第9話「ボーナス争奪・借金返済大作戦」
朝、ブリッジに来たクルーは全員、自分のコンソールに一枚の紙が置かれているのに気づいた。
手書きだった。丁寧な字で、一言だけ書いてあった。
『本日中にご返済をお願いします。——G』
全員が紙を見た。全員がゴンザレスを見た。ゴンザレスはモップを左から右へと滑らせ続けていた。いつも通りだった。何も言わなかった。
「Gって」レオンが紙を裏返した。「裏に何もないっす」
「ゴンザレスさんのことでしょう」マリアが小声で言った。
「いくら借りてたっけ」トビーが小声で言った。
「聞かないでください」シドが小声で言った。
アランは天井を見た。ゴンザレスへの借金の総額を思い出そうとして、やめた。思い出したくなかった。
エレナだけが紙を一読して、静かにコンソールの端に置いた。エレナはゴンザレスのポーカーには参加していない。借金もない。その事実が今日だけは、ひどく光って見えた。
「本日中って」アランがゴンザレスに声をかけた。「なんかあるんですか、今日」
ゴンザレスはモップを動かし続けた。やがてゆっくり振り返り、アランを見た。何も言わなかった。また前を向いた。
それで全員が理解した。本気だ、ということを。
本部からの通信が入ったのは、昼前だった。
「本部より全艦隊への通達です」マリアがヘッドセットを押さえた。「本日の作戦において最大の戦果を挙げた艦のクルー全員に、特別作戦ボーナスが支給されるとのことです。通常月給の3ヶ月分です」
ブリッジの空気が変わった。
「特別ボーナス」アランが繰り返した。
「特別ボーナス」バルドが繰り返した。
「特別ボーナス」レオンが繰り返した。
全員が紙を見た。全員がゴンザレスを見た。
「つまり本日中にボーナスを獲得すれば返済できる」クロエが言った。
「できます」全員が同時に言った。マリアも含めて。
エレナが額に手を当てた。嫌な予感がした。いつも嫌な予感は当たった。
「作戦の詳細は」エレナが聞いた。
「敵の補給艦隊を護衛している戦闘艦12隻を撃退、補給艦隊を拿捕せよとのことです。第三艦隊30隻と第二艦隊30隻の合同作戦です」
「合同」アランが嫌な顔をした。「フォルスター大佐と?」
「はい」
アランは天井を見た。手柄を持っていかれる可能性がある。ゴンザレスへの借金。特別ボーナス。アランの中で何かが珍しく計算された。
「頑張りましょう」アランが言った。
エレナは胃薬を飲んだ。今日は最初から2錠だった。
作戦が始まった瞬間、全員が動いた。ただし全員バラバラに。
バルドが射撃管制コンソールに仁王立ちで陣取り、シドが「今日は絶対に落とさない」と機関コンソールにしがみつき、レオンが最短ルートで突っ込もうとしてオリヴィアに「Gをかけすぎたら怒ります」と釘を刺され、クロエが詩と分析を6対4で並走させてエレナに「逆にしなさい」と怒られ、マリアが敵の通信に「お電話ありがとうございます」と答えてエレナに「マリアさん!」と叫ばれた。
フォルスター大佐からの通信が割り込んできた瞬間、アランが「あ、すみません電波が」とモニターを切った。
「今日切るの早かったです」トビーが言った。
「練習した」アランが言った。
エレナが全員に指示を飛ばし続けた。誰も完全には聞いていなかった。
バルドが撃とうとしシドが牽制し、レオンが突っ込もうとしてオリヴィアが止め、クロエが詩の比率を戻しエレナに怒られ、マリアが保留音を流してエレナに怒られた。全員の操作が加速、停止、射撃、旋回をランダムに繰り返した。
敵の指揮官がモニターで旗艦の動きを見ていた。計算式が成り立たなかった。予測しようとするたびに違う動きをする。
『か、かく乱攻撃だ!予測不能な——計算式が——』
「お電話ありがとうございます」マリアが答えた。「ただいま担当者が——」
『うわあああ』
敵艦隊が自滅した。
シドが「もうダメだ爆発する」と叫びながら出力を戻した瞬間の急加速で3隻を抜き去り、バルドの主砲で先頭艦を仕留め、レオンの急旋回で残りが包囲されて投降した。12隻、全艦拿捕。
静寂が戻った。
通信パネルに信号が殺到した。
『旗艦の予測不能機動、敵艦隊を完全に翻弄!』
フォルスターからも通信が入った。アランがモニターを繋いだ。
「あの機動は——意図的に予測不能な動きを?」フォルスターの顔に珍しく本物の困惑があった。
「まあ、いろいろと」アランがヘラヘラ笑った。
「……我々には真似できません」
「お互い様ですよ」
通信が切れた。
本部からボーナス支給の通知が届いた。
全員がゴンザレスを見た。ゴンザレスが静かにブリッジを歩いてきた。全員の前に順番に立ち、受け取るたびに小さく頷いて次へ進んだ。
アランが最後だった。封筒を渡した。ゴンザレスが確認した。アランを見た。
「……足りなくないですか」アランが小声で言った。
ゴンザレスは何も言わなかった。封筒をポケットに入れて、モップを手に取り、ブリッジを磨き始めた。
「……足りてたってことでいいですか」
ゴンザレスはモップを動かし続けた。
アランはそれを「はい」と解釈することにした。
エレナが振り返らずに言った。
「報告書、予測不能機動の意図について説明できる範囲で書いてください」
「説明できる範囲が狭いんですが」
「知っています」
ゴンザレスが磨き上げたブリッジの床が、夕刻の照明を反射して光っていた。




