第二話 ガラスの標本室
14歳で女優に嵌められレイプされて以来、ルーの乱脈な性遍歴が始まった。
膿んだ傷口を抉るようにルーは誰とでも寝て、その空疎な快楽を貪った。当時の相手は女性が主だったが、キメセク、乱交、特に抵抗なく、なんでもやった。15歳になるころにはすっかり擦れていた彼は、ある資本家にベッドに誘われ、そこで初めて男に抱かれた。
初めての夜、痛みと苦しさに呻きながらルーは誰かを思い出していた。震えるルーの拳をぎゅっと握りしめて、父からの重圧に怯えるルーの緊張をほぐしてくれた掌を。掛けられる優しい声と、穏やかな飴色の瞳を。
「お前の演奏、俺はすきだよ」
「思うように弾けばいい、お前はそれでいいんだよ」
「だいじょうぶだよ、だいじょうぶ。お前のこと、ちゃんと俺が見てるから」
おにいちゃん、おにいちゃん、おにいちゃん。
こわいよ、痛いよ、逃げ出したいよ、もういやだ、ぜんぶいやだ、何もかも、誰も彼も、みんなきもちがわるい。戻りたい、ぜんぶ投げ出して、おにいちゃんのところに行きたい。お願い、神様、お願いします。それが叶うなら、ピアノなんか辞めたっていい。父さんに叱られたっていい。誰に糾弾されたって、罵倒されたって、かまわない。おにいちゃんのところに、いますぐに、戻れるなら――
体内に射精される感覚があって、ルーはびくんと震える。そこで彼は掠れた声で笑うのだ。
――こんな汚れた自分が、どうしておにいちゃんのところに戻れるだろう。
きれいで、優しくて、穢れを知らない世界に住む、セデュイールのところに、行くことなんてできるだろう?
会場から連れ出したルーを隣に載せて、夜の町を車は走る。
ルーのがらんどうのような瞳に街灯の影が滑り、白粉をつけた白い頬が闇に浮き沈みする。
車窓の外を眺めたまま振り返らないルーを、セデュイールはじっと見つめていた。その頼りなく投げ出された掌を、ぎゅっと握りしめたまま。
「いやあ、お久しぶりです。8年ぶりですかな? まだルーのことを覚えておいていただけたとは、光栄です。レヴォネ氏、ささ、どうぞこちらへ…」
深夜に訪れたルーの住む豪邸では両親と姉とが恭しくセデュイールを迎え入れる。
この時間まで呑んでいたのか、赤ら顔の父親はにこにこしてセデュイールを客間に誘導し、彼の妻は無言で影のように付き従う。そして彼の姉もまた、人形のように表情をなくした虚ろな瞳で部屋の隅に控えていた。
「レヴォネ氏の御曹司を迎え入れることができて、感慨に耐えません。本日はあれですかな? 例のパーティーに参加されていたので? どうぞ、飲んでください。まだ夜は長いですぞ…」
上機嫌のルーの父親はそう言ってグラスをセデュイールに持たせ、テーブルに置いたままだったウイスキーの瓶を傾けて琥珀色の液体を注いで寄越す。
下戸であるセデュイールはグラスに申し訳程度に口を付けてから、改めて彼に向かい合った。
「今晩は、不躾にお尋ねして、申し訳ありません。少しお話したいことがありまして…パーティーでの、ルー…シュミネ君の、振る舞いのことですが、」
「ああ、またこいつが何かしでかしましたかね? 何か粗相があったとか? だとしたら申し訳ない。まったく、こいつは音楽以外のことはなんにもできない木偶の坊で、私どもも困っているのですよ…」
父親に扱き下ろされたルーはぼんやりしたまま中空を見つめている。ソファに向き合って座ったセデュイールと両親との、ちょうど真ん中の席に掛けて、投げ出すように長い脚を組み、背凭れにぐったりと凭れて脱力している。自分のことを話されていると言うのに我関せずの様子だ。
「…粗相というほどでは、ないですが、…彼はまだ、ひとりでああいった席に参加させるのは早いのではないですか。ご両親が、しっかりと見張っておくべきなのでは? …」
「いやあ、こいつは私どもの忠告なんか聞きはしませんので。それにこいつももう19です。じゅうぶん分別がついている年頃でしょう…」
「…私にはそうは見えませんでした、少なくとも今夜の彼は…」
「しかしあなたを捕まえてここまで引っ張って来た。こいつは自分の価値をよく理解しています。色目を使う相手の見極めも充分にできている。何の問題もありませんよ」
ハハハ、と豪快にルーの父は笑ってまた杯を傾ける。
信じられない思いでセデュイールはそれを見る。
この親は、ルーの不品行を承知の上で、パーティー会場に放流しているということなのだろうか。未成年の彼が、男たちの毒牙にかかるのを見越した上で、ああいった場に放り込んでいるとでも?
