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無敵オーラの灯台守シャシルは、捨てられた願いを拾って港町を救う  作者: 聖稲


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第9話 ままごとみたいなキス

 祭りの朝は、まだ夜の色が石段の隙間に残っているうちに始まった。


 シャシルが上層の窓を開けると、海から入ってきた風は冷たかったが、昨夜ほど荒れてはいなかった。

 提灯列は持ちこたえている。

 受領箱の蓋もずれていない。

 前庭へ降りて確かめると、受付台の布も綺麗なままで、坂道には夜露がうっすら白く乗っていた。


 その端を、チャトリンが雑巾で丁寧に拭いていた。


 「まだ暗い」

 シャシルが言う。


 「明るくなる前のほうが、露は取れます」

 彼女はしゃがんだまま答える。

 「人が来るころに石が滑ったら嫌なので」


 「寝たのか」


 「ちょっとだけ」


 「ちょっとは寝ていないのと同じだ」


 「シャシルさんも、目の下、少し重いですよ」


 言い返せなかった。

 夜中に受領箱を見に下りてきたあと、結局また眠りが浅くなったのは事実だったからだ。

 彼は受領箱の掛け金をひとつ確かめてから、坂の下へ目を向ける。

 港はまだ静かだ。

 船の帆柱が朝前の風を受け、小さく軋む。

 その音に混じって、こちらへ駆け上がってくる足音がした。


 「読めました!」

 という声が、まだ人影より先に届いた。


 ブラルだった。

 寝癖をそのままにした頭で、古い写し板と巻き紙を抱え、息を切らせている。

 その後ろからレオンティナが階段を上がってきたが、こちらは乱れ一つない。眼鏡の縁まで落ち着き払っているのに、歩幅だけは早かった。


 「何が読めた」

 シャシルが問うと、ブラルは石段の途中で一度だけ呼吸を整え、巻き紙を広げた。


 「地下心臓部の最終封印です。昨夜の続き、外輪の細字が擦れてて難しかったんですけど、塩の結晶を落として斜めから灯りを当てたら、やっと線が立ちました」


 「結論から」

 レオンティナが横から言う。


 「はい」

 ブラルは素直に頷く。

 「月明かりの灯台の中枢は、灯守だけでも、綴り手だけでも起きません。二人で定位置に立って、守る意思を宣言して、最後に『呼気封』を合わせる必要があります」


 「呼気封」

 チャトリンが繰り返す。


 ブラルは巻き紙の端を指で押さえた。

 そこには二つの人影が向かい合って立つ図と、その間を線で結ぶ古い記号が描かれている。


 「古い大型灯台の封印術です。願光って、言葉だけじゃ流れが安定しないんです。書かれた願いを残す側と、光へ変える側が、同じ呼吸で一度だけ流路を通す。そうすると心臓部が、二人を一対の起動鍵として認識する」


 「同じ呼吸で」

 シャシルが低く言う。


 「はい。ええと、だから、その……」


 ブラルはそこまで言って、急に視線を泳がせた。

 普段なら機械の話になると止まらない男が、珍しく言葉を選び損ねている。

 代わりにチャトリンが巻き紙を覗き込み、小さく瞬いた。


 「これ、顔、近くないですか」


 「近い」

 シャシルが即答する。


 「近いです」

 ブラルも観念したように言った。

 「図解どおりだと、息を重ねるというより……口づけです」


 前庭に、妙な沈黙が落ちた。


 風が一度だけ提灯を揺らす。

 遠くで船具の金具が鳴った。

 それなのに、いま聞こえてくるのは、ブラルが巻き紙を持つ手のかすかな紙擦れの音ばかりだ。


 チャトリンが先に口を開いた。


 「……ずいぶん昔の人、思い切りましたね」


 「昔の人というより、術式の都合です」

 レオンティナは顔色一つ変えない。

 「ただし、外聞はよくありません」


 「外聞以前に距離が近い」

 シャシルは言った。


 「そこは図面を見れば分かります」

 レオンティナは冷静だった。

 「問題は、これを実行するかどうかです」


 その一言で、空気がすっと実務へ戻る。

 レオンティナは巻き紙の別の欄を示した。


 「再起動が成功すれば、地下の流路は上層の主灯だけでなく、西岸監視線へも繋がります。監査灯の照合精度は一気に上がるでしょう。回収船の積み荷と帳簿の齟齬も、祭りの場でより明確に示せます」


