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無敵オーラの灯台守シャシルは、捨てられた願いを拾って港町を救う  作者: 聖稲


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第11話 無敵オーラの使い道

 スターロイグルが「潮が、変だ」と呟いた次の瞬間、シャシルはもう階段を半歩下りていた。


 言葉より先に身体が動く。

 沖の色が、見えていたからだ。


 普段の海霧は、陽が高くなるにつれて白く薄まる。だが、いま見張り浮標の外側に溜まり始めているものは違う。青でも灰でもなく、祈紙を濡らしたあとに残る煤みたいな鈍い色だった。願火を抜かれた紙束が、腐る寸前に出す濁りと同じ色である。


 王都の仕分け場で、焼却前の祈紙が積まれた場所を見た時の臭いまで、鼻の奥によみがえった。


 「エルケ」


 名前を呼ばれただけで、港湾警備の男は振り返る。


 「海側へ人を出すな。見物人は石段の内へ戻せ。子どもは灯台の一階、鍋場の裏を通せ」


 「理由は」


 「撒かれた」


 それだけで足りたらしい。

 エルケの顔から、祭り用の渋面が一瞬で剥がれ落ちる。港の喧嘩と嵐と火事を見てきた男の、判断だけが残った。


 「聞いたな!」

 彼はすぐさま腹から声を出した。

 「沖側を見るな、足元を見ろ! 広場の外へ出るな! 食堂へ入る組と灯台へ上がる組、こっちで分ける!」


 怒鳴り声なのに、不思議と恐慌にはならない声だった。

 何をすればいいかが、先に届くからだ。


 チュバイロフが動いたのは、命令が最後まで言い切られるより早かった。監査台の脇に置いてあった空箱を蹴らずに持ち上げ、石段の途中へ並べる。即席の仕切りである。子どもが海側へ駆け出さないよう、通路を狭めるつもりなのだとすぐ分かった。


 クリスターは鍋の蓋を閉め、食堂の手伝いへ向かっていた娘に向けて大声を飛ばした。


 「汁は薄めるな、そのまま持って上がれ! 転ぶなよ!」


 「父さんが言うと一番不安なんだけど!」


 返ってきた悲鳴まじりの声に、場違いなくらい小さな笑いが広場をかすめた。

 その笑いが、張りつめかけた空気をギリギリで支える。


 チャトリンは受領台の前にいた。だが手は止まらない。次の短冊を受け取りながら、隣にいた子どもへ早口で言う。


 「受け取った紙は、その赤い箱へ。箱がいっぱいになったら、二人で中の棚まで運んで。走らなくていい、落とさなければいい」


 「おれも?」


 「おれもです。字が読めなくても持てます」


 そう言われた少年は、急に胸を張った。

 自分の仕事を与えられた顔になる。


 広場の端で、ケイデンスが鐘も笛も使わず、いつもの口で町の人間を動かしていた。


 「年寄りは左の通路! 荷車は柵の外! 見たいのは分かるけど、見たいならなおさら邪魔しないで!」


 噂話を撒く時と同じ勢いで避難導線を作っていくのだから、頼もしいのか恐ろしいのか分からない。


 レオンティナは監査台の紙束を腕に抱えた。

 広場のざわめきを見渡し、グラウスの方へ視線を戻す。その目に、さっきまでの礼儀の薄布はもうなかった。


 「伯父上」

 と彼女は低く言った。

 「これは監査の場の事故ではありませんね」


 グラウスは席についたまま、微笑みを崩さなかった。


 「海の気まぐれまで、私のせいにするのか」


 「海は気まぐれでも、浮標は合図しません」


 返事はない。

 その無言だけで、十分だった。


 シャシルは石段の最上段から沖を見た。

 潮の流れが三筋、嫌な形で裂けている。沖待ちの小舟が一艘、帆を畳んだまま不自然に横走りし、その船尾から黒っぽい液が海へ垂れていた。餌だ、とシャシルは確信する。願光の搾りかすか、兵器炉の残滓か。どちらにせよ、潮闇を寄せるには充分すぎる。


