第五話 歪んだ三角形
ベージュのトレンチコートを羽織ったウイリアムは足を組んで悠然と肘掛け椅子に掛ける。
応接間で彼を迎えたセデュイールは顔を強張らせたまま、拳を握りしめていた。
「ルーシュミネのことだがね。どうも、やつが君に世話になったようで…今日は感謝を伝えに来たのだよ」
やがてウイリアムは微笑交じりに語り出す。黒い口髭越しの薄い唇が三日月形に歪む。撫でつけられた黒髪はポマードに光っている。
「やつは君に迷惑をかけていなかったかね? 奔放な子だから、さぞや苦労したことだろう。君が目を離した隙に、ホテルのポーターや他の客室の滞在客を、ベッドに誘うようなことはなかったかね…」
「……」
すべてお見通しだとでもいうような黒い瞳がにんまりと歪む。セデュイールは唇を噛んで彼を睨む。20は年上であろう、ウイリアムを。
「ルーはあなたには渡しません。私が面倒を見ます。…お帰りください」
「そうかね。君には荷が重いんじゃあないか? 現に君は今ひどく憔悴しているようだがね。悪いことは言わない、手を引き給え。レヴォネ家としても、あの子をこのまま君が囲い続けるというのは、外聞が悪いだろう…」
「私の家は関係ありません。これは私個人の決断です」
「世間はそのようには見ないよ。金持ちの御曹司が一介のピアニストに――それも男の子に、誑かされてトチ狂ったと見るのが普通だ。君のご両親は納得しているのかね? 彼らは君に何と言っていた?」
「ですから、両親はこの件とは関わりが――」
「ウイリアム!」
客間で次第に強くなる声に我慢ができなくなったのか、寝室から裸足のままのルーが駆けだしてくる。呆然と見守るセデュイールの前でウイリアムの膝に腰かけたルーは、胸元に頬を擦り寄せた。
…ウイリアムが訪ねてきたときに、拘束は解いていた。彼に突け入れられるような隙を見せないためだった。
まさかルーがここまで彼に懐いているとは、セデュイールは想像もしていなかったのだ。
「ああ、ルーシュミネ、久しぶりだね。少し痩せたんじゃないかな?」
「ウイリアム、ハッパ、ハッパ頂戴。持ってるんでしょう? ぼくなんでもするからア、ねえおねがい…」
「困った子だね、人前で…彼が困惑しているだろう、」
「…ルー、」
腰を浮かせたセデュイールは喉が詰まってうまく声を出すことができず、ルーの名を呼ぶ音は掠れて途切れる。ぐちゃぐちゃに乱れた思いが胸の底で渦巻いている。ルーを今すぐ引きはがしたい。この手に取り戻したい。その薄汚い手を今すぐルーから離せ、醜い欲望で、ルーを汚すことをやめろ。ルーは、神聖な存在なんだ、神に愛された才能なんだ、俺の天使だったんだ、ずっと昔から――
「ルーシュミネ、彼にお別れをお言い。世話になったのだろう」
「うん、ありがとうね。セデュ、ばいばい」
「待、っ…いか、ないでくれ、ルー」
セデュイールは震える手を伸ばす。ウイリアムに立たせられたルーはそれを不思議そうに眺めて、くるりと背を向けた。
「今夜は私の屋敷においで。妻が出て行ってから寂しくてね…しばらく滞在すると良い。客も大勢呼ぶよ…」
「やった。じゃあいっぱいできるね。ぼくしばらくご無沙汰だったから。愉しみだなア」
「ご無沙汰? 彼とはあまりしなかったのかい?」
「セデュはね、汚いぼくとは寝たくないんだって。ピアニストとしてのぼくが好きなだけだから。素顔の僕は、すきじゃないんだよ」
「ほおお。殊勝な男がいたものだね、君の身体を前にして…」
キャハハ、と乾いたルーの笑い声が閉じる扉に遮られ、聞こえなくなる。
セデュイールはただ愕然と、立ち尽くしていた。
どこから間違えていたのか、もはや彼にはわからなかった。
「空が飛びたいんだ」
とルーは言った。
夏季休暇に訪れた、北イタリアの、レヴォネ家の別荘地でのことだ。
8歳のルーはきらきらと瞳を輝かせてセデュイールを見上げる。
初めて会ったときひどく怯えていたこの子は、セデュイールと接し甘やかされるうちにすっかり彼に懐き、ワガママを言えるくらい打ち解けるようになっていた。
14歳のセデュイールは少し考える。ここに父のプライヴェートジェットはない。父に頼めば運んでもらえるだろうか。少し時間はかかるだろうけど…
「飛行機に乗りたいってこと? すぐは無理だけど、ちょっと待てばなんとかなるかも、」
「やだよ、すぐがいい。今ぼくは飛びたいの!」
聞き分けのないルーはそう言って地団駄を踏む。願い事はなんでもセデュイールが叶えてくれるとルーは知っていた。ルーのワガママを叱って体罰を与えるようなことはセデュイールにはできないと知っていた。3年の間に、思い知らされていたのだ。
「かなえてよ、おにいちゃん、ぼくの魔法使いさん」
懇願されて、セデュイールはまた思考を巡らせる。10数秒考えたのち、彼は物置から古びた自転車を引っ張り出した。
凹んだタイヤに空気を入れて、軋みを上げるハンドルを握りしめる。
「うしろ、乗れよ。俺が漕ぐから、しっかり捕まってろ」
自転車に跨り振り向いたセデュイールにぱっと顔を輝かせたルーはぴょんとサドルに腰かける。ぎゅうとその小さくふくふくした愛らしい手が、セデュイールのシャツを掴む。
ぐいとペダルを踏みしめる。ヒュウと耳元で風が吹く。
別荘の周りは畑になっていて、民家はない。庭のある場所から町に続く道に下りるには急な坂道があって、ポプラの木立がざわめいている。
坂道をタイヤが転がり出すとセデュイールは足をペダルから離して重力に任せ、ハンドルをぎゅっと握り締める。どんどんと上がっていくスピードに後ろから燥いだような声が上がる。
「すっごい! 耳の傍で、風が鳴ってるよ、おにいちゃん!」
キャハハ、と高い、少女のような声が笑う。
なんの憂いもないようなその笑い声にセデュイールは安堵して、坂道の終わりにぐいとハンドルを切って曲がる。
「このまま町まで行こう、こわくないか?」
「だいじょーぶだよ、とっても楽しい!」
ぴたりとルーの、柔らかな頬が背中にあてられる。ルル、と可憐な唇が、後ろで音楽を口ずさむ。ポプラの並木から射す木漏れ日にちらちらと照らされて、セデュイールはそのとき、幸福の最中にいた。




