第16章 渋谷、動く
動画「師匠へ」は、五日で、五千万回を超えた。
コメント欄は、祭りを、通り越して、
祭りのあとの、散らかった境内の、ような状態になっていた。
主要な投稿は、三種類に、分類できた。
【分類1:感動系】
鳥肌が止まらない。
師匠、見ているならコメント欲しい。
これは物語だ。
【分類2:考察系】
0:52の投げを、コマ送りで、再解析しました。
藤村論文の、第三節に該当します。
スレッドにまとめます。
【分類3:混乱系】
十一段って結局認められたの?
誰が判断するの?
俺の柔道教室、来週から『十一段コース』できるってさ。
渋谷警察署の、森は、非番の日以外も、
渋谷をパトロールするようになっていた。
武志は、毎日、午後に、渋谷を歩いた。
森は、離れて、見ていた。
制服で。
上司に、事情を、説明した。
「……対象者の、動向を、継続的に、監視します。」
上司は、森を見た。
見たあと、こう言った。
「お前、柔道、嫌いだったよな。」
「……嫌いでした。」
「過去形か。」
「はい。」
上司は、深い、ため息をついた。
「ほどほどにしろ。」
「はい。」
森は、交番に戻らず、そのまま、渋谷に向かった。
彼の中で、「職務」と「個人的興味」の、境界線が、
静かに、崩れつつあった。
制服は、その崩壊を、隠していた。
花は、もう、隠れなかった。
喫茶トネリコ以来、彼女は、武志の、二メートル後ろを、
堂々と、歩くようになっていた。
武志は、彼女に、こう言っていた。
「ついてきてええけど、しゃべりかけんとってな。
今、考えとるから。」
「はい。」
「考え、終わったら、聞くから。」
「はい。」
「あと、ノート取るなら、俺の右足、気にせんでええから。」
「……気にしないほうが、いいですか。」
「気にせんでええ。」
「……では、何を気にすれば。」
武志は、少し、考えた。
「……まあ、好きなとこ、見とけ。」
花は、うなずいた。
その日の、観察ドキュメントに、花は、こう書いた。
対象からの、観察許可、正式に、発令。
範囲:本人の、好きな箇所。
条件:発言、最小化。
感想:……なぜか、少し、悲しい。
書いたあと、「悲しい」を、消そうとした。
消さなかった。
残した。
健二は、ドキュメンタリー制作会社と、
契約を、結んだ。
契約書は、分厚かった。
健二は、読んだ。
三回、読んだ。
三回目で、ほとんど、理解した。
予算は、健二の、年収の、七倍だった。
健二は、笑わなかった。
笑うのを、忘れていた。
ただ、冷蔵庫を、新しいのに、買い替えた。
夜、音の、鳴らないやつ。
新しい冷蔵庫は、静かだった。
静かな、夜に、彼は、初めて、自分の、呼吸の、
音を、聞いた。
呼吸の音は、少し、速かった。
でも、前よりは、ずっと、安定していた。
そして、山田は、毎日、渋谷に、来ていた。
制度の、外の、出勤だった。
彼は、スーツを、着ていたが、
ネクタイを、外していた。
二十二年間、ネクタイを、外したことは、なかった。
ネクタイを、外すと、首が、軽く、感じた。
首が、軽いと、視野が、広く、感じた。
視野が、広いと、気づくことが、多かった。
例えば、渋谷に、これほど多くの、子供が、
柔道着を、着て、歩いていることに。
「……増えとるな。」
山田は、ぼそっと、言った。
講道館の、入会申込フォームは、毎日、七百件を、
超えていた。
制度は、内側から、変わりつつあった。
でも、変えているのは、制度の、外の、男だった。
山田は、その矛盾を、毎日、歩きながら、
ゆっくり、呑み込んでいた。
呑み込むたびに、制度的人間としての、自分が、
少しずつ、死んでいく気が、した。
死ぬたびに、少しずつ、楽に、なった。
そして、ある日の、午後。
武志は、また、センター街を、歩いていた。
後ろには、いつもの、四人。
森。
健二。
花。
山田。
誰も、まだ、自分たちが、一つの、小さな、
流派に、なりつつあることに、気づいていなかった。
名前もない、流派。
制度にも、ない。
登録も、ない。
段位も、ない。
ただ、一人の、雑な、男の、後ろを、
毎日、歩く、四人だった。
その時、武志は、止まった。
後ろの四人も、それぞれの、距離で、止まった。
武志は、前を、見ていた。
二十メートル先に、一人の、老人が、
立っていた。
小さな、老人。
白い髪。
白い無精髭。
目だけが、黒かった。
武志は、うなずいた。
それから、静かに、こう言った。
「……師匠、来たな。」
山田の、背中が、冷えた。
自分が、昨夜、会っていた、あの老師、
ではなかった。
老師の、弟子。
武志の、師匠。
四年ぶりに、現れた、男。
黒い目の、老人。
老人は、動かなかった。
ただ、武志を、見ていた。
その表情は、何と、言えばいいか。
怒ってはいなかった。
笑ってもいなかった。
ただ、こう、言っているように、見えた。
「……雑やな。」