 「失敗したら」

 シャシルが聞く。


 「心臓部は再停止します。封印が完全に閉じれば、再試行まで丸一日あく可能性が高い」

 ブラルが答えた。

 「だから、やるなら今朝です。本番の前に起こして、流路を落ち着かせたほうがいい」


 チャトリンは巻き紙の図をしばらく見つめていた。

 向かい合う二つの人影。重なる線。古い文字。

 その横顔へ、朝前の青い光が差す。


 「やります」

 彼女は言った。


 ブラルが目を上げる。

 レオンティナも、わずかに視線だけ向けた。

 シャシルはすぐには返事をしなかった。

 やるしかないことは分かっている。分かっているが、昨夜から胸の中で荒れている別の熱が、余計に判断を重くしていた。


 「シャシルさん」

 チャトリンが呼ぶ。

 「町の朝、守りたいんでしょう」


 昨夜、彼女の書いた一枚目の願いを見た時よりも、今の声のほうが真っ直ぐだった。

 逃げ道を作らない呼び方だった。


 「守る」

 シャシルは短く答えた。

 「だからやる」


 それだけで十分だったらしい。

 レオンティナはすぐに次の段取りへ入った。


 「では、関係者だけ地下へ。ブラル、器具と流路図。チャトリン、綴り手席の筆台に必要なものを。シャシル、封印輪の埃を落とす布を持ってください」

 「なぜ俺が布だ」

 「一番手が大きいので」


 反論の余地がなく、シャシルは黙って倉庫へ向かった。


 地下へ降りる石階段は、祭りの朝でもひんやりしていた。

 古い灯台の心臓部は、地上の光が届かない深さにある。

 ブラルが先行して古灯を点け、レオンティナが記録板を抱え、シャシルとチャトリンが最後に降りる。

 足音が壁で跳ね返り、四人分の呼吸が狭い通路へ重なった。


 最下層の扉が開くと、湿った石と金属の匂いが強くなる。

 心臓部の部屋は円形で、中央に巨大な硝子筒、その周囲に二つの細い台座が向かい合うように置かれていた。

 天井近くには配管が蜘蛛の巣のように走り、壁沿いには古い文字板がずらりと埋め込まれている。

 以前見つけた時は、ただの止まった機械にしか見えなかった。

 だが今朝は違う。

 図面を知った目で見ると、部屋全体が誰か二人を待つ形になっていた。


 「こっちが灯守席」

 ブラルが向かって右を指す。

 「床環の刻線が太い。願光を押し出す側です」

 「こっちは綴り手席」

 チャトリンが左を見た。

 そこには細長い筆台と、短冊を挟むための古い金具が残っている。

 「本当に、二人分……」


 レオンティナは中央の文字板を読み上げた。


 「灯を守る者、言を綴る者。互いの名を偽らず、灯台を守る意思を告げ、呼気を重ねて封を開けよ」


 「名を偽らず」

 シャシルが言う。


 「偽名や役職だけでは駄目ということです」

 レオンティナは淡々としている。

 「術式は、意思の責任と個人を結びつける」


 「ずいぶん逃がさない造りだな」


 「守ると口にする人間だけに、起動を許す仕組みなのでしょう」


 その仕組みは嫌いではなかった。

 むしろ、権力の印章一つで勝手に動かされるより、よほどまっとうに思えた。


 ブラルは器具箱から小さな掃き刷毛を取り出し、床環の溝へ詰まった塩と埃をかき出した。

 シャシルも布で台座の縁を拭く。

 チャトリンは綴り手席の筆台へ新しい紙を置き、水入れを確かめた。

 再起動に短冊そのものは不要らしいが、綴り手席が空のままでは落ち着かないと言って、自分で持ってきたのだ。


 「緊張してます?」

 彼女が、紙を置きながら小声で聞いた。


 「していない」

 シャシルが答える。


 「その声の固さで言われてもなあ」


 「おまえは」


 「してます」

 彼女は即答した。

 「足、ちょっと冷たいです」


 その申告があまりに正直で、シャシルは少しだけ肩の力が抜けた。

 強がって隠されるより、よほど助かる。


 「転ぶな」


 「転びません」

 チャトリンは片足で床を踏み直した。

 「でも、鼻はぶつけるかもしれません」


 「何の話だ」


 「だって、距離が近いので」


 その時、ブラルがごほっと咳払いをした。

