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無敵オーラの灯台守シャシルは、捨てられた願いを拾って港町を救う  作者: 聖稲


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第10話 回収船来航

 月明かりの灯台が朝の海へ一本の光を差し出したその日、港町の起きる速度はいつもよりずっと早かった。


 夜明けきる前から、坂の下では桶の音と木箱の音と、人の声が重なり始める。

 祭りの日だからではない。

 灯台が点いたからだ。


 休止していたはずの月明かりの灯台が、何年ぶりかも分からない白金の主灯を朝焼けの中へ通した。

 それを見た町の人間が、寝ていられるはずがなかった。


 「本当に点いた……」

 という呟きが、朝いちばんに石段を上がってきた漁師の口から漏れた。


 そのあとへ続いたのは、籠を抱えたパン売り、仕込み前の食堂手伝い、夜勤明けの港番、髪も結びきらない子どもたちだった。

 皆、用事があるような、ないような顔で灯台前庭へ集まり、しかし結局は同じものを見上げた。

 上層の硝子越しに回る白い光だった。


 チャトリンは、受領台の布端をきちんと指で伸ばしてから、来た人に一人ずつ頭を下げていく。

 その横でシャシルは受付台の脚を確かめ、短冊箱の鍵を三度見直し、石段の両側へ立てた簡易柵がぐらつかないか蹴らずに確かめていた。


 「蹴ったら折れます」

 とチュバイロフが言う。


 「蹴っていない」


 「蹴る前の顔でした」


 そう言って彼は、黙々と木槌で最後の楔を打ち込んだ。

 祭りの人の流れを乱さないよう、石段の右を上り、左を下りに分ける柵だ。

 飾り気はないが、崩れない形をしている。

 チュバイロフが手を入れたものは、いつもそうだった。


 前庭の隅では、ブラルが古い監査灯の角度を何度も調整していた。

 昨夜まで地下でしか試していない眩しいランプを、今日は地上の公開監査に使うつもりらしい。

 鏡筒を磨き、油の流れを見て、反射板の爪を締めるたびに、彼の目は寝不足のくせにきらきらしている。


 「倒すなよ」

 シャシルが言う。


 「倒しません!」

 ブラルは振り向かずに答えた。

 「でも、もし誰かがぶつかったら危ないので、ここに柵をもう一枚欲しいです」


 「最初からそう言え」


 「いま言いました!」


 シャシルは無言で予備材を持ってきて、言われた位置へ立てる。

 その後ろ姿を見ていたケイデンスが、手紙袋を胸に抱えたままにやりとした。


 「怖い顔で細かい準備ばっかりしてると、無敵オーラじゃなくて世話焼きオーラになってきますよ」


 「どちらでもいい。倒れなければ」


 「その返し、だいぶ灯台側になりましたね」


 彼女は笑い、すぐに踵を返した。

 坂の下へ走りながら、もう次の家へ知らせを飛ばしている。

 今日、灯台は本当に願いを受けること。祭りの広場で読み上げの場を作ること。見たいなら早めに来たほうがいいこと。

 ケイデンスの口を通った話は、町の半分へ届くのにほとんど時間がかからない。


 シヴは両腕に布包みを抱えて現れた。

 解けば、中から出てきたのは朝露を払ったばかりの赤い薔薇だった。

 まだ咲ききる手前のものも混ざっている。その慎ましい赤が、灯台前の古びた石に乗ると不思議に映えた。


 「祭りなんだから、少しはましに見せるよ」

 彼女はそう言って、受付台の左右へ薔薇を挿していく。

 「棘は取ってある。子どもが引っかけると面倒だから」


 「助かる」

 チャトリンが顔をほころばせる。


 「礼は、店の前を今夜も明るくしてからでいい」

 シヴは短く返した。

 だが花を置く手つきは、商売の勘定だけではなかった。

 芽吹いた薔薇がここまで育ったことを、自分でも少し誇らしく思っている顔だった。


 クリスターは大鍋を二つ持ってきた。

 いつもなら昼前まで店から動かない男が、今日は朝のうちから汗だくで坂を上がってくる。


 「汁物はあったほうがいい」

 彼は鍋を置きながら言った。

 「揉めた時も、寒い時も、待つ時も、持ってると場がもつ」


 「店はどうした」

 シャシルが聞く。


