第一章:終電の迷宮 (一)
東京都心、有楽町のガード下に位置する大衆居酒屋は、金曜日の夜というのに独特の澱んだ空気を湛えていた。
赤提灯の光が、油の浮いたハイボールのグラスを嫌らしく照らし出す。隣のテーブルでは、スーツを脱いだ男たちが会社の愚痴を怒鳴り合うように吐き出している。
その喧噪のただ中で、九条湊(32歳)は死んだ魚のような目で、手元のスマートフォンの画面を見つめていた。
「九条さん、今回の炎上案件、クライアントの常務の怒りはまだ収まってませんよ。
来週の月曜、どう頭を下げるか、明日中にシミュレーションの資料作っておいてくださいね」
向かいの席に座る同期の男――冷徹な合理主義者として社内で頭角を現している神谷が、平然と言い放った。悠は返事をしなかった。
返事をする気力さえ、彼の体からは抜け落ちていた。
総合広告代理店「電報社」のアカウントプランニング部。
華やかな業界の光の部分だけを信じて飛び込んだその場所は、深夜二時を回るオフィスで、終わりのない数字の追いかけっこを強いられる巨大なすり潰しマシーンだった。
企画したキャンペーンは大炎上し、クライアントには土下座を強いられ、徹夜の連続で胃の腑がキリキリと焼けるように痛む。
スマホの画面が、冷たい青白い光を放って再び震えた。
通知画面に表示されていたのは、三年間同棲した恋人からの最後通牒だった。
『もう連絡してこないで。あなたの世界には、最初から私を入れる隙間がなかったんだよ。さようなら』
仕事を取れば愛が逃げ、愛を取ればキャリアが崩れる。
どちらを選んでも何かが指の間からこぼれ落ちていく。
自分が何を欲し、何に向かって走っているのか、もはや誰にも分からなかった。
かつて、大学の薄暗い下宿の隅で、無名の文学賞のホームページを更新しながら「いつか世間を驚かせる物語を書くんだ」と夢見ていた青年の残骸は、いまや都心の荒波にもまれ、すり減った歯車の一つとして消費されていた。
「……何やってんだ、俺は」
乾いた喉から零れ落ちた呟きは、周囲の喧噪にかき消された。




