第三話 欲望という名の列車
「よくやった、ルー。レヴォネ家は名門だ、これで我々の今後は安泰だ。最近はテイラー氏もお前の身体に飽きてきていたようだったからな。ちょうどいい頃合いだよ。なんなら二股かけてもいい。そういう刺激があればテイラー氏もまたお前を求めるようになるだろう。もし彼が戻ってこなくても、レヴォネ家の御曹司なら資金源には事欠かない。せいぜいあの若造を振り回して、夢中にさせてやるんだ、できるだけ長い期間…8年前にはお前に堕ちなかったが、今のお前なら可能だろう、若造を虜にする手管など、いくらでも知っているだろう…」
「はい、父さん」
自室のベッドに腰かけたルーはこっくりと頷いて応える。
父はウロウロとルーの部屋を歩き回っては足を止め、感嘆の声を上げ、天に感謝の祈りを捧げる。新しいパトロンをルーが捕まえてきたことに、狂喜しているのだ。
マリアンヌは跪いてルーのスーツケースに衣類を詰め込みながら、ひどく冷え切った思いでそれを見る。
ルーが連れてきた新しいパトロンは、レヴォネ家の御曹司だった。8年前までルーと親しくしていた青年だ。父は彼か、レヴォネ家の現当主である彼の父親かがルーの後見人となってくれることを期待して交流させていたようだったが、特にそういったことはなく二人は健全な付き合いをするのみで、失望した父はルーの活動が忙しくなってきた時期に彼の元に行くことをルーに禁じたのだ。
8年前、ルーは11で,セデュイールは17の時だった。
当時16だったマリアンヌは弟とよく遊んでくれる柔和な雰囲気の美しい青年に恋心に似たものを覚えていたが、この8年の間、使用人のように家族に酷使される中でそんな浮ついた思いは枯れ果てていた。
だが今日、久々に会った彼はやはり目が覚めるように美しく理知的な雰囲気で、年を得て体つきはすらりとした少年からしっかりとした大人のものとなり、その顔立ちも精悍さと仄かな色気を宿し、悩まし気な目元の影が愁いを帯びて麗しかった。
…ルーのパトロンとして現れたのでなければ、その胸に飛び込んでここから連れ出してと泣き縋りたくなるくらいに。
しかし彼はルーに誑かされてしまった。おそらくはいつもの軽薄なそぶりでルーは物陰に彼を誘って、躊躇なく彼を咥え込んだのだろう。何の計算もしていないように見せかけて、男を惑わす手練手管が根っからルーには染み付いている。吐き気を催すほどの罪悪が身体中に染み付いて、ルーはもはや淫魔のようだとマリアンヌは思う。
私は決してあんなふうにはならない。結婚するまで相手に身を任すようなことは決してしない。私は貞節だ、弟と違って。マトモに生きていきたいのだ、ルーの生み出す財に縋るように生きる両親とは違って。…
「準備ができました、父さん」
トランクに鍵をかけてマリアンヌはその鍵を父の手に渡しながら言う。ルーに渡してもこの子はすぐになくしてしまうのだ。無造作にポケットに突っ込んでそのままその存在を忘れてしまうためだろう。この鍵も何度も作り直して、今5代目だ。
「ああ、新しいパトロンを待たせてはいけない。立ちなさいルー、コートを羽織って、出かける準備だ。今夜からお前は、レヴォネ氏の厄介になるんだよ」
「はい、父さん」
すらりと立ち上がる黒燕尾服姿のルーにサマーコートを着せ掛けてやってから、マリアンヌはトランクを持ち上げる。身軽な父と弟の後ろからトランクを抱え運ぶマリアンヌのお足取りはよたよたしている。ルーの衣類一式に膨大な量のスコア、スケジュール帳の類(これはルー本人が付けていたのではなく、父が付けていたものだが)を詰め込んだトランクはひどく重い。けれどこの家には使用人がいないので、こういった力仕事はもっぱらマリアンヌの役割だった。
ルーより先にピアノを習い始めたマリアンヌだったが、みるみるうちに上達するルーに追い抜かれ、コンテストでも惨敗した彼女に、父が期待をかけることはなかった。
父はこの家の独裁者で、母は病弱、ルーは大切な資金源。となれば自然とマリアンヌが一切の負担を負うこととなったのだ。
よたよたと客間に入室したマリアンヌを迎えたセデュイールはすぐに立ち上がり、彼女に駆け寄りトランクを預かる。
空いた彼女の掌にセデュイールは軽く握手して「ありがとう」と一言添えた。
「ではここで、失礼します。また追って連絡いたします。あなたがたの住む場所も、新しく用意しましょう」