 「今日は娘に任せてきた」

 クリスターは一度だけ港のほうを見た。

 「それと、もし本当に封鎖だなんだって話になるなら、店は避難先にする。裏の長机、全部空けた。椅子も詰めた。食器は割れないやつを前に出してある」


 決められない男が、もう決めていた。

 シャシルは何も言わずに頷いた。余計な賞賛は、この男にはかえって邪魔だと分かっていたからだ。


 ジュニオールは薬籠を持って、いつもの軽い足取りでやって来た。

 だが肩から下げた鞄の中身は冗談ではない。

 包帯、鎮静草、消毒酒、縫い針、吐き気止め。

 笑っている顔のまま、必要なものを全部持ってきている。


 「今日は誰も怪我しないのが一番ですけどね」

 彼は言った。

 「そういう日に限って、転ぶ人は転びますから」


 「不吉だ」

 エルケが後ろから言った。


 港湾警備の男は、今日は見慣れた短剣ではなく、長柄の鉤棒も背負っていた。人を倒すためではない。荷を止め、柵を引き、舟を寄せないための道具だ。

 その後ろには警備の若い衆が数人ついている。


 「導線、先に押さえた」

 エルケはシャシルへ言う。

 「石段下の広場、右側を納願列、左を見物と出入りに分ける。港からまっすぐ兵が上がってきたら、いったんそこで噛ませる」


 「揉める前提で動いているな」


 「お前が今日の朝で『来る』って言ったんだろ」

 エルケは鼻を鳴らした。

 「来る時に来ない備えなんてやってられるか」


 ズベタは遅れて現れたが、現れた時にはもう海側の仕事まで決めていた。

 濡れた外套の裾を絞りながら、彼女は前庭の端で地面へしゃがみ、棒切れで簡単な図を描く。


 「ここに回収船が入るとして、こっちは潮が緩い。だから沖待ちの小舟二艘で横から見張る」


 「見張るだけか」

 シャシルが聞く。


 「合図があれば、舫い縄へ鉤を入れる」

 ズベタは顔を上げた。

 「逃がしたくない時の顔してるから、一応な」


 「顔で分かるのか」


 「分からないと思ってるのは本人だけだよ」


 言われて、横で聞いていたケイデンスが吹き出した。

 チャトリンまで口元を押さえる。

 シャシルは何も返さなかったが、返せば余計に笑われる空気なのは分かった。


 そのチャトリンは、忙しいくせに妙なところだけ意識しているらしかった。

 受領箱へ短冊を入れる子どもの手を支えたあと、ふとこちらを向く。視線が合いそうになると、少しだけ逸れる。そして次の瞬間にはまた普通の顔で来客へ応じる。

 昨夜の地下心臓部で起きたことを、なかったことにはしていない。だが、それに足を取られて今日を崩すつもりもないらしい。


 シャシルはそのことに、助けられていた。

 おかげで自分も、余計な言葉を探さずに済む。

 いま必要なのは、祭りの場を立てることと、回収船を迎え撃つ準備だけだった。


 レオンティナは、その中心で紙の束を捌いていた。

 昨日まで地下書庫にあった写本、古い台帳の抜粋、監査灯の照合欄、灯台法の控え、港湾の入出港記録。

 それらを内容ごとに分け、糸で綴じ、読み上げ順の札を差し込み、さらに別紙へ証人欄を作っている。


 「そんなに要るか」

 シャシルが覗くと、彼女は顔も上げずに答えた。


 「要ります」


 「一枚で脅せる相手ではないのは分かるが」


 「一枚で脅せる相手ではないからです」

 レオンティナは淡々と言った。

 「伯父は、都合の悪い紙を『個人の感想』と切り捨てる癖があります。感想で押し切れないよう、記録の順番と読み上げ手順を整えます」


 「伯父」

 エルケが眉を上げる。


 「本日来る特使がグラウスなら、そうなります」

 レオンティナはやはり顔を上げない。

 「身内だからこそ、曖昧な余地は消します」


 その声音は乾いていた。

 だが乾いているからこそ、そこへ至るまでに削ったものの量が分かった。


 「公開の場で読む根拠は」

 シャシルが聞く。


 すると、彼女はようやく手を止めた。

 紙束の上へ薄い指を置き、こちらを見る。


 「西岸旧灯台規則、第十七条。星渡り祭当日に灯台が起動している場合、納められる祈紙は公開記録として一時受理できる。監査官が差し止める時は、その理由を衆前で読み上げ、港湾側証人二名と灯台側証人二名の署名を要する」