 足元で、さっきの少女が不安そうに見上げてきた。

 兄が転ばないよう願った子だ。


 「おじさん」


 「何だ」


 「海、こわい?」


 シャシルは少しだけ目を細めた。

 正直に言えば、怖くないわけではない。潮闇を前にして、何も感じない者のほうが壊れている。

 だが、いま必要なのは別の言葉だった。


 「怖いから、前へ出る」


 少女は意味が分からない顔をしたが、その横で兄のほうが息を呑んだ。

 たぶん、少しだけ分かったのだろう。


 シャシルはチャトリンへ向き直る。


 「短冊庫の鍵を持て。外へ出すな。だが受領は止めるな」


 「止めません」


 「潮が石段まで来たら、地下へは降りるな。書庫の手前で切る」


 「はい」


 チャトリンの返事は短い。

 なのに、奇妙なくらい落ち着く声だった。


 「シャシル」


 彼女が呼び止める。

 振り返ると、チャトリンは一歩だけ近づき、誰にも見えない角度で彼の外套の留め具を締め直した。乱暴な男の服を、いつも世話している手つきだった。


 「戻ってきてください」


 「そのつもりだ」


 「つもりじゃなくて」


 そこで彼女は、一度だけ息を吸う。

 祭りの飾りが風に鳴った。


 「戻ってきて、受付の続きをしてください。あなた、怖がらせるだけで列整理が妙にうまいので」


 場違いな言い分に、シャシルは口元だけで息を漏らした。

 笑った、と言うほど器用な顔ではない。だがチャトリンは分かったらしい。小さく頷いて、彼の胸の留め具を最後に一度だけ押した。


 「了解した」


 その返事を置いて、シャシルは石段を下りる。


 背中へ、子どもの声が追いかけてきた。


 「無敵オーラのおじさんー!」


 こんな時に何だ、と振り向きそうになったが、その前に別の子が叫んだ。


 「がんばれー!」


 「勝ってー!」


 「転ばないでー!」


 最後だけ、さっきの少女だ。

 広場の大人たちから、小さく噴き出すような息が漏れる。笑う余裕などない場面なのに、その不格好な応援のせいで、誰も泣き声を出さずに済んだ。


 シャシルは振り返らず、片手だけ上げた。

 それで十分、届いたらしい。


 坂を下りきる頃には、海の臭いが変わっていた。

 生臭さではない。焼き損ねた紙と油の混じったような、胸を悪くする臭いである。港の杭に繋がれた小舟が落ち着かなく軋み、沖へ向いていた鴎がいっせいに岸壁側へ逃げてくる。


 スターロイグルが防波堤の先端で待っていた。

 槍ではなく、長い見張り鉤を持っている。


 「来る」

 と彼は言った。


 「見えている」


 「数は多くない。だが、濃い」


 それが一番厄介だった。

 数だけなら押し返せる。

 濃い潮闇は、願光の薄い場所を嗅ぎつけて一点へ喰らいつく。港全体を舐めるより、灯台の足元か、広場の人混みへまっすぐ突っ込んでくる可能性が高い。


 そしていまの港には、人が集まりすぎていた。


 「沖の小舟、見えるか」

 シャシルが聞く。


 「帆なし一艘、櫂二人、舵一人」


 「人の数を数える暇があるなら上出来だ」


 「見張りだからな」


 スターロイグルは自慢もせず言った。

 それから目だけで左手の海面を示す。


 「下を回る」


 海面の黒ずみが、防波堤の外から内へ忍び込もうとしている。潮の筋ではなく、こちらの死角を探す生き物の動きだ。シャシルは外套を脱ぎ、杭へ引っかけた。濡れれば重くなるからである。


