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無敵オーラの灯台守シャシルは、捨てられた願いを拾って港町を救う  作者: 聖稲


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第12話 眩しいランプの下で

 潮闇の気配が沖へ退いたあとも、広場の空気はすぐには元へ戻らなかった。


 逃げかけた足を止めた人々は、まだ肩に力を残したまま、灯台前の石畳へ戻ってくる。泣いていた子は泣きやみ、泣かなかった子は急に喉が鳴り、鍋を抱えたクリスターの娘が「熱いから走らないで」と何度も言う。潮で濡れた木箱が運ばれ、割れた壺の破片が布へ包まれ、黒袋の残りが風に飛ばないよう石で押さえられる。


 祭りの最中とも、防衛の後始末ともつかない景色だった。

 だが、そのどちらでもあるからこそ、月明かりの灯台らしかった。


 ブラルは真っ先に監査灯の前へしゃがみ込んでいた。

 工匠の青年は濡れた袖を気にもせず、鏡筒の固定具を締め直し、導光板の縁を布で磨き、火口の芯を爪で整える。興奮している時ほど喋りすぎる男なのに、今は無言だった。手元がうるさいほどよく動いているぶん、口のほうが追いついていないのだと分かる。


 「ブラル」

 と、レオンティナ。

 「照合の順番を変えます。先に海から上がったものを」


 「分かってます」

 ブラルは顔も上げずに答えた。

 「残滓の濁りは乾くと逃げます。先に袋、次に壺片、そのあと流路板です」


 「流路板?」

 チャトリンが聞き返す。


 「地下書庫から外した補助導板です」

 彼はようやく振り向いた。

 「再起動した心臓部の横で、濁りを噛んでた板。あれを通すと、どこで願光が抜かれたか筋で見えます」


 「見せられるのか」

 シャシルが問う。


 「見せるために起こしたんでしょう」

 ブラルの目がぎらりとした。

 「眩しすぎるくらいで、ちょうどいいです」


 その言葉に、グラウスは監査台の席から初めてはっきり不快そうな顔をした。

 だが彼はすぐに口角を戻す。乱れたのは一瞬だけで、次の瞬間には、あくまで形式を守る高官の顔へ戻っていた。


 「実演の前に」

 と、彼。

 「監査の順序を整理しましょう。混乱の直後です。民衆の前で半端な物証を振り回すのは、かえって不安を煽る」


 「だからこそ、ここでやります」

 レオンティナが切り返す。

 「衆前で納願が始まり、衆前で差し止めを主張した以上、衆前で理由と証拠を読む。それが第十七条です」


 「君は昔から、条文の都合のよいところだけ切り取る」


 「昔から、読み飛ばされたところを拾ってきました」


 伯父と姪の声は、怒鳴り合いではなかった。

 むしろ静かすぎて、広場のあちこちで人が息を潜めた。


 エルケが石段の下へ立ち、警備の若い衆へ顎を振る。

 すると彼らは、納願列と監査台の間に細い通路だけを残して人を左右へ流した。誰でも見える。けれど、誰も勝手に前へ割り込めない。その幅の取り方が絶妙だった。


 スターロイグルは広場の外縁へ立ち、海側の見張りを続けている。

 ズベタは回収船の舫い縄のところで腕を組み、逃げ足だけは残さない顔をしていた。チュバイロフは破片箱の横に立ち、無言で蓋を押さえている。シヴは花屋の細い指で薔薇の鉢をひとつ奥へ寄せ、棘を避けるみたいに人の流れも整えた。


 誰も「準備できた」とは言わない。

 だが準備は、もうできていた。


 広場の中央に、長机が三つ並べられた。

 一つは監査台。

 一つは物証台。

 もう一つは受領台の延長で、まだ筆と祈紙が置かれたままの台だった。


 その三つが隣り合っているのが、今日のすべてを表していた。

 暮らしの願いと、国の監査と、海から上がった汚れた証拠が、同じ高さの木板の上に置かれている。


 「始めます」

 レオンティナが言った。


 彼女は糸で綴じた記録束を一番上から開き、風でめくれないよう文鎮を置く。

 眩しいランプはまだ灯っていない。先に言葉の筋を通すつもりなのだろう。


 「西岸月明かり灯台、星渡り祭当日臨時公開監査。立会人、港湾警備エルケ、見張り役スターロイグル、灯台保全人員チュバイロフ、商人立会いシヴ、食堂主クリスター、診療所立会いジュニオール」