 「古い規則だな」


 「だから残っていました」

 レオンティナは言う。

 「新しい規則ほど、伯父たちは自分たちに都合よく書き換えています。書き換え忘れた古い条文のほうが、今日は使える」


 「証人は足りるのか」


 「港湾側はエルケとスターロイグル。灯台側は私とチュバイロフ。商人側の任意立会いとしてシヴ、食堂側からクリスター、診療所側からジュニオール。数は足ります」


 「俺は」


 「あなたは前に立つ係です」


 言われて、シャシルは黙った。

 紙を読むより、前に立つほうが向いているのは事実だった。


 朝が完全に明るくなるころには、石段下の広場まで人が広がっていた。

 星渡り祭の小旗が風に鳴る。屋台も出始めているが、普段の祭りより皆の視線は灯台へ寄っていた。

 今年は願いを書く列がある。

 しかも、ただ納めるだけではない。拾われなかった願いが、今日ここで受け取られる。そんな噂が、もう町じゅうを回っていた。


 チャトリンが筆台へ立つと、最初の一人が前へ出た。

 まだ背の低い男の子だった。猫探しの時に泣いていた、クリスターの店の近所の子だ。

 小さな手に握られた祈紙は、折り目が何度も付いている。


 「書けたか」

 チャトリンが目線を合わせて聞く。


 少年はこくりと頷き、それから受領箱ではなく、彼女の掌へ直接紙を渡した。


 「今度は、捨てない?」


 広場の空気が、そこで少し止まった。

 大人たちは何も言わない。だが誰もが聞いていた。


 チャトリンは紙を受け取り、両手で包むように持った。


 「捨てません」

 彼女ははっきり言う。

 「今日ここへ来た願いは、順番に記録して、光へ送ります」


 少年はそれで安心したらしい。頬の強ばりをゆるめて、ようやく母親のところへ戻った。


 そのあとへ、漁師の女房が来た。

 次に、片袖を縫い直したばかりの老人が来た。旅人が一人、商人が二人、港の荷役の若い衆が三人まとめて来て、一枚ずつ書いてまた列へ並び直す。

 願いはどれも大げさではなかった。

 今日の出航が穏やかであること。店の火が無事であること。謝る機会を失わないこと。風邪が長引かないこと。昼に届くはずの荷がちゃんと届くこと。


 シャシルには、そのどれにも色が見えた。

 願火は大きくない。だが揺らぎが少ない。細く長く、灯台の中へ染みていく種類の火だった。

 昨夜、地下心臓部で繋いだ流路が、地上の受領箱と静かにつながっているのが分かる。

 小さな願いほど、よく通る。あの世界の仕組みは、やはり間違っていなかった。


 午前が半ばへ入ったころ、スターロイグルが見張り台から下りてきた。

 寡黙な男は、いつも以上に言葉が少ない時ほど重要なことを持っている。


 「来る」

 彼はそれだけ言った。


 「見えたか」

 シャシルが問う。


 「白灰の帆。中央紋章つき」

 スターロイグルは海を見たまま答える。

 「回収船だ。兵も乗ってる」


 広場のざわめきが、今度ははっきり形を変えた。

 祭りの高鳴りではない。何かが本当に来ると知った時の、人の息の浅さだった。


 エルケが即座に動く。


 「納願列、そのまま保て!」

 彼は警備の若い衆へ声を飛ばした。

 「押すな、走るな。右を開けるな。子どもは台の後ろへ寄せろ!」


 チュバイロフは何も言わず、受付台の足元へさらに重しを追加した。

 ブラルは監査灯の火口を絞り、布をかけて待機状態にする。

 ジュニオールは鍋の横へ水桶を置き、包帯箱の蓋を開けた。クリスターは大鍋の位置を半歩ずらし、人の逃げ道を広げる。

 誰も派手に騒がない。

 だが、町の側は一瞬で持ち場についた。


 「チャトリン」

 シャシルが呼ぶ。


 「受けます」

 彼女は言い切った。

 列の先頭に立ったまま、少しも引かない。

 「ここで止めたら、向こうの思うとおりです」


 その通りだった。

 シャシルは前へ出た。石段上からではなく、広場へ降りる途中の踊り場へ立つ。港から上がってくる連中を、一番先に見下ろせる位置だ。


 白灰の帆を張った船が岸へ寄せるのは、見えてから早かった。

 王都の公船らしく、船腹は塗り直され、錨鎖までよく磨かれている。だがその甲板に立つ兵の姿が、飾りではないことだけは隠しきれていない。

 槍、短弩、拘束縄。監査だけに持ってくる装備ではなかった。


 船が接岸すると、まず港役人へ高声の名乗りが飛び、それから整列した兵が一列で下りた。

 最後に、幅広の外套を風に揺らして一人の男が現れる。


 グラウス。


 年はレオンティナよりかなり上だが、老いを醜く見せない手入れの仕方を知っている顔だった。髪は銀を混ぜて整えられ、襟元の刺繍も品よく高価だ。目尻には笑みの形が刻まれているのに、その笑みが目の奥へ一度も届いていない。

