。」
「十一段は、わしや。」
武志は、即座に、頭を、下げた。
「すんませんでした。」
老人は、首を、振った。
「違う。」
「……え?」
「十一段は、わしや、って言うたのは、冗談や。」
武志は、顔を、上げた。
「……先生、冗談、言うんですか。」
「たまに、な。」
武志は、少しだけ、口元が、緩んだ。
「……四年ぶりに聞きました。」
「せやろ。」
老人は、歩きながら、武志に、こう言った。
「段位、いらんのや。」
「はい。」
「十段も、十一段も、どうでもええ。」
「はい。」
「ただ、な。」
老人は、少し、足を止めた。
振り返った。
後ろの、柵の、外の、四人を、見た。
それから、武志に、こう言った。
「……お前、人、連れて来たな。」
「はい。」
「四人も。」
「はい。」
「そのうち、ひとり、講道館やろ。」
武志は、首を、傾げた。
「……分かるんですか?」
「においで、わかる。」
老人は、うなずいた。
「あとで、話、しに行く。」
「はい。」
武志は、老人の、横に、並んだ。
二人で、公園の、出口に、向かった。
出口の、柵の前で、老人は、止まった。
四人を、ゆっくり、見渡した。
森を、見た。
「警察官や。」
森は、頭を下げた。
「……はい。」
「非番か?」
「非番、です。」
「そうか。」
老人は、健二を、見た。
「カメラマンか。」
「はい。」
「撮影、止めろ。」
健二は、即座に、録画ボタンを、押した。
ランプが、消えた。
「……はい。」
老人は、花を、見た。
花は、身を、硬くした。
老人は、彼女を、数秒、見た。
見てから、小さく、こう言った。
「……ええ観察者やな。」
花は、一瞬、呼吸が、止まった。
止まってから、震える声で、こう言った。
「……ありがとうございます。」
「学者か?」
「……学生、です。」
「何を、書いとるんや?」
「……人が、どう動くか、です。」
老人は、うなずいた。
「それは、一生の仕事や。」
花は、目を、伏せた。
老人は、それ以上、花を、見なかった。
最後に、老人は、山田を、見た。
山田は、背筋を、伸ばした。
老人は、山田の、顔を、じっと、見た。
それから、静かに、こう言った。
「……お前、先生んとこ、行ったな。」
山田は、息を、飲んだ。
「……はい。」
「昨日か?」
「はい。」
「茶、二本、持っていったか?」
「……はい。」
老人は、少しだけ、目を、細めた。
「気が利くな。」
「……ありがとうございます。」
「先生の、弟子か?」
「いえ、違います。」
「じゃ、何や。」
山田は、少し、迷った。
それから、正直に、こう言った。
「……講道館の、職員です。」
老人は、うなずいた。
「予想通りや。」
「……すみません。」
「謝るな。」
「……はい。」
「お前、名前は。」
「山田浩、と申します。」
老人は、その名前を、しばらく、噛むように、繰り返した。
「山田浩……山田浩……」
それから、こう言った。
「……覚えた。」
山田は、深く、頭を下げた。
それだけで、彼は、制度の外に、半歩、移動した。
老人は、全員を、もう一度、見渡した。
そして、最後に、武志に、こう言った。
「明日、な。」
「はい。」
「講道館、行くぞ。」
武志は、目を、見開いた。
「……俺が、ですか?」
「お前と、わし、二人で。」
「……何しに、ですか。」
老人は、少しだけ、笑った。
本当に、小さく。
「喧嘩、売りに。」