 呼ばれた名が順に応じる。

 クリスターなどは、鍋杓子を置いてから「いる」と短く言った。その何でもない返事が、奇妙なくらい場を安定させた。


 「まず確認します」

 レオンティナは続ける。

 「本日、月明かりの灯台は正式に起動済みです。未認可の危険点灯ではなく、地下心臓部の再接続による本来流路の復旧です。よって本日の納願は受理済みであり、差し止めを主張する側にはその理由の公開説明義務があります」


 グラウスが口を開くより先に、広場の端から「受け取ってもらったよ」と声が上がった。

 漁師の女房だった。さっき短冊を書いていた女である。彼女が胸元の受領札を見せると、ほかにも何人かが自分の札を上げた。


 受け取られた。

 ただそれだけの事実が、人の背を少し伸ばした。


 グラウスはその空気を一瞥し、静かに言う。


 「私は願いそのものを否定しません。問題は配分です。限られた願光を、王国防衛と地方の私的希望のどちらへ優先するか。感情ではなく、国家の継続で考えるべきだ」


 「そのために、地方から何を抜いたかを見ます」

 レオンティナは一枚目をめくった。

 「差分表。作成者、月明かりの灯台先代守。作成年、十二年前から三年前まで。地方集配枚数と、実際焚上枚数の差分を記録したものです」


 ブラルが横から板を掲げる。

 数字ばかりの表だった。普段なら人目を引く紙ではない。だが、今は違う。欄ごとに並ぶ枚数の差、その不自然な継続が誰の目にも見えた。


 「多い月だけではありません」

 レオンティナが指を滑らせる。

 「商いが落ち込む季節も、荒天の月も、病が流行った週も、地方の祈紙は一定数ずつ抜かれています。偶然ではなく、定期回収です」


 「抜いたところで」

 グラウスが肩をすくめた。

 「価値の低い願いを整理したにすぎない」


 そこで、シャシルの視線が上がった。

 ただ見ただけなのに、グラウスの後ろにいた兵が小さく喉を鳴らす。


 「価値の話はあとでいい」

 シャシルが言う。

 「先に、どこへ運んだかを出せ」


 レオンティナはうなずき、次の束を開いた。


 「輸送札控え。西岸各灯台より王都再活用倉宛て、と表記されています。ですが、実際の荷受番号は再活用倉の書式ではありません。兵器補助炉管理番号の並びです」


 広場がざわつく。

 兵器という言葉は、誰の耳にも固い。


 「間違いでは?」

 旅商人の一人が、おそるおそる言った。


 「間違いなら、こちらで消せます」

 レオンティナは別紙を出した。

 「だが消せません。同じ番号が、地下書庫に残っていた旧式圧縮炉の保守札にも刻まれていました」


 彼女が札を持ち上げると、ブラルがすぐ横から煤けた金属片を差し出す。

 数字の癖まで一致していた。王都の工房でまとめて打った刻印にしか見えない整い方だった。


 グラウスが薄く息を吐く。


 「旧式設備の数字が似ていたから何だと言う」


 「似ているのではありません」

 ブラルが食い気味に言った。

 「同じ刻型です。工房癖まで一致してます」


 「工匠の感想では、公的証明にならない」


 「だから、次です」

 レオンティナは録声板を前へ置いた。


 先代守の遺言、という言い方を彼女はしない。

 あくまで記録として扱うつもりなのだろう。


 「録声板記録。封緘状態、地下書庫保管。内容の一部を公開します」


 彼女が盤を起こすと、広場へざらついた声が流れた。


 『王都は、暮らしの願いを値打ちのない紙と呼ぶ。だが連中は知っている。商売の無事、仲直り、子の回復、明日の漁。そういう願いほど火が揺れず、長く保つことを』


 さっきまでざわめいていた人々が、今度こそ完全に黙った。


 『私は三年、差分表を作った。消えた枚数を記した。運び出された輸送札を写した。報告も出した。戻ってきたのは、沈黙と、命令と、監査だった』


 声は古く、ところどころ擦れている。

 だが擦れていても、嘘の音ではなかった。


 『だから炉を塞ぐ。西岸を守るための圧縮炉を、王都の兵器へつなぐことは許さない。小さな願いを奪う国を、私は許さない』