 人を安心させるための顔を、長年仕事で使ってきた男の顔だった。


 彼は港の石畳へ降り立つと、まず灯台の上層で回る光を見上げた。

 その視線は一瞬だけ止まり、それからすぐ整った笑みに戻る。


 「西岸月明かり灯台」

 グラウスはよく通る声で言った。

 「中央灯政院特使、グラウス・ヴァルケンにより、当灯台に対する臨時監査を執行する」


 広場へ緊張が走る。

 だが彼はその空気ごと飲み込むみたいに、滑らかな歩みで石段を上がってきた。

 兵を従えながらも、あくまで争う気はないという顔を崩さない。


 「閉鎖予定灯台の無断再起動、未認可祈紙の不正受領、旧式設備の危険使用」

 グラウスは読み上げる。

 「よって本日付で、短冊庫を一時接収し、祈紙の再仕分けを行う。住民諸君には不便をかけるが、これは王国の安全のためだ」


 「安全のために、子どもの願いまで取り上げるのか」

 シャシルが踊り場から言った。


 グラウスはそこで初めて、正面から彼を見た。

 値踏みではない。知っている相手を見る目だ。


 「討灯官シャシル」

 彼は微笑したまま言う。

 「いや、元、でしたか。君の短慮は王都でも有名だ。地方へ来ても変わらないらしい」


 「短慮で結構だ」

 シャシルは一歩も退かない。

 「捨てられた願いに火が残っているのを見て、黙っていられない程度にはな」


 兵の何人かが顔を見合わせる。

 この場へ来る前に、彼の名前は聞かされていたのだろう。無敵オーラの討灯官。処刑人。色々な呼び名がある。

 だが、いま彼が立っているのは人を斬る位置ではなく、石段の真ん中で子どもたちと受領箱を背にかばう位置だった。


 グラウスの視線が、その背後へ移る。

 レオンティナが紙束を抱えて前へ出た。

 広場のざわめきが、今度は別の意味で揺れる。


 「レオンティナ」

 グラウスは言う。

 「まさか本当にお前までここにいるとは」


 「います」

 彼女は淡々と返した。

 「そして、本日の手順を確認します」


 「手順?」

 グラウスは少し首を傾げた。

 「お前はまだ、中央の机の上で話をしているつもりかもしれないが、ここは現場だ。危険設備と混乱した群衆を前に、まず必要なのは迅速な接収だ」


 「いいえ」

 レオンティナは、彼の声を切るように言った。

 「本日、灯台は起動済み。星渡り祭当日。よって西岸旧灯台規則第十七条が適用されます。差し止めには公開読み上げと証人署名が必要です」


 その一言で、グラウスの笑みがほんのわずかに薄くなった。

 彼はすぐに取り繕ったが、消えた一瞬をシャシルは見逃さなかった。


 「古い規則を持ち出すか」


 「古くても有効です」

 レオンティナは紙を一枚掲げる。

 「こちらに控えを用意しました。港湾警備証人、見張り証人、灯台証人、民間立会人。すでに署名可能です」


 エルケが腕を組み、スターロイグルが無言で一歩前へ出た。

 チュバイロフは手を拭ってから署名板の横へ立つ。シヴは薔薇の棘を抜いた指で平然と頷き、クリスターは鍋杓子を置いて前へ出た。ジュニオールまで、薬籠を脇へ寄せてにこやかに手を挙げる。


