第八話 泥人形
ルーは夢を見ているのだと思った。もう二度とセデュイールには会えないと思っていたからだ。
あんな別れ方をして、それでもまだ自分を追いかけてくれるなんて、…セデュは、そんなバカな男じゃないはずだから。
2年間、毎日のように夢に現れたセデュイールはいつも悲しそうな顔をしていた。でもそれは、ルーが最後に見た顔が忘れられなかったからだ。ほんとうの、現実のセデュはきっともう、ぼくのことなんか忘れてる。
それでいいんだ、それがいいんだ。だってもう、どうしようもないんだもの。
ぼくはもう、何も知らなかったあの頃には、戻れないんだから。
そう思って、何度も自分に言い聞かせて、なんでもないふうに笑って。
薬を遣って、トリップして、いろんな男と寝て、ぐちゃぐちゃになって。
それがルーの日常だった。もうしばらくピアノも弾いていない。パトロンに養われる、ただの男娼としてのルーの日常。
――だからこれはきっと、違う人なんだ。ルーは思う。言い聞かせる。
セデュはぼくを抱かない、ぼくが汚い淫売だから。セデュみたいなキレイな世界のひとは、ぼくみたいな男は抱かないんだ。
ぼくはまた夢を見てるんだ。セデュに抱かれたいって思っていたからかな? だから違う人が、セデュみたいに見えてるのかな。
ぼくはセデュに抱かれたかった、でも抱いてくれなくてよかったんだ。だってぼくが触れたら、セデュを汚してしまうもの。小さなころの思い出も全部、ぐちゃぐちゃにしてしまうもの。
ああ、薬がほしいな。またセデュのこと考えてる。ぼくは考えたらだめなんだ。ぜんぶだめになるんだ。忘れたい、忘れなきゃ、ぼくは苦しくない、つらいことなんか何もしらない、ぼくはセックスが大好きな淫売だから、セデュのそばにはいられないんだ。ああ、でも、このひとは優しいな、痛くしないように動いてくれてる。だからセデュを思い出しちゃったのかな。目を閉じるとまたセデュの顔が浮かんでくる。ぼくは目を開けていなけりゃ。ぐるりと長椅子の周りに、男の人たちが詰めかけてる。みんな息をのんでまぐわうぼくらを見てる。楽しいのかな、ぼくはきもちいいよ、優しくされるのがほんとはすきなんだ、涙が出るくらい、うれしいんだ。…
ずぶりと身体が沈む。ルーは気づいたら荒野に一人で、腰まで泥の沼に使っていた。身じろぎしても、ずっぽりと嵌った下半身は一向に動かせない。シュウシュウと煙が立って、どうやら身体が溶けだしているらしいとルーは気づく。
痛みはない。無感覚だ。ただどんどん身体が沈んでいくのが、鬱陶しいと感じるだけ。
どぷりと沼から引き摺りだした掌は皮がずるりと剥けて血管がそのままむき出しになっている。ひどいありさまだ。これじゃあもうピアノは弾けない。
それじゃあもう、生きていても仕方がないじゃないか。
腰から下は溶けてもうどろどろだ。かろうじて骨がくっついてるだけ。ルーは首まで酸性の泥沼に浸かる。溶けていく。ぼくという存在が、消えていく。でもそれって、ぼくにとってはうれしいことだ。誰にもめいわくかけずに、ひとりで逝けるのは。理想的な死にざまだ。神様に感謝したいくらい。…
どぶんと、近くで沼に飛び込む音がする。ざばざばと纏いつく泥の中を、突き進んでくるひとがいる。
「ルー!」
シュウシュウ煙が上がる。きっと彼も溶けだしている。泥に汚れて、ボロボロになって、ルーに追いすがる。このひと、このひとの名前は、…
ルーは口を開く。その瞬間どぷんと顔が沼に沈む。じわじわと顔が溶けだして、ぺらりと皮が剥がれていく。ああ、いやだ、見られたくない、こんな、みにくい、きたない姿を、セデュにだけは、みられたくない。どうして? わかんない。どうして胸が痛いのか。どうしてセデュだけとくべつなのか。どうして、心の中から、彼が消えてくれないのか――
ぐいとルーは引っ張り上げられる。シャンデリアがルーの爛れた醜い顔をむき出しにする。
どくどくと体内に生ぬるいものが出されているのを感じる。慣れた感覚だ。いつもの感覚だ。ぼくのなかで誰かがいってくれたんだ。ぼくのからだに満足して、それで出してくれたんだ。ぼくはまだ生きていていいんだ。だれかを悦ばせられたんだから、もっともっと、悦ばせられるんだから。醜くても、汚れても、爛れても、手足がなくなっても、穴さえあれば、ぼくはそれで…
「…っ、ルー、…」
掠れた声が耳元で囁く。ルーはヒッと息をのんで、両腕で顔を覆った。仮面はいつの間にか床に落ちている。
頭がぐるぐるしている。まだ夢を見てる? はやく醒めなきゃ。いつまでも夢ばかり見ていたら、ぼくはまた囚われちゃう。またセデュのこと考えちゃう。だめだ、考えたらダメなんだ、ぼくは何も考えない。何も感じない、なにも、なにも、なにも――
「ルー、どうした? こっちを見ろ、俺を見ろ、ルー、大丈夫なのか?」
「ああ、あ、ああ…」
ルーの身体はがくがくと震えだす。目の前にはセデュがいる。ルーを抱き締めたセデュが、今までルーを抱いていたセデュが、身体を少し離して、心配そうに、覗き込んでいる。
夢だ。夢。全部夢。
「あは、ああ、ぼく、ついに、いかれちゃったな…」
「――」
がくがく瘧のように震えたままのルーに愕然とした視線を注いでいたセデュイールはきっと唇を噛むと、身を離して起き上がる。今までふたりを真ん中に熱狂の渦に取り巻かれていた男たちは、異様なルーの状態に興が醒めたようになって、囁き交わしている。
「病気ですかな」
「菌が脳に入り込んだとか?」
「こわいこわい。やはり淫売はいけませんな、どんな病気を持ち込むかわかったもんじゃない。素人娘に限りますよ。遊び相手にはね…」
セデュイールは囁きに頓着せず、マントを脱いでルーを包むと、そのまま抱き上げる。
男たちの頭の後ろにはテイラー氏が、給仕の少年たちを侍らせて悠然と構えている。
「ルーを休ませます。寝室はどこですか」
「この子に病気はなかったはずだがねえ。ただの演技だろうよ。…とはいえ、お客様の食指が動かないのではいけないね。皆、今宵はルーの代わりを務めるんだ。できるね?」
「はいウイリアム様!」
少年たちは洗脳されているかのように嬉々として応じ、ばらばらと男たちの方へ駆け寄っていく。薄ら寒いものを感じつつセデュイールは広間を後にした。彼らを追ってくるものは誰もいない。新しい趣向にすぐに夢中になった男たちは広間で歓声を上げていた。