 「上へ伝えろ。港門は閉じるな。舟が逃げ場を失う」


 「分かった」


 「おまえは見張りを続けろ。英雄は一人で足りる」


 スターロイグルはその皮肉に少しだけ眉を動かした。


 「怖がられている顔で言うと、冗談に聞こえない」


 「冗談ではない」


 答えながら、シャシルは防波堤の先へ出た。

 石の先端は潮をかぶって黒く光っている。左へ港、右へ外海。立つ場所としては最悪に近いが、ここなら両方へ目が届く。


 沖の小舟で、誰かが蓋つきの壺を割った。


 鈍い音は距離のせいで聞こえなかったが、海の色が一気に沈んだことで分かった。壺からこぼれた液が、まるで墨を注いだみたいに波間へ広がる。その真下で海が盛り上がり、次の瞬間、形のない獣の群れが水面を割って現れた。


 潮闇だった。


 犬のようにも、人のようにも見える輪郭が、何度も崩れてはまとまる。目の位置だけが赤く定まるもの、顎の形だけが妙に人に似ているもの、腕の代わりに長い霧の鞭を引きずるもの。数は十数。だが一体ごとの密度が濃い。港で日常的に見る小型のにじみとは比べものにならなかった。


 防波堤の内側で、誰かが悲鳴をのんだ。


 シャシルは腰の灯刀を抜く。

 刃そのものは金属だが、柄の芯には討灯官時代の導光石が残っている。もう王都の紋は削り落としてある。それでも、願火を流せば、刃の縁が夜明け前の星みたいに青白く立った。


 「来い」


 呼んだわけではない。

 宣告したのだ。


 潮闇の先頭が飛ぶ。

 人の肩ほどもある塊が、霧を撒き散らしながら真上から食らいついてきた。シャシルは半歩も引かず、上段から振り下ろした刃で鼻先から断ち切る。裂けた闇は黒い煙になり、風で飛ぶ前に二体目が横から突っ込んできた。


 低く沈み込み、右肘で殴り上げる。

 骨の手応えはない。だが願火の通った衝撃だけは確かに伝わり、闇塊が防波堤の外へ吹っ飛んだ。水飛沫が壁のように上がる。


 三体目、四体目。


 速い。

 しかも狙いが賢い。目の前の男を倒すより、その横を抜けて港へ入り込もうとする個体が混じる。シャシルは敢えて一歩下がり、踏み込んでくる角度を狭めた。狭い場所に押し込み、一体ずつ潰すほうが早い。


 灯刀が青い軌跡を引く。

 蹴り飛ばした潮闇の残滓が石にこびりつき、すぐ泡立って消えた。


 背後で、スターロイグルの短い笛が鳴る。

 沖の小舟が進路を変えた合図だ。


 小舟は港へ近づかず、外側からもう一つ壺を海へ投げ込んだ。まるで獣へ餌を追加するみたいな手際だった。


 「ふざけた真似を」


 シャシルは舌打ちした。


 次の瞬間、防波堤の内側から石のぶつかる音が響く。

 エルケたちが港門沿いに荷箱を積み始めたのだ。完全封鎖ではない。潮闇が直進して広場へ飛び込まないよう、誘導の壁を作っている。理解が早い。


 港側の通りでは、チュバイロフが大人たちと一緒に長机を横倒しにし、子どもが潜り込める低い遮蔽物を作っていた。クリスターの食堂からは湯気が上がり、避難した人間へ温かい汁が配られ始めている。逃げるだけではなく、踏みとどまる準備が同時に進んでいた。


 その全部を視界の端で確認しながら、シャシルは前だけを見る。


 一体、また一体。

 潮闇は切っても殴っても霧へ戻る。だが戻った霧が再び形を結ぶ前に、港へ入れなければいい。完全な殲滅より、線を守ることを優先する。


 その時だった。


 沖の小舟から、今度は人が二人、防波堤の内側へ飛び移ってきた。

 王都の兵だ。外套の上から軽鎧を着込み、手には銛に似た長柄武器を持っている。潮闇を誘導する餌を撒くだけなら離れていればよかったはずだ。わざわざ岸へ乗り込んだのは、灯台の足元まで穴を開けるためだろう。


