(ニ)
終電を逃すまいと、湊が新宿駅の地下ホームへ駆け込んだのは、午前零時を少し回った頃だった。
新宿発京王線の下り最終列車。
金曜の夜という魔力が生み出した車内は、異様な熱気と、社会からすり減らされた人間たちの発する酸っぱい諦念の匂いで満ちていた。
誰もが口をきかず、うつむき、スマホの画面か吊り革の金具だけを見つめている。
その沈黙は、まるで葬式の待合室のように重く、冷たかった。
湊はロングシートの端に身を縮こまらせ、窓ガラスに映る、生気のない自分の顔をぼんやりと眺めた。
電車の車体が鉄のレールを軋ませ、重い走行音を立てて闇の中を進んでいく。
ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン。
腹の底に響くその単調なリズムが、かえって悠の神経を逆なでしていた。
そのときだった。 車内の頭上に並ぶ蛍光灯が、理由もなく不気味に、一度、二度、三度と明滅した。
ジジジ、という微かな異音を残し、電車の走行音が突如としてピタリと消え去った。
耳鳴りのような、一切の音が失われた完全な静寂が、一瞬にして車内を支配した。
乗客たちが一斉に、糸の切れた人形のようにガクンと首を垂れる。
誰も動かない。
呼吸さえ止まっているかのように、時間の流れそのものが凍りついていた。
「――お疲れ様です、お兄さん」
不意に、目の前の優先席から、低い、しかし妙に腹に響く声が降ってきた。
湊は息を呑み、硬直した首をゆっくりと持ち上げた。
そこに座っていたのは人間ではなく、背中にボロボロの翼をたたえた、漆黒の野良猫だった。
その首には、錆びついた金色の鈴が寂しげにぶら下がっている。
「……驚いたかい?」
猫は前足を組み、冷徹でありながらどこか深い慈愛を湛えた黄金色の瞳で、湊をじっと見据えていた。
「私はね、この巨大な東京という迷宮で、人々がすり潰してきた『可能性の死骸』を拾い集めている者さ」
湊は恐怖よりも先に、あまりの非現実的な光景に対するめまいを覚えた。
声が出ない。
ただ、猫の足元に転がっている一つの「物体」に釘付けになった。
それは、湊が大学時代の挫折とともに質屋のショーケースの奥へと追いやった、亡き父親の形見の万年筆だった。
漆黒の猫は、その前足で万年筆をそっと湊の方へ押し出しながら、静かに告げた。
「さあ、見せてごらん。お前が心の中で殺してきた『もう一つの人生』の重みをね」




