第8話「結婚記念日にはミサイルを」
その日の朝、エレナの様子がおかしかった。
おかしい、といっても普段と大きく違うわけではない。書類を処理する速度は相変わらず速く、アランへの指摘も的確で、胃薬を飲むタイミングも通常通りだった。ただ、何かが違った。バルドは「なんか今日は刺さる視線が鋭い」と感じ、シドは「朝から胃薬が2錠だった」と気づき、トビーは「副艦長が窓の外を見る回数が多い」と観察し、クロエは「エレナの表情筋の緊張度が通常比147%」と算出した。
誰も口には出さなかった。
アランだけが、何も気づいていなかった。
「今日は天気いいなあ」
「宇宙に天気はありません」エレナが振り返らずに言った。
「いや、なんか気持ちいい感じがして」
「感じません」
アランはヘラヘラ笑って、コーヒーを飲んだ。
マリアがヘッドセットを押さえながら、こっそりクロエに耳打ちした。
「今日って何かありましたっけ」
「14年前の今日、艦長と副艦長が結婚しています」クロエが小声で答えた。「離婚したのは3年前なので、元の結婚記念日です」
マリアは通信パネルに向き直った。そっとしておくのが正解だと、コールセンター時代に培った経験が告げていた。
午前中は平和だった。
平和すぎた。エレナが一言も私語を発しない。アランが何か話しかけるたびに、一言で切り返して前を向く。その背中が、いつもより少しだけ固かった。
昼過ぎ、アランが席を立った。どこかに行って、戻ってきた。
手に、花束を持っていた。
宇宙船の中で花束というのは珍しい。正確には花ではなく、観葉植物コーナーから拝借してきた鉢植えを無理やりまとめたものだったが、アランなりの誠意だった。リボンもついていた。ゴンザレスのモップの柄に巻いてあったものを拝借したらしく、ゴンザレスが無言でこちらを見ていたが、アランは気にしなかった。
「エレナ」
エレナが振り返った。
花束を見た。
アランを見た。
「……何ですか」
「いや、なんか、今日ってほら」アランが頭を掻いた。「覚えてるかなと思って」
ブリッジが静まり返った。
全員が、それぞれの作業を続けながら、完全に聞き耳を立てていた。バルドは腕を組んで前を向いたまま、シドはコンソールを見つめたまま、トビーはレーダー画面を凝視したまま、クロエはタイピングを止めないまま。マリアだけがヘッドセットを外して、小さく息を呑んだ。
「覚えています」エレナが静かに言った。
「そっか」アランがへらっと笑った。「まあ、その、なんていうか——」
「受け取る理由がありません」
「そうだよな、うん、まあ——」
「捨ててください」
「うん」
アランは花束を持ったまま、艦長席に戻った。花束をコンソールの端に置いた。捨てなかった。
エレナは前を向いた。
それで終わりかと思った。
終わりではなかった。
午後3時、敵艦隊からの通信が入った。
「敵から通信です」マリアがヘッドセットを押さえた。「ミサイル艦隊8隻、距離5万。攻撃予告です」
「迎撃態勢——」エレナが立ち上がった瞬間、アランが言った。
「逃げましょう」
エレナが振り返った。
「逃げる?」
0.5秒の沈黙。
「8隻ですよね」バルドが低い声で言った。
「そうです」
「こっちは30隻ですよね」
「そうです」
「逃げる理由が数字として存在しません」
「でもほら、ミサイル艦隊って——」
「っす」レオンが操舵桿を握った。「どこ逃げます?」
「それはまだ決めてないけど——」
「逃げる方向だけ決めてないってことは、どっちに逃げるかもわからないってことっすよね」
「みんなはどう思う?」
「撃ちます」バルドが即答した。
「落ち着いてください」シドが言った。「8隻なら主砲3発で十分です。エンジンへの負荷も——」
「3発」バルドが振り返った。「3発でいいんですか」
「計算上は」
「撃ちます」
「落ち着いてと言いました」
