第四話 イグアナの昼と夜
それからセデュイールはホテルの部屋から仕事場に通い、仕事が終わるとルーのもとに直帰した。ルーは大抵ベッドでごろごろして怠惰に過ごしていて、常に夢うつつのような状態でセデュイールを迎える。
部屋にはピアノがなかったのだ。すぐに新しいピアノのある部屋に移らなければならない、ルーの生きがいはおそらく今それだけなのだろうから。
セデュイールはそう思い、ルーをホテルに残して部屋探しを始めた。一人で残してきたルーがどんなふうに時間を過ごしているのか、何も知らないままで。
異変はすぐに訪れた。ある日帰宅すると、ベッドの上にルーの姿はなかった。ホテルの鍵は開けられたままだ。セデュイールは路上に駆け出し、一晩パリの町を走り回ってルーを探した。
翌朝になり、ルーを見つけられず疲れ果てたセデュイールがホテルの部屋に戻ると、当のルーはベッドの上にいた。
下半身は裸で、脱ぎ捨てられたズボンは床に放り棄てられ、ベッドサイドのテーブルには白い粉末が散らばっている。
茫洋とした瞳をセデュイールに向けたルーは蠱惑的に微笑み、片腕を物憂そうにもちあげた。
「やあ、おそいお帰りだねえ、おにいちゃん…」
部屋の中には饐えたにおいが充満している。込み上げる吐き気を堪えながら窓を開け換気するセデュイールの背中をジッと見つめて、ルーはまたへらりと笑った。
「きみさあ、ぼくを養うつもりならハッパもキチンと用意してくれないと。ぼく自分で売人探しに行っちゃったよ…」
「薬を、遣ったのか」
「これがないとぼく、飛べないんだもの。しかたないじゃない? 地面に落ちて潰れて死んじゃうんだ。舞台に立つ前もいつも吸ってるんだ。きもちいいんだよ。七色の光に包まれて、トリップするの…」
「金は、どこから、…」
「ああ、お代? お金なかったから、咥えてあげたの。ちょっと苦かったけど、久しぶりで美味しかったなア。逞しくって、ここんとこにタトゥーなんかがあってね、売人にしとくのは惜しいような、いい男だったなア」
「…ここで、寝たのか、その男と…」
「べつにかまわないでしょう? きみにめーわく、かけないよ。ぼくは自分で相手を探して、気軽に発散してるってだけなんだから」
けらけらと空疎な笑い声が部屋にこだまする。ジンジンと頭蓋が割れるように痛んでセデュイールは眉を顰める。四六時中見張っていないと、ルーは自傷行為を繰り返すというのか。ルーは自らすすんで破滅への道を選んでいる。歯止めが効かなくなっているのだ。誰もこれまでルーを止めてこなかったせいだろう。それが間違った道なのだと、教えてやらなかったせいなのだろう。
蟀谷を抑えながら気持ちを落ち着け、セデュイールはベッドに掛ける。化粧の落ちたルーの顔色はひどく青褪め、唇の色は紫がかった桃色だ。
その華奢な身体はどこまでも白く澄んで、穢れなど知らぬ巫女のように見えるのに、まるで全身が性器であるかのような生臭いにおいを放っている。…
「ルー。薬はいけない。もうやめると、ここで誓ってくれ」
「……」
「お前の自傷行為を、これ以上見過ごせない。自分で自分を壊すようなことは金輪際やめるんだ」
ルーは唇をぱかりと開いて何か言葉を探している。珍しく、戸惑ったような色がその瞳を横切る。
「…どうしてだめなの」
「ルー、薬はお前の正気を失わせるんだ、思考力も判断力も奪って依存させる。そんなものをつづけていたら…」
「それがどうしてだめなの。ウイリアムはそんなこと言わなかった。ぼくの好きにさせてくれてた…」
ウイリアム、というのは、以前のルーのパトロンのことだろうか。
ルーを好き勝手に弄んで、嬲り尽くしてきた男の名か。製薬会社のCEOだとルーの父は言っていた――
「わかってくれ、ルー、何もかも許すことはできない。おまえの魂を自ら傷つけるような真似は、断じて許すことなど、」
「ねえ、おにいちゃん…きみはぼくのピアノが好きなんでしょう、ぼくはねえ、ハッパがないともう舞台に立てないんだよ。きみが聴いて、感動した演奏も、みんなみんな、ぶっ飛んでたときのぼくが奏でたモノだったんだ。ねえ、おねがい、これがないとぼくは死んじゃうんだ、生きてけないんだよ、セデュ…」
寝ころんだまま両腕を伸ばしてセデュイールを引き寄せたルーがぐいと力を籠める。湿ったシーツの上に倒れ込んだセデュイールは耳元で掠れた声で囁かれて、胸の奥がぐらぐらと揺れる。
思わず見返したルーの瞳は淡く澄んで、木陰でさざめく小川のような色をしていた。
セデュイールは仕事を休みがちになった。ホテルの部屋にルーを一人で置いて置くことが、心配で仕方がなかったのだ。
ルーがいつまた同じように街に繰り出し、薬欲しさに売人と関係をもつかわからない。だからといって四六時中監視しているわけにもいかず、セデュイールはルーの両腕を縛ってベッドの桟に結び付けるようになった。
監禁状態でルーを囲いながら、自分がどこか壊れていくのを、セデュイールは自覚していなかった。拘束されたルーに食事を与えるためにセデュイールは毎日決まった時間にホテルに戻り、食事を用意し、ひな鳥に与えるようにそれを与えた。
差し出されるスプーンを咥えるルーはひたすら従順で愛らしく、つい先日までの奔放さが嘘のようにおとなしかった。
セデュイールはルーを抱くことのないまま、ままごとのような関係をつづけ、閉ざされた密室で、二人だけの世界で、ルーを慈しんでいた。
しかしそんな歪んだ関係には、いずれ破綻が訪れる。
セデュとルーの蜜月の部屋に、ルーの以前のパトロンが訪ねてきたのだ。
製薬会社のCEO、ウイリアム・テイラーその人が。




