第九話 溺れるマノン
お仕着せを着た壮年の使用人が寝室までセデュイールを誘導する。螺旋階段を上がった先、二階の突き当りの部屋がルーの寝室らしい。
使用人の開ける扉の敷居を跨ぐと、ツンと嫌なにおいが鼻に突く。ルーと暮らしていた時に嗅いだ覚えのあるにおいだ。性行為の後の、汚れたシーツの。
部屋の中には衣服が脱ぎ散らかされ、ベッドや、肘掛け椅子や姿見に、ズボンやシャツが引っかかっている。
縦長の窓にはカーテンは引かれず、月明かりが部屋を薄青く照らしている。
ベッドサイドのチェストは中途半端に引出しが開けられたまま放置され、中に何種類かの錠剤が入っているのが見えている。床には書き込みのあるスコアが落ち、踏みしだかれた靴の跡があった。
ルーをベッドに下ろしたセデュは屈みこんでスコアを拾い上げる。ばらばらになったそれを一枚一枚、重ねていく。曲はチャイコフスキーだ。組曲『眠りの森の美女』第二幕、ワルツをピアノ用に書き起こした譜面だ。
そっとそれに触れて舞台の上のルーを思い出し、セデュイールの胸は塞がる。
一方、ぼんやり月明かりに浮かぶセデュイールの姿を眺めていたルーは身を起こし、チェストの引出しを探る。
注意をしていなかったために、引き出しがすべて抜かれて、がたんと床に落ちる。
ルーは焦って床に下りて、覆いかぶさるようにしてがさがさと引出しの中を掻き回す。精神安定剤や睡眠導入剤が大量にそこに入っているけれど、ルーのめあてのものはなかなか見つからない。
今すぐほしいのに。いますぐ薬を遣らないと、ぼくは幻覚がずうっと見えてる。
頭がヘンになったルーにはセデュイールの姿がずっと見えていた。ここにいないはずの、幽霊のようなその姿が。
「どこ、どこにあるの、はやく、はやく…消えて、消えてよお、ばか、ばか、ばか…」
「ルー、…」
異様なまでに興奮したルーの息遣いに不安になって、セデュイールは屈みこむ。ルーの背に手をあてて、宥めるように撫でおろす。
「落ち着いて、息を吸うんだ。ゆっくりでいい。俺が見えるな? 安心して…」
「は、はあ、はっ…」
何度も撫でおろすうちにルーの呼吸は安定してくる。その瞳を覗き込むと、月明かりに濡れたように見える白い頬が仰向いて、じっとセデュイールを見上げる。
「ルー、俺が分かるか?」
「………」
セデュイールは仮面を外して床に落とす。からんと空疎な音がする。
ルーは息を殺してセデュイールを見ていた。再び自分の前に現れたおにいちゃんを、その姿を、片時も取りこぼさないように、視界に収めていた。
「ルー、無理をさせたな、痛くなかったか? 身体は…」
「どうしてきみが、ここにいるの」
「……」
ルーの、愕然とした声が落ちる。仮面を剥ぎ取られたルーの、ひどく頼りなげな肩が、またかたかたと震えだす。
「きみは、…ぼくのこと、触れたくないって、おもってたはずでしょう。どうしてここにいるの。ここに来たの。きみは、明るい、日向のほうにいたのに、きみが、なんで…」
「ルー、」
言葉と共に俯きがちになるルーの頤をくいと持ちあげて目線を合わせる。その緑の瞳は揺れている。今までがらんどうだった瞳に、セデュイールの姿が、映っている。
「正攻法では、お前の手を取ることはできないと気づいたんだ。お前の望むやり方でないと駄目だと、気づいたんだよ。薬は与えられないが…それ以外ならなんでもくれてやる。私の凡てを捧げてもいい。私はお前と会うためにここに来た。私はお前がずっと、欲しかったんだ、ルー」
「……」
ぱりんと、どこかで何かが砕ける音がする。
ばらばらになった破片が床に落ちて、また割れる。
ルーは瞳を見開いていた。目の前にいる、セデュイールを見つめていた。
ルーのために、ルーを手に入れるために、ここまで追いかけてきたのだという――だいすきな、おにいちゃんの姿を。
「ぼ、ぼく、ぼくは…」
声が掠れる。身体が、またカタカタと震えだす。セデュイールを汚してしまった。泥沼に引きずり込んでしまった。大切だったのに、大切な思い出だったのに、自分で汚して、引き裂いてしまった。
ぼくのこの汚れた身体で、セデュにシミをつくってしまった。
「ごめ、ごめんなさい、ぼくがばかで…どうしようもないクズだから、きみが、きみまで…」
ぼろぼろと、何かが決壊したように、涙があふれ出す。泣くのは久しぶりだ。数えたらたぶん、8年ぶりくらいだ。ルーはずっと泣くのをやめていた。考えることをやめていた。感じることをやめていた。
そのせいで、みんな滅茶苦茶になってしまった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、きみはきれいなひとなのに、汚したりしたら、いけないのに。ぼく、ぼくのせいで、ぼくが…」
「ルー、」
ぐるぐると、それまで男たちに、弄ばれてきた記憶が蘇る。みんな笑っていた。ルーも笑っていた。楽しんでいるつもりだった。苦しくても、痛くても、つらくても、悲しくても、みじめでも、吐きそうでも、そんなのはぜんぶ忘れて、楽しんでいられると思ってた。
でも、そんなのはぜんぶ嘘だった。
「おえ、ぐ、うう…」
ルーはこみ上げる吐き気にえずく。汚い身体、腐った魂、頭のてっぺんからつま先まで、汚泥の詰まった木偶の坊。
「うう、うううう」
頭を振り、喉を搔きむしり、呻くルーをセデュイールは抱きしめる。涙腺が壊れたように涙が止まらない。次から次へと溢れ出す。溢れ、零れ、床に落ちる。ぽたぽた、ぽたぽた、秘部から滴る精液みたいに、とめどなく。
「ルー、ルー、大丈夫だ、傍にいるよ。お前とずっと、一緒にいる…」
「うう、うああ、あああああ」
ルーは泣いた。声が嗄れるくらいに叫んだ。セデュに抱きしめられながら、その体温を感じながら、涙で自分の罪が、洗い流されればいいと念じて。
幼い日のように、セデュの傍にいたいと、ルーはずっと願っていたのだ。