 「どけ!」

 一人が叫ぶ。

 「公務執行だ!」


 シャシルは答えない。

 代わりに、潮闇を一体切り払った勢いのまま兵の前へ滑り込み、銛の柄を刃で弾き上げた。硬い音がし、兵の手から武器が飛ぶ。


 もう一人が背後を取ろうとしたが、スターロイグルの鉤が足首へ絡んだ。派手ではない引きだ。だが十分である。兵は体勢を崩し、膝を石へ打ちつけた。


 「退け!」

 最初の兵が、腰の短剣を抜こうとする。


 シャシルはその手首を掴み、ねじり上げた。

 甲冑越しでも、怯えた脈が伝わってくる。


 「死ぬつもりで来たんじゃないなら、武器を捨てろ」


 低い声だった。

 怒鳴りではない。だからこそ、余計に逃げ場がない。


 「な……」


 「おまえの後ろにいるそれは、命令書を守らない」

 シャシルは兵の目の高さまで顔を寄せた。

 「紙切れ一枚で喰う相手を選ぶと思うな」


 兵の喉が鳴る。

 彼の肩越しでは、さっきまで仲間の背後にいた潮闇が、区別もなく口を開いていた。人間の悲鳴も、王都の紋章も、海の飢えには関係がない。


 「捨てろ」


 短剣が、からんと石へ落ちた。


 もう一人の兵も、膝をついたまま固まっている。スターロイグルが喉元へ鉤先を向けたまま、何も言わずに待っていた。沈黙の圧に耐えきれなくなったのか、その兵も銛から手を離す。


 「よし」

 シャシルは手首を放した。

 「港の内へ走れ。左の道だ。エルケに『武器を捨てた』と先に言え。言わなければ殴られる」


 「お、おまえは」


 「聞き返す暇があるなら走れ」


 兵たちは本当に走った。

 逃がすのか、と背後で誰かが驚く気配があったが、構っていられない。敵兵を二人抱えたまま潮闇の壁は守れないし、何より、彼らはすでに怯えきっていた。ここで殺す理由はない。


 その姿を、港側から見ていた子どもがいたらしい。


 「武器、捨てた!」

 と誰かが叫ぶ。


 すると別の声が続いた。


 「無敵オーラのおじさんが言ったら、ほんとに捨てた!」


 こんな状況で感心するな、と言いたかったが、その声に続いて大人たちの呼吸が少し戻るのが分かった。

 前に立つ者が、敵も味方も一度止めた。

 それだけで、港の空気は変わる。


 沖では、小舟が慌てて距離を取ろうとしていた。

 壺はもうないらしい。だが舵を握る副官格の男が、なおもこちらを見ている。諦めていない目だった。


 「ブラル!」


 シャシルは港へ向けて怒鳴った。


 階段の上から、工匠の甲高い声が返る。


 「はい!」


 「補助灯を海へ振れ! 主灯は細くでいい、外側の筋だけ見せろ!」


 「やります!」


 意味を理解しているか不安になるくらい返事が速い。だが数息後、灯台の中腹の窓が開き、細い補助光が防波堤の外側へ射した。太い光ではない。水面の筋だけをなぞる、細長い白線だ。


 その線へ、潮闇の首がいくつも向く。

 光そのものへ惹かれたのではない。濁りの境目が、見えたのだ。願火を搾った残滓は、光に照らされると輪郭が浮く。


 「そこだ」


 シャシルは防波堤を蹴った。

 真正面から来る潮闇ではなく、海面下で渦を作っていた核へ刃を突き入れる。青白い火花が水の中で跳ね、黒ずみが一気に裂けた。壺の中身と海流が混ざってできた導きの筋、その中心だ。


 裂け目から、耳障りな叫びが上がる。

 声ではない。波と霧の軋みだ。だが、人の悲鳴より嫌な音だった。


 核を失った潮闇の数体が、形を保てず崩れる。

 残った個体も動きが鈍る。そこへスターロイグルの鉤が一本、二本と飛び、港門沿いの警備たちが長柄で押し返す。エルケ自身も短棍を手に先頭へ出て、石段へ近づいた闇を容赦なく叩き落としていた。


