第5話「担当者は只今席を外しております」
朝のブリッジに、クロエが作ったものが貼ってあった。
マリアの通信士コンソールの端に、小さな紙が一枚。手書きではなく印刷だった。
『本日の通信処理効率予測:マリアが隣にいる場合94.7%、いない場合31.2%。統計的に明白。——クロエ』
マリアは出勤してそれを見た瞬間、そっと剥がしてポケットに入れた。怖い。
トビーはその一部始終を見ていた。クロエを見た。クロエは涼しい顔でタイピングしていた。
「クロエさ、あれ毎日やるの」
「データが更新されたら更新します」
「マリアさん困ってたけど」
「照れているんです」
「そうかな」
「そうです」クロエは断言した。「照れと恐怖は表情筋の動きが類似しています」
トビーは何も言えなかった。
マリアはヘッドセットを装着しながら、ちらりとトビーを見た。クロエに言い返そうとして言えない、困ったような顔をしている。仕事中のあの真剣な顔だ。
マリアはヘッドセットを直した。胸の奥で何かが動いた。
トビーはクロエを見ていた。
問題が起きたのは午後だった。
敵のハッキング通信が艦隊全体の周波数に乗ってきた。
「全周波数に割り込み信号です!」マリアが叫んだ。「敵の通信妨害——いえ、ハッキングです!艦隊の通信網に侵入しようとしています!」
「遮断できるか」副艦長エレナが即座に振り返る。
「やってみます——でも、かなり高度なプロトコルで——」
通信パネルが激しく点滅した。敵の音声が混じり込んでくる。
『銀河連邦軍艦隊へ告ぐ。貴艦隊の通信網を掌握した。30秒以内に投降せよ、さもなくば——』
「担当者に——」マリアが反射的に答えかけた。
「マリアさん」エレナが鋭く言った。
「す、すみません!遮断します!」
マリアが通信パネルを叩いた。しかしハッキング信号は止まらない。むしろ強くなった。
「遮断できません!向こうのプロトコルが——」
「クロエ」エレナが分析官席を見た。「対抗プログラムを——」
クロエは猛烈にタイピングしていた。ただしその画面を見たエレナの眉間に、深い皺が刻まれた。
「クロエ。今何を入力していますか?」
「対抗プロトコルです」
「メインコンピューターを占有しているのはなぜですか!?」
「演算リソースが必要なので」
「その演算の中身を見せなさい」
0.3秒の沈黙。
「マリアへの詩的散文の自動生成プログラムと、対抗プロトコルの並列実行です。比率は7対3です」
「7が詩で3が迎撃ですか」
「マリアへの詩のほうが演算量が——」
「今すぐ逆にしなさい」
「でも——」
「今すぐ」
クロエは0.5秒考えてから、渋々比率を変えた。
対抗プロトコルが動き出す。ハッキング信号がわずかに弱まった。しかし完全には止まらない。敵の通信がまだ断続的に混じってくる。
『——投降せよ——30秒以内に——応答し——』
「時間を稼ぎます」エレナがマリアを見た。「敵の通信チャンネルに繋いで」
「繋ぎます——はい、繋がりました」
エレナが口を開こうとした瞬間、マリアが答えていた。
「お電話ありがとうございます、銀河連邦軍旗艦『アルテミス』でございます。ただいま担当者が——」
「マリアさん」
「——席を外しておりまして、このままお待ちいただくか、折り返しのご連絡先を——」
「マリアさん!」
マリアがはっと我に返った。
「す、すみません!つい——」
保留音が流れ始めた。
艦隊全周波数に。
30隻の僚艦に向けて。
そして敵の通信網に向けて。
のどかな管弦楽が、宇宙空間に響いた。
ブリッジが静まり返った。
バルドが腕を組んだまま天井を見た。シドが目のクマをさらに深くした。レオンが操舵桿を握ったまま固まった。オリヴィアが書類から目を上げて、また書類に戻った。
アランだけが、なぜか落ち着いていた。
「まあ、いっか」
「よくありません」エレナが即座に言った。
「でも繋がってるんでしょ、敵と」
「繋がっています」
「じゃあ時間稼ぎにはなってるよ」
エレナは何か言おうとして、口を閉じた。胃薬を取り出し、また仕舞った。
保留音は流れ続けた。
1分。
2分。
敵の通信に変化が起きた。
「あれ」トビーが首を傾ける。「敵艦の動きが——止まってます」
「止まってる?」エレナが前を向く。
「全艦です。なんか、ぐるぐるしてます」
クロエが対抗プロトコルの画面から目を離して、敵艦隊のデータを見た。眉をひそめる。
「敵のハッキングプログラムが、保留音のデータパターンを暗号通信と誤認して解析しようとしています」
「解析?」アランが聞いた。
「意味のない信号を意味があると判断して解読しようとすると、どんな高性能なコンピューターでも処理が止まります。保留音は一定のパターンを繰り返す構造なので——」
「つまり」エレナが静かに言った。
「無限ループです」クロエが淡々と答えた。「解析が終わらない」
4分後、敵艦隊の通信システムが完全にフリーズした。ハッキング信号が消え、通信網が回復した。
「敵艦隊、通信途絶!」トビーが叫ぶ。「ハッキング信号、完全消滅です!」
通信パネルに僚艦からの信号が殺到した。
『旗艦、見事な囮通信でした。保留音で敵コンピューターを止めるとは』
『流石は旗艦。我々には思いつかない発想です』
アランは曖昧に返事をした。エレナは胃薬を飲んだ。
マリアは全員に向かって深々と頭を下げた。
「本当に申し訳ありませんでした」
「結果オーライです」アランが言った。
「結果オーライで済む話ではありません」エレナが言った。
「でも済んだよ」
エレナはアランを一瞥して、また前を向いた。
クロエがマリアのコンソールに近づいた。
「マリア」
「は、はい」
「保留音、何の曲ですか?」
「え? ええと、昔バイトしてたコールセンターで使ってた曲で——」
「データをもらえますか。解析したいので」
「か、解析……」
「マリアが選んだ曲というだけで研究価値があります」
マリアは愛想笑いを張り付けたまま固まった。
トビーが立ち上がった。
「クロエ、マリアさん困って——」
「あなたには関係ありません!」
「俺、レーダー担当として通信士と連携する立場なんで——」
「業務上の連携はシステム経由でできます」
トビーはまた座った。
マリアはその会話を聞きながら、ちらりとトビーを見た。また真剣な顔をしている。自分のために言い返そうとしてくれた、そういう顔だ。
違う、とマリアは思った。たぶん違う。でも。
マリアはヘッドセットを直して、通信パネルに向き直った。
ゴンザレスが通信士コンソールの周辺を黙々と磨いていた。保留音が流れていた4分間、ずっとそこにいたのかどうか、誰も確認していなかった。