 器具箱を閉めながら、必要以上に大きな音を立てる。


 「ええと! 流路を安定させるまで、起動直後は外輪の圧が上がると思うので! 最初の三十呼吸くらいは二人とも足を動かさないでください!」


 「三十呼吸」

 チャトリンが言った。

 「数えてくれるんですか」


 「数えます! 数えますけど、たぶん途中で光が来るので、数えてる余裕があるかどうか」

 ブラルは耳まで赤くなりながら答えた。

 「とにかく、無理に離れないでください」


 「離れると封印が閉じる可能性があります」

 レオンティナが追記する。

 「恥ずかしさより、流路優先で」


 「その順番で言われると、逆に恥ずかしいんですが」

 チャトリンが言うと、レオンティナは一瞬だけ黙った。


 「……なら、機構優先で」

 「意味あんまり変わってないです」


 そんなやり取りのあと、レオンティナは記録板を閉じた。

 眼鏡の奥の視線が、シャシルとチャトリンを順に見たあと、少しだけ柔らかくなる。


 「準備が整ったら呼んでください。外輪の計測は入口側で取ります」

 「部屋から出るのか」

 シャシルが問う。


 「見ている必要はありません」

 レオンティナはきっぱり言った。

 「必要なのは起動結果です」


 ブラルも猛烈な勢いで頷いた。

 「ぼ、僕も計器見ます! そのほうが正確なので!」


 二人は古灯と記録板を抱えて、ほとんど逃げるように入口側へ下がった。

 扉は閉めない。だが、心臓部の中央からは顔が見えない位置まで離れる。

 残された部屋が、急に広くなった気がした。


 灯守席と綴り手席のあいだに立つ空気だけが、妙に近い。


 「……逃げ足が速いですね、あの二人」

 チャトリンが小さく言う。


 「正しい判断だ」

 シャシルは答えた。

 「おそらく」


 「おそらくなんですね」


 彼女は綴り手席へ立った。

 石床に刻まれた細い輪の内側へ靴先を揃え、指先で筆台の端へ触れる。

 その手に、昨夜受領箱を押さえていた時の毛布の感触が、一瞬だけ脳裏に重なった。


 シャシルも灯守席へ立つ。

 こちらの輪は少し広く、足元から胸の高さまで、見えない何かが待っている感じがあった。

 中央の硝子筒はまだ黒い。

 だが内部には、完全に死んだ物にはない鈍い色が眠っている。


 「名前を言うんだったな」

 シャシルが確認する。


 「はい」

 チャトリンは頷く。

 「偽らずに、でしたっけ」


 「偽る気はない」


 「私もです」


 その返事が、部屋の中心で小さく響いた。


 「シャシル」

 彼は先に名乗った。

 「元討灯官。今は月明かりの灯台の灯守だ」


 「チャトリン」

 彼女も言う。

 「月明かりの灯台の見習い灯台守で……綴り手、たぶんそれです」


 「たぶんでは困る」

 シャシルが低く言うと、チャトリンは目を細めた。


 「じゃあ、綴り手です」

 「最初からそう言え」


 「緊張ほぐしてたんですよ」


 その言葉に、少しだけ助けられたのは事実だった。

 笑いがなければ、この部屋の空気は重すぎた。


 中央の文字板が、かすかに白く光る。

 準備が整った合図だろう。


 「意思を告げて」

 入口側からレオンティナの声が届いた。

 「声は明瞭に。曖昧な言い回しは避けてください」


 曖昧な言い回しが苦手なのは、むしろ自分のほうだ。

 シャシルは一度だけ息を吸った。


 「俺はシャシル」

 石の部屋へ声を通す。

 「月明かりの灯台の灯守として、この灯台へ集まる願いを守る。港町で暮らす人間の明日を守る。価値なしと切り捨てられた願いを、二度と勝手に奪わせない」


 最後の一語を落とした時、足元の輪が淡く金に光った。

 虚勢でも、飾りでもない言葉だけが通る仕組みなのだと、肌で分かる。


 チャトリンが続く。


 「私はチャトリン」

 彼女の声は最初こそ小さかったが、途中からまっすぐ伸びた。

 「月明かりの灯台の綴り手として、ここへ来る人の言葉を残します。捨てられるはずだった願いを、隠さず、消さず、ここで受けます。灯台が、書いてもいい場所のままであるように守ります」