 「前へ出すな!」

 彼は怒鳴る。

 「倒せなくていい、近づけるな!」


 指示が的確すぎて、誰も英雄ぶる隙がない。

 それがいまはありがたかった。


 広場の上では、チャトリンがまだ受領台に立っている。

 風にあおられる紙を押さえながら、次の短冊を受け、箱へ入れ、子どもへ運ばせる。

 ひとつ受け取るたび、彼女は必ず相手の顔を見て頷いていた。


 「受け取りました」


 その一言が、避難している人間の背骨になる。


 子どもたちは、最初こそ怯えていたが、仕事を続けるうちに顔つきが変わっていった。短冊箱を二人で持つ。棚まで運ぶ。戻ってきたら次を待つ。大人がその列の外側へ立ち、紙が濡れないよう布を広げる。


 小さな手が、小さな願いを守っている。

 その光景を見て、逃げ腰だった漁師が一人、また一人と遮蔽物の前へ出た。荷役の男たちも木杭を抱えて並び、花屋のシヴは薔薇の水桶ではなく砂袋を引きずってきた。


 「何で花屋がそれを持ってる」

 ブラルが叫ぶ。


 「店の戸を押さえるのに使うんだよ!」

 シヴは怒鳴り返した。

 「飾りに見えたかい!」


 見えた、と答えたら殴られそうな勢いだった。


 クリスターの食堂からは湯気だけでなく、皿を叩く音も聞こえる。

 避難した子どもに汁を持たせ、その子がまた短冊を運ぶ大人へ渡し、戻ってまた食堂へ走る。祭りの広場は半ば防衛線、半ば炊き出し場になっていた。


 戦場としては不格好だ。

 だが、港町としては正しい形だった。


 沖の小舟で、副官格の男が何かを叫んだ。

 残った潮闇を無理にでも突っ込ませるつもりだろう。だが、その瞬間、小舟の横へ別の影がぬっと現れた。


 ズベタだった。


 海辺の引き揚げ屋は、いつの間にか細身の小舟を出していたらしい。大波に合わせるように船腹を滑らせ、相手の小舟へ横から体当たりする。派手な衝突ではない。だが、壺を積んだ船は軽い。ぐらりと傾いた瞬間、副官格の男が舵から手を離した。


 「誰の海だと思ってる!」

 ズベタの怒鳴り声が、潮風を切って届く。

 「汚して帰れると思うな!」


 その隙を、シャシルは逃さない。

 防波堤から踏み切り、ぎりぎり届く距離で灯刀を一閃する。斬ったのは人間ではない。小舟の舳先に括りつけられていた黒袋だ。破れた袋から、濁った粉と湿った祈紙片が海へ散る。


 副官格の男の顔色が変わった。

 証拠だったのだ。潮闇を寄せる餌であり、同時に王都の兵器炉から出た残滓でもある。


 彼は抜剣しかけたが、その前にズベタの櫂が手首へ叩きつけられた。刃が海へ落ちる。


 「武器を捨てろ」

 シャシルは防波堤の先から告げた。

 「おまえもだ」


 副官は唇を引き結ぶ。

 王都の高官付きらしい、育ちのいい顔だった。だが、その額を流れる汗だけは兵のものと同じである。


 「私は公務中だ」


 「ならなおさら、生きて戻って説明しろ」


 副官の視線が、潮闇の残りへ流れる。

 もはや自分を守ってはくれない影の群れを見て、彼も理解したのだろう。海へ命を預ける理由がないことを。


 ゆっくりと、彼は剣の柄から手を離した。


 「……回収しろ」

 と彼は後ろの漕ぎ手へ言う。


 「まず自分で捨てろ」

 ズベタが被せる。


 副官は一瞬だけ睨んだが、結局、腰の短剣も抜いて海へ投げた。波間に沈む鈍い音がした。


 港の内側から、誰かが大きく息を吐く。

 それが合図だったみたいに、残った潮闇がいっせいに形を崩し始めた。核を失い、餌も絶たれ、海へ押し戻されていく。最後まで歯を剥いていた一体をシャシルが切り裂くと、黒い霧は日差しの中で泡みたいに消えた。


