第六話 薬指の思い出
ルーが去ってからセデュイールは目に見えて憔悴し、窶れ果て、仕事もろくに手に付かないような有様だった。
彼の父親は弱り切ったセデュイールを見かねて休暇をすすめ、イタリアの別荘でしばらく休むようにと申し渡した。
「どんな傷も、時が慰めてくれるものだよ。しばらく療養しなさい。君は少し自分を見つめ直す時間が必要そうだ」
セデュイールは流されるままにイタリアに飛び、嘗てルーとバカンスを過ごしたその場所を、再び訪れた。
扉の陰に、ポプラの並木に、物置の傍に、ぴょんぴょん跳ねまわって燥いでいた幼いルーの姿を幻視する。
きらきらと宝石のように輝く瞳で、頬を桜色に染めて、見上げてきたルーを思い出す。
月夜にルーに手を引かれてそぞろ歩いた小川のほとり、煌めく川面に飛び跳ねる魚の影を指さし無邪気に笑っていたルーを思い出す。
少女のような、甘い声が歌っている。ルルラ、ルルラ、不意にしゃがみ込んでは道端の小花に見惚れ、かと思えばぷちぷちと千切った野草を振り回す。足を滑らせて小川に尻もちをついて、ぐしょ濡れになってわんわんと泣き出す。セデュイールの背に頬を付けて微睡んで、譫言のように囁く。
「だいすき、おにいちゃん。ぼくとずっといっしょにいてね、…」
あの無垢な笑顔を、華奢な指を、小さな掌を、何度も何度も思い出す。
ルーはセデュイールの天使だった。あの頃からずっと。汚してはならない、たいせつなものだった。
…それは今も変わらない。
小川のほとりで振り返り、満月を指さし笑うルーを思い出しながら、セデュイールは深い絶望の底にいた。
ルーはベッドに横になっている。隣にはウイリアムが寝ている。その逞しい腕が、ルーに絡みついている。裸の胸が、ルーの傍で鼓動を打っている。ドクドク、ドクドク。
瞼を閉じるといつでも、ルーは闇の中にセデュイールの姿を見つける。再会するまでいつも穏やかに微笑んでいたはずの彼は、おとなになって再会してから、歪んだ、悲しそうな顔ばかりするようになってしまった。
泣きそうな目でルーを見て、手を伸ばすのも躊躇うようになってしまった。
ぼくが、恥知らずの、淫売だから。
ルーはセデュイールの幻覚を見ると、すぐに薬に手を伸ばす。コカインを胸一杯に吸って、それでぜんぶ有耶無耶にする。離れてから毎晩のようにセデュイールが夢に出る。悲しそうな顔で見つめてくる。なので起きたらすぐに薬を遣る。それの繰り返し。
ルーはもう長らく、自分の頭で考えることを辞めていた。何かを感じることを辞めていた。だからなぜ胸が苦しいのかわからない。セデュイールを思い出すと心臓に針を刺されたような痛みが走る。その理由がわからない。
自分の傷にひどく鈍感になったルーはそれでも現状に満足していた。ぼくと離れたらきっとセデュは元気になるはずだから。また笑うようになるはずだから。どうしてセデュイールに笑ってほしいのか、その理由も忘れてしまったけれど。
気づくとルーは男に揺さぶられている。ベッドの上にウイリアムの姿はない。身体の上にいるのは知らない男だ。
…いや違う、さっきウイリアムに紹介された、彼の仕事仲間だ。なんだか時間の感覚も曖昧で、すべてが夢の中のよう。
薬のやりすぎで飛んじゃったんだな。どんどん現実世界が溶けて蕩けて、どろどろした夢に飲み込まれてく。これが気持ちいいのかどうかも、もうよくわかんない。
目を閉じると泣きそうなセデュがこちらを見つめてくる。だからルーは目を閉じない。ギラギラした男の眼差しに貫かれながら、男の汗を浴びながら、燦燦と輝くシャンデリアを凝視する。ぐるぐる世界が回り出す。振り落とされそう。ここは地獄だ。だからセデュは、ここには相応しくないんだ。そんなの、最初から、わかりきっていたことだった。
虚ろな声でルーは笑う。地獄の底で汚泥に塗れながら、輝く天上に手を伸ばす。
その指先が何を掴みたいのか、何を求めているのか、しかしルーにはわからなかった。
――それから2年が経った。セデュイールは職場復帰して間もなく、自分の会社を起ち上げた。父の仕事の関連会社だ。貿易関係の財務を主にその業務としている。忙しく立ち働くうち、セデュイールはすっかり立ち直ったように、父の目には見えていた。具体的に何があったのか彼の父は調べることまではしていなかったが、人の噂は耳にしていた。
セデュイールが苦しい失恋を経験したのだということは、うっすらわかっていた。
だから彼が仕事に邁進するのを、父親は歓迎した。相変わらずの堅物で、知り合う女性のアプローチを悉く断り続けていることは、すこしいただけないが。
「君もそろそろ結婚相手を探してもいい年だ。なんなら私が見繕ってあげようか。身持ちのいい見目麗しい若い娘を。君のもとに嫁ぎたいという子なら、いくらでもいるだろうがね…」
「結構です。私は身を固めるつもりはありません」
最愛の一人息子はそう冷然と言い放って、また仕事の話を始める。
生真面目なのもいいが、少し面白みには欠けるなアと彼の父は溜息を吐くのだった。
セデュイールのもとに招待状が届いたのは、それから間もなくだった。新興企業の経営者ばかりをターゲットにしたと思しいその文面には、見知った男の名で、秘密の夜会への案内が記載されていた。
ウイリアム・テイラー、製薬会社のCEOで、ルーを連れ去った男だ。彼がその夜会の、主催者だった。




