第11話「全艦隊、阿鼻叫喚(前編)」
それは静かな朝から始まった。
いつものようにゴンザレスが床を磨き、アランが4分遅刻し、エレナが振り返らずに指摘し、バルドとシドが口論し、トビーがクロエの横顔を見て、クロエがマリアへの詩の第七稿に取りかかり、レオンが操舵コンソールに足を乗せてオリヴィアに注意される。いつも通りのブリッジだった。
その静けさが、どこか嘘くさかった。
「なんか今日は静かですね」トビーが言った。
「いつも静かです」シドが言った。「静かじゃない時が問題なんです」
「でもなんか」
「嫌な予感がするなら言わないでください」シドが遮った。「言葉にすると現実になる」
「現実になりません」クロエが言った。「言語化と事象の発生に因果関係はありません」
「俺の経験則では因果関係があります」
マリアがヘッドセットを押さえた。各方面からの定期通信を処理しながら、何気なく艦隊全体の状況を確認した。
止まった。
「……あの」
「なんですか」エレナが振り返らずに言った。
「艦隊各艦から通信が入り始めています。第一中隊が——交戦中、第二中隊も——第三中隊は回避行動中で——」
エレナが振り返った。
「同時に?」
「はい。全方位から敵艦隊が——」マリアの顔が青くなっていく。「数が、多くて——」
警報が鳴った。
今までと違う音だった。低く、長く、重い。艦全体が震えるような警報音が、ブリッジに響いた。
「全方位に敵影!」トビーが叫んだ。「数——数えられません!200以上!」
「200」アランが繰り返した。
「以上です」
アランはエレナを見た。エレナはモニターを見た。モニターには、四方八方から押し寄せる敵艦隊の光点が映っていた。
通信パネルが爆発したように鳴り始めた。
『第一中隊、集中砲火を受けています、旗艦の指示を——』
『第三中隊、回避限界です、どうすれば——』
『第五中隊が孤立しました、援護を——』
『旗艦、応答してください、旗艦——』
マリアが通信パネルを見た。30隻分の信号が同時に入ってきていた。全員が旗艦に指示を求めていた。
「艦長」エレナが言った。
アランが立ち上がった。
「全艦、散開して——」
『第二中隊、行動不能になりました』
「第三中隊は——」
『第三中隊も後退します、申し訳——』
『旗艦、我々は——』
通信が次々と途絶えていった。
5分後、通信パネルの信号が激減した。
静寂の中、トビーが震える声で言った。
「……僚艦、ほぼ全艦が行動不能か後退しました。宙域に残っているのは——」
「旗艦だけですか」エレナが聞いた。
「……はい」
ブリッジが静まり返った。
メインモニターに、残った敵艦隊が映っていた。200隻以上。その中心に、『アルテミス』1隻が取り残されていた。
「逃げましょう」アランが言った。
「包囲されています」エレナが言った。「どこにも逃げられません」
「右は」
「敵です」
「左は」
「敵です」
「上は」
「敵です」
「下は」
「敵です」
アランはしばらく考えた。
「正面は」
「一番多いです」
「そっか」
沈黙。
「シドくん、エンジンは」
「爆発しそうです!」シドが叫んだ。「さっきの急機動で炉に——微細なひずみが——もうダメです、爆発します!」
「しません」バルドが言った。
「します!」
「しません!撃てば解決します!」
「撃ったら爆発します!撃つな!」
「撃つ!」
「撃つな!」
レオンが操舵桿を握った。
「抜けられるっす」
「どこを」オリヴィアが言った。
「正面の一番密集してるとこ」
「なぜ一番密集しているところを」
「スペースが大きいから。密集してる艦の間には必ず隙間があるっす。密集してるように見えるだけで——」
「Gが——」
「覚悟してくださいっす」
「レオン」
「姉さん、今だけは」
オリヴィアは一秒だけ止まった。
「……わかりました」
レオンが操舵桿を引こうとした瞬間、シドが「爆発する!」と叫んで動力を切った。