 静けさが戻るまでには、数息かかった。

 波が防波堤へ当たる音。

 遠くで誰かが泣き出す声。

 鍋の蓋が落ちる音。

 そんな現実の音が、一つずつ港へ帰ってくる。


 シャシルは灯刀を下ろした。

 腕が重い。呼吸も深くなっている。だが、立っていられないほどではない。


 防波堤の内側では、エルケが武器を捨てた兵二人を本当に殴らずに回収していた。胸倉を掴んではいるが、ちゃんと生かしている。


 「言った通りに言え」

 エルケが凄む。


 「ぶ、武器を捨てた!」

 兵が叫ぶ。


 「声が小さい!」


 「武器を捨てました!」


 港のあちこちで、緊張がほどけた笑いが起きた。

 泣き笑いに近い音だった。


 シャシルが防波堤を戻ると、子どもたちがわらわらと近づきかけ、すぐ大人に止められた。海水と潮闇の残りが危ないからだ。それでも、さっきの少女だけは柵の向こうから両手を振っている。


 「転ばなかった!」


 「誰がだ」


 「おじさん!」


 その隣で兄が真面目な顔をして言った。


 「無敵オーラ、今日のは、ちょっと違った」


 「何がだ」


 「こわいっていうより、前にいてくれる感じ」


 子どもの語彙としては半端だった。

 だが、それで充分伝わる。


 シャシルは返事に困り、結局、頭を乱暴に掻いた。濡れた髪に塩がざらつく。


 石段の上から、チャトリンが下りてくる。

 走ってはいない。だが一段一段が速い。受領台を離れられなかったのだろう、墨のついた指のまま、彼女はシャシルの前へ立った。


 「怪我は」


 「ない」


 「嘘だとあとで分かりますか」


 「少しは」


 「少しならあとで怒ります」


 それだけ言って、彼女は息を吐いた。

 肩から力が抜けるのが見える。泣きそうな顔はしていない。だが、泣かなかったぶんだけ強く彼を見上げていた。


 「戻ってきましたね」


 「ああ」


 「では、受付の続きです」


 ひどい言い草だ、とシャシルは思った。

 けれど、そのひどさがありがたい。戦ったあとに英雄扱いされるより、列整理へ戻されるほうがずっと息がしやすい。


 「先に、海のほうを片づける」


 「分かっています。だからそのあとです」


 チャトリンは譲らない。

 その間に、レオンティナとブラルが防波堤のほうへ来ていた。レオンティナは副官格の男が乗っていた小舟を見て、目を鋭くする。


 「袋を回収してください」

 彼女は言った。

 「破れた布も、壺の破片も、全部です。眩しいランプの下で照らせば成分が出ます」


 ブラルの目が、疲れているはずなのにまた輝いた。


 「出ます! あれだけ濁っていれば、流路痕も残っているはずです!」


 「興奮する方向が間違ってるぞ」

 エルケが呆れた。


 「でも証拠になります!」


 「それはそうだ」


 ズベタが小舟を曳いて岸へ寄せる。副官格の男はすでに大人しくなっていた。手首を押さえながら、濡れた外套のままこちらを睨んでいる。だが、その睨みも先ほどまでの余裕はない。


 「名を」

 レオンティナが問う。


 男はすぐには答えない。

 代わりにグラウスのいる広場のほうを見た。

 助けを求めたのか、指示を待ったのかは分からない。だが、その視線だけで繋がりは充分だった。


 「答えないなら、所属だけでもよろしい」

 レオンティナの声は冷えきっている。

 「灯政院西岸臨時回収補佐。違いますか」


 副官の喉が動く。


 「……違わない」


 「結構」


 彼女はそこで追及を止めた。いまここで全部を言わせる必要はない。むしろ、衆人環視の場で照らすために残しておくべき証言なのだろう。


 広場へ戻ると、住民たちの顔つきは明らかに変わっていた。

 さっきまで監査官を遠巻きに見ていた者たちが、今は自分の足で前へ出ている。短冊を持つ手も、避難を手伝う肩も、もう受け身ではない。潮闇が本当に来て、本当に防がれた。その事実が、人を観客から当事者へ変えてしまったのだ。