 今度は綴り手席の輪が光る。

 筆台の金具が、ちり、と鳴った。


 中央の硝子筒の底で、黒かったものがゆっくり回り始めた。

 止まった水車へ、どこか遠くから水が触れたみたいな頼りない動きだったが、確かに動いた。


 「第一封、開きました!」

 ブラルの声が扉の向こうで上ずる。

 「次、呼気封!」


 その単語が落ちた瞬間、部屋の温度が一度だけ上がった気がした。

 中央の硝子筒から細い光線が伸び、二人の足元の輪を結ぶ。

 後戻りの効かない線だった。


 チャトリンが、ほんの少しだけ唇を引き結ぶ。

 強がっていない表情だった。

 逃げたいわけではない。ただ、正面から引き受けようとしている顔だった。


 「ままごとみたいですね」

 彼女は小さく言った。

 「こういうの」


 章題になるその一言は、笑い飛ばすためのものではなかった。

 緊張で固くなった空気を、壊さない程度にゆるめるための言葉だった。


 「遊びでやるな」

 シャシルは答えた。

 「だが、軽くはするな」


 「はい」


 「怖いか」


 「ちょっと」

 彼女は正直に言う。

 「でも、怖いままやります」


 その返事に、シャシルは頷いた。

 怖くない人間より、怖いと知った上で立つ人間のほうが信じられる。


 彼は一歩、前へ出る。

 床環の外へ足を出すと、中央の光線が少し強くなった。

 チャトリンも綴り手席から一歩、前へ。

 二人の距離が縮まる。

 昨夜、提灯の下で受領箱へ同時に手を伸ばした時よりも近い。

 呼吸の温度が届く距離だった。


 「鼻、ぶつけるな」

 シャシルが低く言う。


 「今さらそこ気にします?」


 「大事だ」


 チャトリンが吹き出しかけ、慌てて笑いを飲み込む。

 その小さな揺れで、シャシルのほうも肩の力が少しだけ抜けた。


 「目、閉じます?」

 彼女が聞く。


 「好きにしろ」


 「シャシルさんは」


 「……閉じる」


 「正直」


 「今は正直でないと駄目だろう」


 それは確かにそうだった。

 彼女は小さく息を吸い、頷いた。


 「じゃあ、いきます」


 その言い方がまるで梯子を上る時みたいで、こんな場面でも彼女は彼女だと思った。

 だからこそ、救われた。


 唇が触れる直前、シャシルは最後に一度だけ彼女の顔を見た。

 昨夜、短冊へ願いを書いていた横顔とは違う。

 今はまっすぐこちらを見ている。

 逃げていない。頼ってもいない。ただ、自分と同じ重さを持ってここへ立っている。


 その事実が、胸の奥を静かに打った。


 触れたのは、ほんの一瞬だった。

 本当に、ままごとの口づけみたいに短い。

 だが、子どもの遊びとは何もかも違った。

 触れた途端、中央の硝子筒の奥で眠っていた光が一気に脈を打ち、二人の足元から頭上まで見えない流れが駆け抜ける。

 シャシルは反射で離れそうになったが、ブラルの叫びが飛んだ。


 「まだです! 三十呼吸!」


 近すぎる距離のまま、二人はその場に留まった。

 光はまだ弱く、途切れそうで、だから離せない。

 呼吸が混じる。

 頬の近くで、チャトリンの小さな息継ぎが聞こえる。

 彼女がよろけないよう、シャシルは片手を背に回しかけて、寸前で止めた。

 勝手に支えるのは違う気がして、代わりに低く言う。


 「立てるか」


 「立てます」

 彼女も低く返す。

 「でも、ちょっと熱いです」


 「俺もだ」