 「証人なら足りています」

 レオンティナは言った。


 広場にいた住民たちも、そこでようやく意味を理解し始めた。

 これは裏で持っていかれる話ではない。

 この場で読ませることができる。

 そのことが人から人へ伝わると、ざわめきの質が変わった。

 怯えだけではなく、見届けようとする気配が立ち上がる。


 グラウスはそれを感じたはずだった。

 だからこそ、彼は即座に声色を変えた。


 「誤解しないでほしい」

 彼は両手を軽く広げた。

 「私は住民の願いを踏みにじりたいのではない。王国を守る立場として、限られた願光を適切に配分したいだけだ。軍港、税倉、輸送路、海防。守るべきものには順序がある」


 「暮らしはその順序の外か」

 シヴが低く言う。


 広場の端で誰かが息を呑んだ。

 花屋の女主人は一歩も引かなかった。


 「店を開ける願いも、子どもが泣き止む願いも、家へ無事帰る願いも、あんたの帳面じゃ後回しなんだろうね」

 彼女は赤い薔薇の並ぶ受付台を顎で示した。

 「でも、その後回しで生きてるのが、こっちの毎日だよ」


 「感情論です」

 グラウスは柔らかく返した。

 「私は国家の持続を話している」


 「国家ってのは、港に帰る船と、店を開ける朝と、謝りそこねた奴が今日こそ謝れる夕方でできてるんじゃないのか」

 クリスターが言った。

 普段なら場をなだめる側の男の声が、今日は不思議に遠くまで通った。


 グラウスの後ろにいた若い兵が、その言葉に少しだけ目を伏せた。

 彼にも思い当たる暮らしがあるのだろう。


 「議論は後で結構」

 グラウスは空気の流れを見て、すぐに踏み換えた。

 「よろしい。そこまで言うなら、形式は守りましょう。接収ではなく、まず監査です」


 その言い方は折れたようでいて、実際には折れていない。

 兵の配置も下げないし、船から下ろした封印箱もそのままだ。

 監査の名で押し切るつもりだと、シャシルには分かった。


 レオンティナも同じことを理解している顔だった。

 彼女はすぐに応じる。


 「監査で結構です。ただし、読み上げはこの場で。短冊受領も、停止理由が正式に宣告されるまでは継続します」


 グラウスの眉が、ごくわずかに動く。


 「まだ受けるつもりか」


 「受けます」

 答えたのはチャトリンだった。


 彼女は筆台の前から出ないまま、まっすぐグラウスを見る。

 細い体つきなのに、その時だけ灯台の柱みたいに見えた。


 「ここへ来た願いを、私は受け取る役目です」

 チャトリンは言う。

 「今日のために、昨夜、灯台を起こしました。止める理由を読む前に、止まりません」


 グラウスは彼女を数秒見た。

 名もない見習いを値踏みするような視線だったが、チャトリンはまばたきひとつしない。


 「……見習い風情が」

 と彼は小さく言いかけ、途中で飲み込んだ。

 広場の住民が聞いているからだ。

 代わりに、また微笑む。


 「立派な職務感です」


 「ありがとうございます」

 チャトリンは礼までした。

 だが感謝している顔ではなかった。

 刺を包んで返す術を、彼女もこの数日で覚えていた。


 その時、列の後ろから、子どもの声が上がった。


 「じゃあ、まだ書いていい?」


 大人たちが振り向く。

 さっき最初に紙を持ってきた少年の、今度は妹らしい小さな子だった。掌にぐしゃぐしゃの祈紙を握りしめている。


