第10話 鉄の女帝、事務処理に敗北す
カナン領の空を覆わんばかりの巨躯が、静かにその影を落としていた。
サフィア帝国が誇る超大型魔導飛空艇。黄金の装飾が施されたその船体は、軍事力という名の暴力を、これでもかと優雅に包み隠した代物だ。
宮殿のバルコニーに降り立った一団。その中心に立つのは、真紅のドレスに身を包み、冷徹な美貌を扇子で半分隠した女性だった。
サフィア帝国最高権力者、女帝カトリーヌ。
大陸全土を震え上がらせる「鉄の女帝」の異名を持つ彼女の周囲には、歩くだけで空気が凍りつくような圧倒的なプレッシャーが漂っている。
「……ほう。これが、我が息子が血眼になって追いかけている『追放された小娘』の拠点か。予想以上に、悪くない趣味ね」
女帝の背後では、レオン王子が「母上、言葉に気をつけてください」と冷や汗を流しながら苦笑いしている。
私は、執務室の窓からその光景を眺め、手元の魔法端末に最後の数値を打ち込んだ。
「ユリウス様。お茶菓子、ガストンさんの『特製・黒トリュフのフィナンシェ』は間に合いましたか?」
「……ええ。彼、女帝の来訪と聞いて『俺の料理で屈服させてやる』と鼻息を荒くしていましたよ。現在、厨房の魔力温度は過去最高を記録しています」
「それは頼もしいですね。では、参りましょうか。大陸一のクレーマー対応……いえ、外交交渉です」
私は、シワ一つない事務官の制服を整え、意を決して応接室へと向かった。
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応接室の扉を開けた瞬間、物理的な「圧」が私を襲った。
女帝カトリーヌは、帝国の重鎮たちを背に従え、ソファに深く腰掛けていた。彼女の視線が私を射抜いた瞬間、普通の人間なら膝をついて許しを乞うだろう。
「お初にお目にかかります、女帝陛下。カナン自由行政区、最高管理責任者のリシアです。本日はどのような『事務手続き』でのご来訪でしょうか?」
私が完璧な角度で一礼すると、女帝は扇子をパチンと閉じた。
「不敵な娘ね。私の前で、一秒も震えずに要件を尋ねるとは。……単刀直入に言いましょう。リシア、貴女を我が帝国の『特別行政官』として徴用するわ。このカナン領も含め、貴女が管理するすべてを帝国の傘下に入れなさい」
部屋の温度がさらに数度下がった。ユリウス様が剣の柄に手をかける。だが、私は微笑みを崩さなかった。
「……なるほど。いわゆる『M&A(合併買収)』のご提案ですね。ですが陛下、残念ながら現在の帝国には、私を買収するための『予算』が残っていないはずですが?」
私は、手元の魔法端末から空中にホログラムのグラフを投影した。
「なっ……何を見せている!?」
帝国の文官たちが声を荒らげる。だが、女帝の瞳は鋭く細められた。
「これは、サフィア帝国の過去三カ月分の『予算執行状況』および『各省庁の資源ロス推計値』です。陛下、帝国の軍事費は年々増大していますが、その裏で兵站の事務手続きが複雑化しすぎ、全体の予算の約三〇パーセントが無駄なペーパーワークと中間搾取で消えています。いわゆる、組織の『肥大化による機能不全』です」
「……貴女、なぜそれを知っているの? それは帝国の最高機密のはずよ」
「機密、というほどのものではありません。公開されている帝国の関税データと、昨今の魔石価格の変動、そして帝国の騎士団が発注している『蹄鉄の数』から逆算すれば、三〇分もあれば導き出せる初歩的な算数です」
私は、次々とデータを切り替えていく。
「さらに言えば、帝国の北部に位置する鉱山地帯。あそこの採掘スケジュール、私が三日間だけ『段取り』を組み直せば、生産性は一五〇パーセント向上します。……陛下、貴女が私を徴用したいのは、私が欲しいからではなく、帝国の事務処理がパンクしかけているからではありませんか?」
静寂が訪れた。
帝国の文官たちは、自分たちが数年かけても解決できなかった問題を、一介の事務官に数分で指摘されたことに呆然としている。
女帝カトリーヌは、しばらく沈黙した後……くくっ、と喉の奥で笑い声を上げた。
「……面白いわ。レオンが『彼女こそが大陸を救う心臓だ』と豪語していた理由が分かった。……ええ、認めましょう。今の帝国は、広がりすぎた領土を支えるだけの『事務的な器』が足りていない」
女帝は立ち上がり、私に一歩近づいた。彼女の瞳からは、先ほどまでの攻撃的な威圧感が消え、代わりに奇妙な熱が宿っていた。
「リシア、貴女に提案を変えましょう。属国になれとは言わない。代わりに、帝国の全官僚を貴女の『教え子』として預かってくれないかしら? 貴女のその……『段取り』という魔法を、我が国にインストールしてほしいのよ」
「母上! それはつまり、帝国がカナンの『下請け』になるということですか!?」
レオン王子が叫ぶが、女帝はそれを無視して私の手を取った。
「条件は何でも言いなさい。貴女が望むなら、帝国の国庫を一つ解放してもいいわ」
私は、女帝の熱のこもった視線を受け止め、冷静に手帳を開いた。
「……いいでしょう。ですが陛下、私の『段取り』は厳しいですよ? まずは帝国の全官僚に、一カ月間の『カナン式・集中事務合宿』を受けていただきます。……あ、もちろん、陛下も例外ではありません」
「……私が? 面白いじゃない。受けて立とうじゃないの」
大陸最強の「鉄の女帝」が、不敵な笑みを浮かべて敗北を認めた瞬間だった。
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会談が終わった後のバルコニー。
ガストンさんが作ったフィナンシェを一口食べた女帝は、「何これ、帝国のお抱えシェフより美味しいじゃない」と不機嫌そうに呟き、さらにお代わりを要求していた。
「リシア殿、お疲れ様でした。……まさか、女帝陛下を相手に『説教』を始めるとは思いませんでしたが」
ユリウス様が、呆れたように、けれどどこか誇らしげに紅茶を淹れてくれる。
「説教ではありません。ただの現状報告と改善提案です。……あ、ユリウス様、少し問題が発生しました」
「問題、ですか?」
私は、端末に届いた新たな通知を見せた。
「レオン王子が『リシア様の護衛権』を巡って、騎士団に決闘を申し込んでいます。……しかも、女帝陛下がそれを『面白そうだから許可する』と承認してしまいました」
「…………」
ユリウス様の瞳から、光が消えた。
彼は静かに自分の剣を抜き、丁寧に手入れを始める。
「……いいでしょう。サフィア帝国の王子だろうと、リシア殿の『パーソナルスペースの管理』を乱す者は、私が排除します」
「あ、ユリウス様! 宮殿の芝生を荒らさないでくださいね! 修復の予算はレオン王子の私財から徴収しておきますから!」
私の警告も空しく、バルコニーの下では既に、火花を散らす騎士たちの戦いが始まろうとしていた。
有能すぎる事務官の周りは、今日も今日とて、騒がしい。
だが、その騒ぎを「段取り通り」に片付けていくことこそが、私の真骨頂なのだ。
次回、ついにユリウスとレオン王子、リシアを巡る「護衛権」争奪戦。




