第15章 老師、しゃべる
老師は、電話の向こうで、しばらく黙っていた。
山田は、待った。
老師は、咳払いをしてから、こう言った。
「電話じゃ、話せん。来い。」
「はい。」
「住所、変わっとらん。」
「はい。」
「……あと、茶、持ってこい。」
「……茶、ですか。」
「わしのは、切れとる。」
電話が、切れた。
山田は、しばらく、スマホを、見ていた。
それから、コートを、着た。
コンビニで、茶を、買った。
二本、買った。
足りない方が、怖かった。
タクシーに、乗った。
行き先を、告げた。
運転手は、少し驚いた顔をした。
「遠いですよ。」
「わかっています。」
「本当に?」
「はい。」
運転手は、うなずいた。
タクシーは、都心を出て、郊外に向かって、走り始めた。
道中、山田は、考えた。
老師は、「やっと、聞きに来たか」と言った。
それは、何を意味するか。
可能性は、二つあった。
一つ:老師は、十二年前の電話のときから、
山田が、いつか、本気で聞きに来る日を、待っていた。
二つ:最近、黒金武志の動画を見て、老師も、ついに、
何かを、動かすべきだと、判断した。
どちらも、山田の想像を、少し、超えていた。
二十二年間、制度の内側で、想像を超えることは、
なかった。
今夜は、超えていた。
タクシーが、古い住宅地の、狭い道に入った。
運転手が、カーナビを見ながら、言った。
「この、一番奥の家ですね。」
「はい。」
「……本当に?」
「はい。」
運転手は、三度目のうなずきをした。
タクシーが、止まった。
山田は、料金を払った。
チップを、少し、多めに入れた。
制度的理由ではなかった。
今夜は、制度的でない夜だった。
その家は、小さかった。
平屋。古い木造。
庭が、少しだけあった。
庭には、小さな石灯籠が、一つあった。
山田は、玄関の前に、立った。
表札は、ない。
インターホンも、ない。
ただ、木の戸が、一枚、あるだけだった。
山田は、戸を、叩こうとした。
戸が、自分から、少しだけ、開いた。
老師が、中に立っていた。
老師は、想像より、小さかった。
身長、一四五センチくらい。
体重、四十キロ台に見えた。
白い髪。
白い無精髭。
目だけが、黒かった。
静かな、黒だった。
山田は、深く、頭を下げた。
「夜分に、申し訳ありません。」
老師は、答えなかった。
ただ、顎で、中を指した。
山田は、靴を脱いだ。
靴は、古い、革靴だった。
並べ方を、間違えないように、気をつけた。
「茶は。」
「はい、こちらです。」
山田は、コンビニの袋を、差し出した。
老師は、袋を、受け取った。
中を、見た。
二本、入っているのを、確認した。
ごく小さく、うなずいた。
「……二本、か。」
「はい。」
「……気が利くな。」
山田は、頭を下げた。
十二年前、最初の電話で、怒鳴られたことを、
覚えていた。
十二年かけて、覚えたマナーが、一本の茶で、
報われた。
老師は、山田を、小さな居間に、通した。
こたつ机が、一つあった。
こたつ布団は、夏だから、外してあった。
代わりに、薄い座布団が、二つ、置いてあった。
老師は、自分の座布団に、座った。
山田にも、向かいを指した。
山田は、正座した。
老師は、茶を、一本、開けた。
山田の、もう一本は、未開封のまま、机に置いた。
「……飲め。」
「はい。」
二人は、しばらく、茶を、飲んだ。
老師は、何も言わなかった。
山田も、何も言わなかった。
こういう沈黙は、制度では、存在しなかった。
山田は、この沈黙が、懐かしかった。
どこで懐かしむような経験をしたか、思い出せなかった。
でも、懐かしかった。
たぶん、制度の前の、どこかで。
老師は、茶を、半分飲んだところで、こう言った。
「動画、見とる。」
山田は、驚いて顔を上げた。
「……見ておられるのですか。」
「ガラケーで。」
「ガラケーで、動画、見れるんですか。」
「見られる機種も、あるんだ。」
山田は、うなずいた。
知らなかった。
制度は、あまり、ガラケーについて、情報を、保有していなかった。
「どう思われますか。」
「どう、とは。」
「……動画の、あの男です。」
老師は、少し、沈黙した。
茶を、もう一口、飲んだ。
それから、こう言った。
「雑や。」
山田は、動きを、止めた。
コメント欄の、あの一言と、同じ言葉だった。
「……雑、ですか。」
「雑や。」
「ですが、しかし、藤村先生の――」
「わかっとる。」
「わかっておられる?」
「お前が言わんでも、わかっとる。」
山田は、また、口を閉じた。
老師は、小さく、ため息をついた。
「あれは、わしの弟子の、弟子や。」
山田は、息を、止めた。
「……お弟子さん、の。」
「そうや。」
「……今も、生きておられるのですか。」
老師は、首を傾げた。
「知らん。」
「知らない、というのは。」
「四年、会っとらん。」
山田は、静かに、背筋を伸ばした。
「……それは、武志くんと、同じですね。」
「せや。」
「同じタイミングで、お二人ともに連絡が途絶えた。」
