(ニ)
冷たい風が、頬を叩いた。
蛍光灯の不気味な明滅が消え、湊の視界に飛び込んできたのは、電車の車内ではなく、湿った紙の匂いが充満する六畳一間のアパートの一室だった。
「……ここは」
手元の机には、山のように積まれた原稿用紙。無数の赤字が入れられたその束の脇に、すり減ったインクのボトルが転がっている。
手を見ると、かつて広告代理店でスマートフォンの画面をフリックしていた指はインクで汚れており、爪の生え際は黒ずんでいた。
「――おい、九条。まだ書けてねえのかよ」
ふと、扉のない狭い玄関のほうから、しわがれた声が飛んできた。
そこに立っていたのは、業界の片隅で細々と貸本や同人誌を扱う、目の鋭い小柄な編集者だった。彼はじろりと湊を睨みつけ、吐き捨てるように言った。
「来月の連載の締め切り、もう過ぎてんだぞ。お前のその『文学の純粋さ』とやらに付き合ってられるのは、こっちも限界なんだよ。売れなきゃ意味がねえんだよ、小説なんてのは」
扉がバタンと荒々しく閉ざされる。
一人残された部屋で、湊の胸に圧倒的な飢餓感と孤独が重しのようにのしかかった。
この世界で彼は、会社を辞め、文壇にしがみつく道を選んだ。妥協を許さず、表現の純度を守り抜こうとした。しかしその結果手に入ったのは、誰からも読まれない孤独な文字の羅列と、底の抜けた預金通帳、そして「他人の評価におびえ、誰も愛せなくなった」ひび割れた自尊心だけだった。
『この世界で原稿を完成させなければ、元の現実には戻れない』
脳裏に、あの黒猫の冷徹な声が響く。
「くそっ……!」
ペンを握る指が震える。書くことだけが自分の証明だったはずなのに、いまやそのペンは、自分自身の心を削り取るギロチンの刃と化していた。表現の自由と引き換えに、社会的な温もりも、他者とのつながりも、すべてを焼き払った荒野。
それが、小説家として生き続けた世界の正体だった。




