第3話「監査官殿の抜き打ちチェック」
政治将校オリヴィア・カーティス少佐が『アルテミス』に着任したのは、何の予告もない朝だった。
ブリッジの扉が開いた瞬間、空気が変わった。168cmの長身、ピンで留めた黒髪、胸元の法務局章。書類を小脇に抱えた彼女は、ブリッジ全体を一瞥しただけで全員の背筋を伸ばした。アランまで含めて。
「銀河連邦軍法務局、政治将校オリヴィア・カーティス少佐。辺境第三艦隊旗艦『アルテミス』の監査のため着任しました」
敬礼。完璧な角度だった。
「艦長アラン・スターフィールド中佐。え、あの、聞いてませんでしたが——」
「抜き打ちです」
アランは笑顔のまま固まった。
副艦長エレナが立ち上がり、すれ違いざまに小声で「日頃の行いです」とだけ言った。
オリヴィアは書類を開きながらブリッジを歩き始めた。コンソールを一つひとつ確認し、担当者の顔を見て、また書類に何かを書く。砲雷長バルドは腕を組んで視線を逸らし、機関モニターのシドは「また査察か」という顔で目のクマをさらに深くした。
レーダー担当のトビーは前髪を直す手を止めて背筋を伸ばし、となりの分析官クロエは相変わらずタイピングを続けていた。通信士マリアだけが「いらっしゃいませ」と言いかけて口を閉じた。
オリヴィアの足が、操舵コンソールの前で止まった。
そこには、若い男が座っていた。操舵担当レオン・バレット上等兵。23歳、元宇宙族。前髪を片側に流し、規定より2センチ短いズボンを履いている。
「操舵担当、レオン・バレット上等兵」オリヴィアは書類を見ながら言った。「ズボンの丈が規定外です」
「っす」
「返事は『了解しました』です」
「……了解っす」
オリヴィアの眉が、ほんのわずか動いた。それだけだった。書類に何かを書いて、次のコンソールへ進んだ。
アランはその背中を見ながら、なんとなく引っかかるものを感じた。カーティスとバレット。別の名前だ。関係はない。ないはずだ。
監査は午後まで続いた。
オリヴィアは淡々と記録を取り、質問し、また記録を取った。エレナだけが完璧な回答を返し続け、他の全員は何かしら詰められた。バルドは「交戦記録の主砲発射回数がゼロなのはなぜか」と聞かれて「諸事情です」とだけ答え、シドは「エネルギー出力の低下が頻発しているが整備記録はあるか」と聞かれて「あります、全部バルドのせいです」と答えた。
レオンだけは、何を聞かれても「っす」で答えた。
オリヴィアはその度に眉を動かしたが、書類に何かを書いて次へ進んだ。
夕刻、警報が鳴った。
「敵影!左舷20度、ミサイル艇4隻!」トビーが叫ぶ。「距離3万、急速接近!」
通信パネルにも信号が殺到し始めた。艦隊の僚艦30隻からだ。
『旗艦、指示を』『迎撃態勢に入るか』『ミサイル艇確認、どう動く』
「迎撃態勢——」副艦長エレナが立ち上がりかけた瞬間、オリヴィアが口を開いた。
「艦長、この状況での標準対応手順を確認します。軍規第——」
「あとにしてください」エレナが遮った。
「監査中です」
「戦闘中です」
2人の視線がぶつかった。ブリッジの温度が2度ほど下がった気がした。
「ミサイル確認!4発、同時発射!」トビーの声が裏返る。
通信パネルがさらに騒がしくなる。『旗艦、応答せよ』『回避するか、迎撃するか』。30隻が固唾を呑んで待っている。
「レオン、回避——」エレナが言いかけた。
「レオン」オリヴィアが静かに言った。「無茶な操作は禁止です」
レオンの指が止まった。
「姉さん、今は——」
ブリッジが静まり返った。
レオンが口を押さえた。オリヴィアの目が細くなった。アランは天井を見た。エレナは書類を持ったまま固まった。
バレットとカーティス。アランの頭の中で、何かが繋がった。
「……姉さん?」バルドがゆっくり繰り返した。
「聞こえませんでした」オリヴィアが即座に言った。「レオン上等兵、今なんと」
「な、なんでもないっす」
「ミサイル距離2万!」トビーが叫ぶ。「着弾まで40秒!」
オリヴィアは書類に目を落とした。10秒間、何かを考えるように沈黙した。
そして顔を上げた。
「レオン」
「っす」
「前方の小惑星帯、見える?」
「見えるっす」
「あそこ、抜けられる?」
レオンの目が光った。操舵士として初めて、まともな質問をされた顔だった。
「余裕っす」
「ならやりなさい。ただし」オリヴィアの声が低くなった。「Gをかけすぎたら怒ります」
「どのくらいまで」
「私が椅子から落ちない程度」
「……善処するっす」
レオンが操舵桿を握った。
『アルテミス』が動いた。
通常航行では考えられない角度で艦が傾き、全員がコンソールにしがみついた。小惑星帯の隙間を縫うように急旋回し、速度を落とさないまま別の方向へ滑り出す。追ってきたミサイル4発のうち3発が小惑星に激突し、爆発した。
残り1発がまだ追ってくる。
「レオン——」エレナが言いかけた。
「わかってるっす」
急減速。ミサイルが慣性で前に出た瞬間、レオンが艦を真横に滑らせた。行き場を失ったミサイルは旋回しきれず、追いかけてきたミサイル艇の1隻に直撃した。誘爆が連鎖し、残り3隻が巻き込まれる。
静寂。
全員が息を吐いた。
オリヴィアだけが椅子にまっすぐ座ったまま、書類に何かを書いていた。
「……落ちなかったっす?」レオンが振り返る。
「落ちませんでした」
「マジっすか」レオンが素直に感心した顔をした。「体幹すごいっすね」
「あなたに言われたくありません」
バルドが「また撃てなかった」と呟いた。シドが「エンジンは無事です」と安堵した。トビーはクロエの横顔を見ていた。
通信パネルに僚艦からの信号が殺到する。
『旗艦の小惑星帯突入回避機動、敵艦の同士撃ちを誘発。見事な戦術判断です』『さすが旗艦、我々も続きます』『前線第一宙域、旗艦に一任します』
30隻分の賞賛だった。アランは曖昧に返事をした。
オリヴィアは通信パネルをちらりと見て、また書類に戻った。
「監査報告書に追記します」彼女は静かに言った。「操舵担当の技能、極めて優秀」
「姉さ——オリヴィア少佐」レオンが言った。「ありがとうっす」
「復唱。『ありがとうございます』」
「……ありがとうございます、っす」
オリヴィアの口元が、ほんのわずか動いた。笑ったのかどうか、誰にも確認できなかった。
ゴンザレスがレオンの操舵コンソール周辺の床を磨いていた。激しい機動でついた足跡が、いつの間にか消えていた。