 しかも守ったのは、王都の命令ではなく、この町の寄せ集めだった。


 チュバイロフの積んだ箱。

 クリスターの鍋。

 シヴの砂袋。

 ケイデンスの声。

 子どもたちの短冊運び。

 そして、防波堤に立ったシャシルの背中。


 どれが欠けても、同じ形にはならなかった。


 グラウスは監査台の席に座ったまま、まだ笑みを保っている。

 だが、その整った表情の端に、初めて小さなひびが見えた。

 海の混乱を「偶然」で押し切るつもりだった計算が、潮闇と一緒に崩れたのだ。


 シャシルは彼の前まで歩いた。

 ずぶ濡れのまま立つと、石畳へ海水が小さく落ちる。


 「監査を続けるんだろう」


 グラウスは上を向く。

 目の前の男が濡れ鼠であっても、その圧が少しも減っていないことに、彼自身が気づいたらしい。


 「もちろんだとも」

 と彼は言う。

 「公務ですからね」


 「ならちょうどいい」


 シャシルは広場の端を顎で示した。

 そこでは、ズベタが曳いてきた小舟が縄で固定され、ブラルが破れた黒袋を布に包み、チュバイロフが壺の破片を一つずつ木箱へ集めている。レオンティナは記録札に日付と時刻を書き込み、エルケは武器を捨てた兵二人と副官を並べて座らせた。


 「海のほうからも、読み上げる物が増えた」


 グラウスの目が、一瞬だけ細くなった。


 その反応を見て、広場の何人かがざわめく。

 皆、もう分かり始めている。いまから行われるのは、ただの仕分けではない。誰が何を捨て、何を奪い、どこまで海へ撒いたのかを、眩しい光の下で見せる場になるのだと。


 チャトリンが受領台へ戻り、次の短冊を受け取る。


 「まだ、書いていいですか」

 と老漁師が聞く。


 「いいです」

 彼女は頷く。

 「いまこそ、書いてください」


 その答えに、列がまた少し伸びた。

 さっきまで逃げる準備をしていた人間が、今は願いを書くために並ぶ。何とも妙な光景だったが、月明かりの灯台には、その妙さがよく似合った。


 石段の途中で、子どもたちがこそこそと顔を寄せ合う。


 「無敵オーラって、怖いって意味じゃなかったのかも」


 「じゃあ何」


 「えっと……前に立ってる感じ」


 「それ、さっき兄ちゃんが言ってた」


 「じゃあそれ」


 雑な結論だった。

 だが、町に広まる呼び名なんて、だいたいそういうものだ。


 シャシルは聞こえていないふりをして、受領台の脇へ立った。列を押し合わないよう睨みを利かせ、子どもが転びそうになれば肩を支え、濡れた床板を足で寄せて段差を消す。

 言われた通り、妙に列整理がうまい。


 チャトリンが横目で見て、ほんの少しだけ笑った。


 「戻ってきて、受付の続きをしてくださいって言ったでしょう」


 「している」


 「はい。助かります」


 その一言が、妙に胸へ残る。

 防波堤で潮闇を斬った時より、よほど深く。


 広場の中央では、監査台の横に眩しいランプが据え直されていく。

 鏡筒が磨かれ、導光板がはめ込まれ、補助油が足される。ブラルの指先は震えていたが、興奮だけではない。いま照らすべきものが、海から上がってきたからだ。


 日差しはすでに高い。

 それでも、あのランプを点ければ分かる。願光の濁りも、横流しの痕も、兵器炉の残滓も。港町の人間が命を張って守った短冊の重みも。


 祭りの場は壊れなかった。

 壊されかけたところで、皆が手を出して支えた。


 だから次は、見せる番だった。

 この町の小さな願いが、どれだけのものを支えてきたのかを。



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