「30隻で8隻から逃げるんですか」トビーが困惑した顔で言った。「それ僚艦に説明できますか」
「できません」マリアが小声で言った。「通信でなんと伝えれば——」
「逃げましょう」アランが言った。「右に、いや左に——」
「そうやってすぐ逃げる」エレナの声が、1段低くなった。「昔から」
アランは口をつぐんだ。
「何かあったら正面から向き合わずに横を向く!辺境勤務を志願したのだって、本部にいると私に顔を合わせるからでしょう!」
「それはちょっと——」
「違わない!あなたが家のローンから逃げた時もそう!仕事から逃げた時もそう!」
「エレナさん、それ全艦に——」マリアが蒼白になって通信パネルを指さした。
「今はそれどころじゃない!あなたというひとは昔から決断というものができない、戦場だろうがどこだろうが!右に逃げるな、正面を向け、主砲を構えなさい、いい加減にしなさい!」
ブリッジが静まり返った。
エレナの声はさらに上がった。
「結婚記念日に今さら花束なんか持ってきて!14年間で記念日を覚えていたのは今日が初めてでしょう!その花だって鉢植えをまとめただけでしょう!リボンはゴンザレスさんのモップから取ったでしょう!何もかもが場当たり的で、その場しのぎで、それで笑ってへらへらしていられるのが私には——!」
「ミサイル発射確認!」トビーが叫んだ。「8隻から同時発射、計32発!」
誰も聞いていなかった。
「逃げるな!正面を向け!あなたが今すぐ逃げようとしているのは私から逃げているのと同じです!14年間ずっとそうだった!認めなさい!」
「ちょ、ちょっと待って——」
「待てません!私は14年待った!」
マリアが通信パネルを見た。全周波数、開きっぱなしだった。敵の通信チャンネルにも、味方の30隻にも、本部への定期回線にも、エレナの声が筒抜けで流れていた。
マリアは何も言えなかった。止める言葉が見つからなかった。
エレナの声は続いた。ブリッジの壁が振動した。コンソールのカップが揺れた。ゴンザレスが磨いたばかりの床に、コーヒーがこぼれた。ゴンザレスが静かに雑巾を取り出した。
4分後。
「敵艦隊、ミサイル全弾を緊急自爆させています!」トビーが叫んだ。「なぜ!?」
「音響センサーが——」クロエが画面を見た。「全周波数に乗った音声が、敵艦隊の音響索敵システムに干渉しています。特定の周波数帯が——」クロエは少し止まった。「副艦長の声の周波数が、敵の音響センサーの共鳴周波数と一致しています。センサーが過負荷でシステムダウン。誘導システムを失ったミサイルが自爆シーケンスに入っています」
ブリッジが静まり返った。
エレナが口を閉じた。
全員がエレナを見た。エレナはクロエのデータを見た。データを見た。もう一度見た。
「……私の声が」
「超音波兵器として機能しました」クロエが淡々と言った。「誤差はありません」
「敵艦隊、撤退します!」トビーが叫ぶ。「『恐ろしい音響兵器だ』と通信が——」
通信パネルに僚艦からの信号が殺到した。
『旗艦、新型音響兵器でミサイルを無力化!』
『敵の誘導システムを壊滅させた。一体どんな技術を——』
『さすが旗艦、我々には想像もできない』
アランが花束を持ったまま、固まっていた。
エレナは胃薬を取り出した。今日は3錠飲んだ。
「……報告書には何と書けばいいですか」マリアが小声で聞いた。
「音響兵器の実戦投入、で構いません」クロエが答えた。「技術的に正確な記述です」
エレナは前を向いた。その耳が、わずかに赤かった。
バルドが「また撃てなかった」と呟いた。シドが「エンジンは無事です」と言った。レオンがオリヴィアをちらりと見た。オリヴィアは書類に何かを書いていた。
アランがそっとコンソールの端の花束を手に取った。
「……エレナ」
「捨ててください」
「うん」
アランは花束を捨てなかった。
ゴンザレスがこぼれたコーヒーを拭き終えて、また床を磨き始めた。何事もなかったように。