「ルーを頼みましたぞ。手のつけられない悪童でも、大切な一人息子ですからな。夜の方も、若いうちはさぞやお盛んなことでしょうが、休み休みお願いしますよ…」
「………」
下卑た笑いとともに注がれる父の言葉には応じず、セデュイールはルーの背を押して促す。
「さようなら、父さん、母さん、姉さん。また連絡するよ」
商品のようにやりとりされるルーはしかし感慨などないようにあっさりとそう言って、屋敷の敷居を跨いでいった。
パリの一等地に建つホテルのスウィートにルーを連れ込んだセデュイールはトランクを下ろす。彼の父から渡された鍵でトランクを開け、衣類をてきぱきとクローゼットに掛けてゆく。
本来ならルー本人がやるべきことなのだが、当のルーはぼんやりベッドに腰を下ろしたまま天井を見上げている。ベッドサイドのランプがオレンジ色の灯りを壁に映して、ルーの白粉の塗られた頬に陰影を作る。
「先にシャワーを浴びるか、今湯を張ってくる…」
「シャワーを浴びたら、ぼくと寝てくれるの? おにいちゃん」
「……」
相変わらず真意の掴めないふわふわとした態度で、そんなことをルーは言う。
セデュイールはぐっと唇を噛んで、浴室に立った。ノズルを捻り湯の温度を調節してからまた部屋に戻る。ルーはベッドに腰かけた姿勢のまま、お行儀よくセデュイールを待っていた。
「…私はお前を抱かない。今までみたいなことは、もうしなくて良い」
「どういうこと?」
「その、…好きでもない相手と寝るようなことは、しなくていいということだ」
きょとんとしたルーのがらんどうの瞳が見返してくる。ガラス玉のように澄んで、感情の見えない緑色。高貴な宝石のように美しいのに、どこかが決定的に欠落しているようなそれ。
「じゃあなんでおにいちゃんは、ぼくをここに連れてきたの? ぼくが欲しいからじゃないの?」
「…違う、」
「ぼくはなにをすればいいの? おにいちゃんに何をあげたらいいの? ぼくがあげられるものなんて、ほんとにないんだ。セックスくらいしか思いつかないんだけど」
「もうそういうことは、しなくて良いんだ。…やめてくれ、頼むから…」
最後は懇願のように掠れるセデュイールの声にことりと首を傾け、ルーは不思議そうにぱちぱちと瞬いた。
「おにいちゃんは、じゃあぼくの何なの? パトロンって、身体を見返りに支援してくれるひとのこと、でしょう?」
「…私は、お前の…ファンだよ、ルー」
「へええ?」
「お前が…何にも煩わされず、惑わされず、自由に、…舞台に立つところが観たいんだ。それだけでいいんだよ」
「ファンかア。そっか、そういうこと…」
靴を脱ぎ捨て、靴下も脱いで裸足になったルーはベッドの上で膝を抱え、膝の上に頬を載せて斜めにセデュイールを見上げる。くすくすと軽やかな笑い声がその紅を塗った唇から漏れ出す。
「おにいちゃんはぼくにガッカリしたんだ。そうでしょう? 綺麗なお洋服着て、スポットライトを浴びて、賞賛を受けてるぼくが、薄汚い淫売だって知って、ショックだったんだ。だからそんなに悲しそうなんだね。うん、ごめんね、きみの期待するような、きれいなぼくじゃなくて。きみがぼくと寝たくないのもとうぜんだね。でも安心して、ぼくはまだビョーキは持ってないから。同じお風呂やトイレ使っても、へーきだよ。あれだけのことして、自分でも不思議なくらいなんだけど、神様が、まだ生きていてもいいって、言ってくれてるのかな…」
「ルー、…」
「そんなわけないか。神様はとっくにどっかにいっちゃった。悪魔がぼくを見過ごしてるだけだね。それだけのことだ」
裸足のままでベッドから飛び降りたルーはセデュイールの横をすり抜けて浴室に向かう。
「先にシャワー浴びるね、おにいちゃん」
と淡々とした言葉を残して。
ひとり部屋に取り残されたセデュイールは拳を握りしめる。爪が肌に食い込むほどきつく。
セデュイールは己の無力さに打ちのめされていた。これまでルーが受けてきた恥辱に、数えきれないほどの人間に嬲りものにされてきたという事実に、微塵も気づかなかった自分の愚かさに反吐の出る思いだった。
だが、これからは自分がルーを守っていくのだ。誰にも決して彼を傷つけさせない。セデュイールはそれができると信じていた。彼はまだ若く、見通しのきかない25歳の若者だった。




