第14章 山田、家に帰る
山田は、その夜、家に帰った。
帰ったのは、職場ではなかった。
自分のマンションだった。
家に、誰もいないことは、四年前から、同じだった。
でも今夜は、少し、違った。
彼は、リビングに座り、コーヒーを淹れた。
豆は、いいやつだった。
妻が出ていった時に、残していった、最後の一袋。
四年間、封を開けなかった。
今夜、開けた。
理由は、本人にも、分からなかった。
淹れた。
一口飲んだ。
美味しかった。
泣きそうになった。
泣かなかった。
制度的人間として、訓練されていた。
コーヒーを飲みながら、山田は、ノートパソコンを、開いた。
職場のものではなかった。
私物の、古いやつ。
十二年前、一度だけ使って、それから、触っていなかった。
起動に、四分かかった。
起動してから、ブラウザを、開いた。
Cookieが、十二年前のまま、残っていた。
国会図書館のデジタルアーカイブが、ログインしたままだった。
検索欄に、名前を、打ち込んだ。
藤村恵三 空投
三件の資料が、ヒットした。
十二年前は、確か、二件だった。
一件、増えていた。
山田は、新しい一件を、開いた。
それは、一九七三年に、とある柔道雑誌に、載った、短い追悼文だった。
タイトル:
藤村恵三翁、最後の弟子について
山田は、コーヒーを置いた。
読み始めた。
追悼文は、短かった。
たぶん、千字くらい。
筆者は、伏せられていた。
「某関係者」とだけ、書かれていた。
内容は、こうだった。
藤村恵三は、生涯、一人だけ、弟子を取った。
その弟子は、制度柔道の外で、藤村の教えを受けた。
藤村が死んだ後、その弟子は、消えた。
私たちは、その弟子が、藤村の遺したものを、
どこかで、静かに、持っているのだろうと、思っている。
その弟子は、藤村から、こう言われていたという。
「お前は、一生、人を投げてはならない。」
「お前は、一生、人に、投げさせなければならない。」
それが、空投の、本当の意味だと、藤村は言った。
私たちは、その弟子の名前を、知らない。
ただ、その弟子が、もし、弟子を取るとしたら、
その弟子もまた、制度の外の人間になるだろう、と、思っている。
山田は、コーヒーを、飲んだ。
冷めていた。
淹れ直した。
もう一度、読んだ。
読みながら、指が、少し震えていた。
藤村の弟子。
制度外の、継承者。
名前なし。
そして、その弟子の、弟子。
四年前まで、武志を育てた人間。
「雑やな」の、たぶん、主。
山田は、画面を、閉じた。
マンションの、リビングが、静かだった。
四年ぶりに、本当に静かに感じた。
静かさを、静かだと、感じる余裕が、戻ってきていた。
山田は、立ち上がった。
窓際に、立った。
東京の、夜景を、見た。
普段、見ない景色だった。
普段は、見ないように、していた。
今夜は、見た。
見ながら、小さく、独り言を言った。
「……制度の外の人間、か。」
それは、少し、皮肉な響きがあった。
山田は、二十二年間、制度の中の人間だった。
今、制度の外の人間を、探していた。
その探し方は、たぶん、制度の外の方法でなければ、
見つからないのだった。
制度の中から、制度の外を、見ようとしても、
ただ、制度の内壁が見えるだけだった。
山田は、それに、気づいた。
気づいた自分が、少し、怖かった。
でも、怖さの中に、久しぶりの、なにか、
本気の感情が、混じっていた。
山田は、スマホを、取り出した。
連絡先を、開いた。
一人の名前の前で、指を止めた。
その名前は、「老師」とだけ、登録されていた。
本名は、登録していなかった。
十二年前、その人に、一度だけ、電話をした夜があった。
電話で、藤村の話を、聞いた。
その人は、藤村の、古い道場の、先輩だった。
もう、九十歳を超えていた。
電話に、出るかどうか、分からなかった。
山田は、電話を、かけた。
呼び出し音が、鳴った。
二回、三回、四回、五回。
出ない。
六回目で、切れる、と思った瞬間。
電話が、つながった。
咳払いの音。
「……はい。」
老師の声だった。
低く、乾いていた。
でも、十二年前と、同じ声だった。
山田は、深く、息を吸った。
「……山田です。覚えていますか。」
短い沈黙。
それから、老師は、こう言った。
「……なんだ。また、夜中か。」
山田は、思わず、笑った。
十二年前と、全く、同じことを言われていた。
「……すみません。」
「何の用だ。」
山田は、息を、整えた。
そして、静かに、こう言った。
「……藤村先生の、お弟子さんの、ことを。」
電話の向こうが、静まり返った。
たぶん、十秒間、沈黙が続いた。
それから、老師は、小さく、こう言った。
「……やっと、聞きに来たか。」
山田の、指先が、冷たくなった。