「…ルーはまだ、未成年です、大人がよく、見ていてあげないと…」
「この子は自分の魅力でパトロンを手に入れたのですよ。おかげで私どももいい暮らしをさせてもらえている。音楽家なんぞは金食い虫ですからな。我々のような庶民では、とてもこいつを満足に活動させることはできません。これまでのこいつの成功も、パトロンの協力あってこそのものだ! ご存じですかな、製薬会社のCEOの…」
「あなたは、ルーがどんな目に遭っているのか、理解しているのですか、…」
「勿論存じ上げておりますとも。しかし芸能界なんぞ、キレイなままではのし上がれない。これは今の地位を築き上げるために必要なことだったのです。ルーも現状に満足している。そうだね? ルー」
「はい、父さん」
操り人形のようにこくりと頷いたルーが簡素な言葉を返す。がらんどうの瞳に感情はない。目の前のものすら映っていないかのように虚ろだ。
「この子は根っからろくでなしで、淫蕩なんです。とても我々の手に負えるしろものじゃない。ですから芸能界に入って、却って良かったのかもしれませんな。一般社会ではこいつは生きてはいけない。なんの役にも立てませんからね。愚鈍で、のろまで、頭のネジも飛んでいる。ピアノと、あれにしか才能が発揮できないやつなんです、芸能界には入るべくして入ったとでも言うべきですな!」
セデュイールは呆然と、呵々大笑するルーの父親を見上げる。
ルーをそんなふうにしたのはあなたじゃないのか、そんなふうに、無垢だったこの子を作り変えてしまったのは、まわりの大人たちだったのじゃないか。
薄汚い欲望でルーを汚して、泥沼に沈ませて、この子を壊しつづけてきたのじゃないか。
「…あなたの言うことは、納得できません。ルーには、きちんとした大人の庇護が必要です。少なくとも今のままでは、ルーは近いうちに…」
「病気になるかどうかして、活動できなくなりますかな。たしかにそれは困りますな。きちんとした大人の、新しいパトロンが、ルーを見張っていてくれると言うのなら、別でしょうが…」
ちらりとセデュイールに視線を注ぎ、ルーの父親はまた杯を傾ける。
空になったグラスに手酌でウイスキーを注ぎ入れ、ぺろりと口端についた酒を舐める。
父親の思惑に、セデュイールは気づき始めている。セデュイールを誘い込みがっちりと捕らえて、ルーの新しいパトロンにさせようというのが彼の狙いなのだろう。そのために幾分露悪的な口調でルーを蔑み、こちらの庇護欲を煽り立ててきたのかもしれない。
だが、これが彼の罠だとしても、セデュイールはこのまま帰るわけにはいかなかった。
この腐った家にルーを置き去りにすることはできない。それはあいつを見殺しにするのと同じことだ。
魂の殺人によって傷つけられつづけてきたルーを、このまま放置して去ることなど、どうしてできるだろう。
「…わかりました。今後は私がルーを養います。あなた方のことも、きちんと面倒を見ます」
「ほお! それはそれは…」
怒りを押し殺したようなセデュイールの声に、浮かれたルーの父の歓声が被さる。
「ルーは私が引き取ります。今すぐ荷物を纏めてください。今夜のうちにこの家を出させます」
「ええ、ええ、構いませんとも。マリアンヌ、荷物を纏めろ」
「はい父さん」
それまで黙然と部屋の隅に控えていたルーの姉が膝を折って言って、すぐに客間を出ていく。
「それでは少し席を外させていただいて…お前も来い、ルー。少々こちらでお待ちください。すぐに準備いたしますのでね…」
上の空のルーを引きたてた父親はマリアンヌのあとを追うようにせかせかと客間を出ていく。客間に残されたセデュイールはルーの母と向かい合い、おどおどとしたその視線が一向に合わないことに、苦いものを感じていた。