 グラウスが何か言う前に、チャトリンは手招きをした。


 「いいですよ」


 少女は列を抜けて前へ来る。兵の隙間を抜ける時に一瞬足が止まったが、エルケが半歩だけ身体をずらして道を作ると、また歩き出した。


 「何て書いた」

 チャトリンが聞く。


 「お兄ちゃんが、今日、転ばない」


 広場のあちこちで、張りつめた空気が少しだけほどけた。

 笑いとまではいかないが、口元がゆるむ。

 少女はその反応に気づかず、真面目な顔で紙を差し出した。


 「この子、走るから」


 「大事ですね」

 チャトリンは本気で頷いた。

 「受け取りました」


 それを見た次の子が前へ出る。

 するとその次の大人も、また一歩出た。

 監査の兵が広場にいても、受領台は止まらない。

 むしろ見られているからこそ、皆が自分の願いを引っ込めなくなっていく。


 グラウスは静かな苛立ちを目の奥へ沈めた。

 だが表面には出さない。

 出せば負ける場だと分かっているからだ。


 「よろしい」

 彼はゆっくり言った。

 「では、こちらも公開でいきましょう。私が直々に、不適切な祈紙がいかに結界を痩せさせるか、住民諸君へ説明して差し上げる」


 「どうぞ」

 レオンティナは即答した。

 「その代わり、こちらも帳簿と輸送記録を読みます」


 広場の中央へ、急ごしらえの長机が運ばれた。

 チュバイロフと警備の若い衆が並べ、ブラルが監査灯を横へ据える。風で紙が飛ばないよう、石の文鎮がいくつも置かれる。シヴの薔薇が一輪、いつの間にか机の端へ差してあった。


 それは滑稽なほど簡素な監査台だった。

 王都の特使が使うには粗末で、港町の即席舞台としては妙に気合いが入っている。

 だが、その不格好さこそが、今日の場に似合っていた。


 誰か一人の庭ではない。

 ここは皆が見ている場所だ。


 グラウスは席につく前に、ふと横へ目を向けた。

 その視線の先には、船からついてきた副官格の男が立っている。

 ほんの一瞬、指先が動いた。

 外套の裾を払うような小さな合図だったが、シャシルは見た。

 副官のほうも、ごく自然に一礼し、そのまま人混みの外へ下がっていく。


 嫌な動きだった。

 露骨ではないぶん、余計に。


 シャシルはすぐスターロイグルへ目をやる。

 寡黙な航路番も同じ違和感を覚えたらしい。わずかに顎を引き、沖側を見る。


 海は、一見すると穏やかだった。

 祭りの午前らしい薄い光が波を撫で、沖待ちの船影も大きくは揺れていない。

 だが、その沖合のさらに外で、見張り浮標が一つ、不自然な明滅をした。


 昼に使う灯りではない。

 監視線の応答火とも違う。

 潮の色が、そこだけわずかに沈んでいる。


 スターロイグルが低く呟いた。


 「潮が、変だ」


 その声は近くにいたシャシルにしか届かなかった。

 だが、それで十分だった。


 グラウスは監査台へ座り、整った笑みのまま最初の紙へ手を伸ばす。

 広場の人々は固唾を呑んで見守り、チャトリンは次の祈紙を受け取り、レオンティナは読み上げ札の順を揃える。


 祭りの表の顔は、まだ崩れていない。

 けれど海のほうでは、別の手がすでに動き始めていた。



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