艦が完全に停止した。
全員が静止した。宇宙空間で、完全に停止した艦が、敵艦隊に包囲されていた。
「シド!」バルドが立ち上がった。「今動力を切るやつがいますか!」
「爆発するよりマシです!」
「動かないと撃たれます!」
「撃たれても爆発するよりは——」
「同じです!」
バルドがシドの機関コンソールに飛びついた。シドが「触るな!」と叫んで体を張って塞いだ。2人が機関コンソールの前で取っ組み合いを始めた。
レオンがその隙に操舵桿を握った。
「今のうちに——」
「レオン!」オリヴィアが立ち上がった。「動力なしで操舵しても——」
「慣性で動かせるっす!少しだけ——」
「少しだけじゃないでしょう!あなたのすることは全部——」
オリヴィアがレオンの席に向かって歩いた。レオンが操舵桿を握ったまま「来ないでっす!」と言った。
トビーがクロエを見た。
「ねえ、分析してどうにかなる?」
「演算中です」クロエが答えた。「ただしリソースの40%が——」
「詩ですか」
「第七稿の佳境なので」
「今やめて!」
「でもインスピレーションが——」
「マリアさんが死ぬかもしれないんですよ!」
クロエのタイピングが止まった。
初めて、止まった。
クロエがマリアを見た。マリアがヘッドセットを押さえながら、各艦への連絡を続けていた。青い顔で、震える手で、それでも通信パネルに向かっていた。
「……リソースを全部回します」クロエが言った。「詩は後でいいです」
トビーが少し驚いた顔をした。
クロエはすでにタイピングを再開していた。その速度は、詩を書いている時より速かった。
バルドとシドが取っ組み合いを続けていた。オリヴィアがレオンの首根っこを掴んでいた。アランが立ったまま固まっていた。
エレナが胃薬を取り出した。
取り出して、また仕舞った。
「全員」エレナが言った。
誰も聞いていなかった。
「全員!」
静まり返った。バルドとシドが手を止めた。オリヴィアがレオンの首根っこを掴んだまま振り返った。アランが我に返った。クロエがタイピングを続けながら顔を上げた。マリアが通信パネルから振り返った。
エレナは全員を一瞥した。
「シド、動力を戻しなさい。バルド、主砲の準備をしなさい。レオン、慣性制御で艦を傾けて敵の射線を外しなさい。クロエ、敵陣の薄い箇所を割り出しなさい。トビー、全方位のレーダーを落とさないようにしなさい。マリア、各艦に状況を報告しなさい。艦長——」
「はい」
「とりあえず座っていてください」
「……はい」
全員が動き始めた。
シドが動力を戻した。エンジンが唸りを上げた。バルドが射撃管制パネルに向かった。レオンが慣性制御で艦をゆっくり傾け始めた。クロエが演算リソースを全投入した。トビーがレーダーから目を離さなかった。マリアが震える声で各艦への通信を続けた。
敵艦隊が動き始めた。包囲網が狭まってくる。
「敵、射撃体勢に入りました!」トビーが叫んだ。「距離1万!」
「薄い箇所は」エレナがクロエに聞いた。
「演算中です——あと30秒——」
「30秒ありません」
「20秒——」
「距離8000!」
「10秒——」
「バルド」エレナが言った。
「準備できています」
「レオン」
「いつでもっす」
「距離5000!」トビーの声が裏返る。
「クロエ」
「——出ました」クロエが言った。「座標を送ります」
データがコンソールに流れた。
全員が動いた。
レオンが操舵桿を引いた瞬間——
ゴンザレスが「今ワックス塗ったんで踏まないでください」と言いながらブリッジ中央を横切った。
レオンが急ブレーキをかけた。
艦が急減速した。
敵の第一波射撃が、直前まで艦があった場所を通り過ぎた。
全員がゴンザレスを見た。
ゴンザレスはワックスがけを続けていた。
「……ゴンザレスさん」アランが言った。
ゴンザレスは振り返らなかった。
To be continued.