 それが機構の熱か、別の熱か、もう判別がつかなかった。


 中央の硝子筒の中で、光がはっきり回り始める。

 足元の輪から壁沿いの配管へ金の線が走り、部屋じゅうの文字板が順に灯る。

 先代灯台守の残した遺言板も、その横の差分表も、同じ光の中へ浮かび上がった。


 「十! 十一! 十二!」

 ブラルが必死に数える声が飛ぶ。

 「圧、上がってます! でも安定してる!」


 「継続してください」

 レオンティナの声は冷静だが、少しだけ速い。

 「今、外輪が監視線へ接続しています」


 監視線。

 その単語が、甘くなりかけた空気へ冷たい芯を通した。

 成功すれば、王都にも知られる。

 それでも、ここで止める理由はなかった。


 チャトリンの指先が、宙で一度だけ迷い、それからシャシルの袖口をつまんだ。

 強くはない。確認のような力だった。

 倒れないためではなく、ここにいると互いに知るための触れ方だった。


 シャシルはそのまま動かず、ただ一語だけ返した。


 「いる」


 彼女は小さく頷いた。


 「二十七! 二十八! 二十九! 三十!」


 ブラルの声と同時に、心臓部が鳴った。


 鐘ではない。

 獣の唸りでもない。

 ずっと止まっていた巨大な何かが、ようやく自分の脈を思い出した時の音だった。


 次の瞬間、中央の硝子筒から上へ向かって白金の光柱が走る。

 床が震え、配管の中で願光が一斉に流れ出した。

 灯台の石壁全体が目を覚ましたみたいに、低く、しかし確かな響きで応える。

 月明かりの灯台の心臓部が、息を吹き返したのだと、説明抜きで分かった。


 光が収まりきらず、天井の縁から細い筋となって抜けていく。

 それは上層の主灯へ、さらに海側の古い反射鏡へ走った。

 地上で、どこか遠くの金具が一斉に鳴る音がした。


 「成功です!」

 ブラルが叫ぶ。

 「成功しました!」


 その声で、ようやく二人は距離を外した。

 離れた途端、チャトリンが一度だけ大きく息を吸う。

 シャシルも胸の奥に溜まっていた熱を吐き出した。

 唇に残る感触を意識しないようにしても無理だった。


 「……鼻、ぶつからなかったですね」

 チャトリンが、最初に言ったのはそれだった。


 「そこを確認するな」


 「大事なんでしょう?」


 「大事だが、今はそこではない」


 言いながら、声が少し掠れているのを自分で自覚した。

 彼女も同じだったらしい。

 返事の前に一度だけ咳払いをしている。


 レオンティナとブラルが部屋の中央へ戻ってきた。

 ブラルは半ば跳ねるように計器盤へ飛びつき、針の振れを見て歓声を押し殺している。

 レオンティナは中央の硝子筒を見上げ、短く息を吐いた。


 「起動は完全です」

 彼女は言う。

 「しかも想定以上に綺麗につながった」


 「綺麗?」

 チャトリンが聞き返す。


 「濁りが少ないという意味です」

 レオンティナは二人を見た。

 「術式が素直に通った。迷いが少なかったのでしょう」


 そう言われると余計に落ち着かない。

 シャシルは視線を逸らした。

 チャトリンも筆台の紙を無意味に整えている。


 だが、次の瞬間、レオンティナの表情が変わった。

 彼女は計器盤の端にある、細い赤針の振れを見たのだ。


 「……ブラル」

 「はい?」

 「監視線の返信が入っています」


 ブラルの顔から一瞬で血の気が引く。


 「返信?」

 「旧式ですが、接続先識別が残っている」