「せや。」
「それは、偶然ではない。」
「ない。」
老師は、茶の缶を、置いた。
それから、ぼそっと、こう言った。
「失踪や。」
部屋の空気が、冷えた。
山田は、「失踪」という言葉の重みを、
数秒かけて、処理した。
「……事件、ですか。」
「違う。」
「では、何が。」
老師は、少し考えた。
それから、ゆっくりと、言った。
「あいつは、自分で、消えた。」
「なぜ。」
「誰にも、言わずに、消えた。」
「……しかし、あなたには。」
「一度だけ、手紙が来た。」
老師は、箪笥の方を、顎で指した。
「あそこに、ある。」
山田は、息を、飲んだ。
老師は、立ち上がった。
小さな体が、こたつの横を、軽やかに、通り抜けた。
八十を過ぎて、なお、体の使い方が、柔道家のそれだった。
老師は、箪笥の一番下の、小さな引き出しから、
紙を、一枚、取り出した。
古い、和紙。
折り目が、しっかりついていた。
老師は、山田の前に、戻ってきた。
座った。
紙を、机の上に、置いた。
「読め。」
山田は、深く、頭を下げた。
震える指で、和紙を、開いた。
手紙の、文字は、少なかった。
先生
私はしばらく姿を消します。
武志に、最後に、一言だけ、残しました。
「お前が困ったら、探すな。」
ただ、雑なままでおったら、俺の方が、先に怒って、
出てくる。
――だから、
お前が呼ぶんじゃない。
お前が、雑になるんだ。
雑が、師匠を、呼ぶ。
先生、これでよかったでしょうか。
山田は、三度、読んだ。
三回とも、全身の血が、別の方向に、動いた気がした。
最後の一行を、指でなぞった。
先生、これでよかったでしょうか。
老師は、山田を、見ていた。
山田が、顔を上げた。
二人は、しばらく、目を合わせた。
老師は、静かに、こう言った。
「……返事、書けんかった。」
「なぜ、ですか。」
「書いたら、出てきてしまう、気がして。」
山田は、うなずいた。
「出てきて、ほしくなかったのですか。」
「ほしかった。」
「では、なぜ。」
老師は、小さく、笑った。
「師匠って、そういう立場なんや。」
山田は、息を、吐いた。
制度の、どんな研修にも、そんな定義は、出てこなかった。
でも、なぜか、深く、納得した。
老師は、手紙を、畳んだ。
元の、箪笥に、戻した。
それから、机に、戻ってきて、こう言った。
「あの子は、動画を出した。」
「はい。」
「『雑やな』と、書いた。」
「はい。」
「あれは、わしじゃない。」
山田は、驚いた。
「えっ。」
「わしは、動画のコメント、書いたことない。」
「では、誰が。」
老師は、茶を、もう一口、飲んだ。
それから、静かに、こう言った。
「弟子や。」
「……武志くんの、師匠。」
「そうや。」
「生きておられるのですか。」
「生きとるな。」
「……どこに。」
老師は、首を傾げた。
「それは、知らん。」
「本当に。」
「本当や。」
「では、なぜ、弟子だと。」
老師は、茶を、置いた。
そして、静かに、こう言った。
「『雑や』っていう言い方、
わしの弟子しか、使わん。」
山田は、長い、ため息をついた。
真相は、半分だけ、わかった。
もう半分は、まだ、闇の中だった。
武志の師匠は、生きていて、
名前は、分からなくて、
ネットに、コメントをした。
老師は、静かに、言葉を続けた。
「あの子が、もう一本、動画を出したやろ。」
「……『師匠へ』、ですか。」
「せや。」
「……あれを、見ておられましたか。」
「見た。」
「いかがでしたか。」
老師は、少しだけ、嬉しそうな顔をした。
山田が、初めて、見る表情だった。
「……あいつ、頭使うようになってきたな。」
山田は、うなずいた。
「私もそう、思います。」
老師は、うなずいた。
そして、こう言った。
「じきに、出てくる。」
「誰が、ですか。」
「わしの弟子や。」
山田は、息を、飲んだ。
「……いつ頃、でしょうか。」
老師は、少し考えた。
「動画の再生数、四千万、超えたやろ。」
「はい。」
「五千万、超えたら、出てくる。」
「……数字で、動くのですか。」
老師は、首を振った。
「違う。」
「では、何で。」
老師は、茶を、最後まで、飲んだ。
そして、こう言った。
「武志が、もう一回、雑になったら、出てくる。」
「……雑になる、というのは。」
「あれが、本気になった瞬間、雑になる。」
「本気に、なると、雑になるのですか。」
「そういう男や。」
山田は、ゆっくり、うなずいた。
そして、深く、頭を下げた。
「……ありがとうございます。」
老師は、少し、首を振った。
「礼は、ええ。」
「では、何を、すれば。」
老師は、山田を、真っすぐ、見た。
そして、静かに、こう言った。
「見届けろ。」
「……はい。」
「制度の、外から。」
山田は、うなずいた。
制度の外、という言葉が、胸に、落ちた。
音を立てないで、落ちた。
でも、重かった。
山田は、茶を、飲み干した。
もう、冷めていた。
冷めた茶が、今夜は、少し、甘く感じた。