 レオンティナは盤面の刻字を読み取った。

 「西岸監視塔、沖合浮標、北回路中継……それと」


 彼女はそこで言葉を切った。


 「王都中央監視盤」


 部屋の温度が、今度は別の意味で下がる。

 心臓部は動いた。証拠の可視化も進む。だが同時に、隠れていた休止灯台が息を吹き返したことも、正式な監視線へ伝わったのだ。


 「どれくらいで来る」

 シャシルが問う。


 「港までなら、最短で今日中」

 レオンティナは即答した。

 「再起動を見た時点で、向こうは回収か封鎖を選ぶはずです。しかも今日は祭りの日。人が集まると分かっているからこそ、監査名目で押し切りに来る可能性が高い」


 「来ますね」

 チャトリンが言った。

 恐れていない声ではない。だが、逃げる声でもなかった。


 「来る」

 シャシルは答えた。

 「なら、迎え撃つ準備を上でやる」


 ブラルはそれでも盤面から目を離せないでいたが、やがてごくりと唾を飲み込み、中央の光柱を見上げた。


 「でも」

 彼は言う。

 「もう、隠さなくてよくなりました」


 その通りだった。

 天井へ抜けた白金の筋は、いまも上層を通って海へ走っている。

 地上へ出れば、月明かりの灯台の主灯が、長い眠りから覚めたことを誰の目にも分かる形で示しているはずだ。


 四人は急いで地上へ戻った。


 最後の石段を上がり、灯台の扉を押し開けた瞬間、朝が来ていた。

 完全な日差しではない。まだ夜明けの縁に近い、薄青い朝だ。

 だが、灯台の上層から放たれた一筋の光が、その青を真っ直ぐ裂いて海へ伸びている。

 港の船腹を白く撫で、沖の霧を細く割り、さらにその向こうまで届いていた。


 坂の下では、早起きの漁師が立ち止まり、食堂へ仕込みに向かうクリスターが桶を抱えたまま口を開け、見張り台のスターロイグルが水平線の先を凝視していた。

 誰もまだ状況を理解していない。

 それでも、月明かりの灯台が起きたことだけは、全員が一目で分かる。


 「……綺麗」

 チャトリンが、小さく言った。


 シャシルは返事をしなかった。

 返せなかった。

 光そのものも綺麗だったが、その横で朝の風を受けながらそれを見る彼女の顔のほうが、よほど胸へ響いたからだ。


 だが見惚れている時間は短い。

 レオンティナが石段の上で振り返る。


 「祭りの前に、人を集めます。記録の読み上げ順を最終確認する」

 「エルケにも伝えろ」

 シャシルが言う。

 「港湾側の導線を先に押さえさせる。ズベタには海側の舟止めだ。スターロイグルには沖の監視を増やしてもらう」


 「了解です!」


 ブラルが答えた。

 さっきまで赤くなっていた顔は、もう工匠の顔に戻っている。


 チャトリンは受領箱へ駆け寄り、蓋を開けて一枚目の短冊が無事なのを確かめた。

 それから顔を上げる。


 「シャシルさん」


 「何だ」


 「二枚目以降、入りますね」


 昨夜の言葉への返事だった。

 彼は短く頷く。


 「入れさせる」


 「はい」


 その返事と同時に、港のはるか外側、まだ肉眼では見えない沖合で、古い監視浮標が赤い応答火をひとつ上げた。

 王都の監視線はもう、月明かりの灯台の再起動を受理している。


 祭りの朝は始まったばかりだった。

 だが、回収船が来る朝にも、もう変わっていた。



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