 老女が、石段の途中で小さく目を閉じた。

 第四話で、同じ言葉を紙へ書いた時と同じ顔だった。怒鳴らない。泣かない。ただ、逃がさないと決めた人の顔だった。


 録声板が止まると、風の音だけが残った。


 「以上」

 レオンティナは言う。

 「差分表、輸送札控え、刻印一致、先代守の記録。ここまでは、紙と声です」


 「紙と声だけだ」

 グラウスがすぐに返す。

 「恨みの残る地方守の言い分と、数字の並べ替えにすぎない。王国の実務は、もっと複雑——」


 「だから海のほうを出す」

 シャシルが遮った。


 彼は物証台のほうへ歩き、濡れた黒袋の切れ端を自分の手で持ち上げた。海水がぽたりと落ち、木板に黒い染みを作る。


 「これがさっき、沖の小舟に括りつけられていた」

 シャシルは広場全体に向けて言う。

 「壺の中身も同じだ。潮闇を寄せる餌だった」


 「海賊まがいの勝手な犯行かもしれませんね」

 グラウスはまだ微笑を崩さない。

 「祭りの混乱に乗じて、地方の不安を煽る者はどこにでも——」


 「所属は吐いた」

 エルケがぶっきらぼうに言った。

 後ろに座らせていた副官格の男を、鉤棒の柄で示す。

 「灯政院西岸臨時回収補佐だそうだ。違うって言うなら今ここで言え」


 副官の顔は蒼ざめたままだった。

 濡れた髪が頬へ張りつき、さっきまでの言い逃れの形が消えている。

 彼はグラウスを見た。けれどグラウスは視線を返さない。


 「……所属は」

 副官が掠れた声で言う。

 「その通りです」


 広場のあちこちで、人が息をのんだ。

 その音は悲鳴ではない。確信へ変わる時の音だった。


 「ブラル」

 レオンティナが呼ぶ。


 「はい」


 「灯を」


 そこでようやく、眩しいランプが据えられた。


 ブラルは導光板を差し込み、遮光幕を半分下ろし、鏡筒の角度を物証台へ合わせる。火が入る。最初は小さく、次に芯を送った瞬間、白い光が一気に厚みを持った。


 昼の広場で使うには異様な明るさだった。

 陽が高いのに、ランプの前だけ別の昼が立ち上がる。白というより、骨の中まで覗くような色である。


 子どもが思わず「まぶし」と顔を背けた。

 ブラルはすぐ遮光幕をさらに下ろし、光を細長く絞る。


 「覗かないでください! 横から見てください!」


 「おまえが一番興奮してるぞ」

 エルケが呆れる。


 「するでしょう、こんなの!」


 絞られた光が、黒袋の切れ端を通る。


 すると布の繊維の奥に、鈍い緑が浮いた。

 ただの汚れではない。細い筋になって滞り、ところどころ墨みたいな黒紫へ沈む。願火の残滓が腐りかけた時に出る色を、シャシルは王都の炉で見たことがある。だが、こんなにはっきり見えたことはなかった。


 「濁ってる」

 誰かが言った。


 「願光を絞ったあとの搾りかすです」

 ブラルの声が上ずる。

 「しかも海へ撒いてます。だから潮闇が寄る!」


 次に壺の破片が光へ入る。

 破片の縁にこびりついたものが、今度は青白く筋を浮かべた。濁りの中に、わずかに残った祈紙の繊維まで見える。


 「紙……」

 チャトリンが呟く。


 「焚き切っていない」

 シャシルが低く言う。

 「搾って、燃え残りを撒いた」


 クリスターが握りしめた拳を見下ろし、シヴは薔薇の鉢の縁へ無意識に指をかける。ジュニオールの笑い顔も、今だけは完全に消えていた。


 「最後に」

 レオンティナが言う。

 「再起動した灯台の流路板です」


 ブラルが、地下心臓部から外してきた補助導板を両手で持ち上げた。

 金属とも硝子ともつかない古い板で、縁には細い溝が何本も走っている。普段なら煤けてしか見えないその板を、眩しいランプの前へ立てる。


 光が通った。


 すると、板の中に閉じ込められていた筋が一斉に浮かび上がった。

 大半はまっすぐ上へ伸び、灯台本来の心臓部へ集まっている。だが、その途中に、横へ逸れる黒い線があった。しかも一本ではない。何年もかけて何度も流されたような、重なった傷筋である。


 「見えるか」

 ブラルが声を震わせる。

 「本来流路から横へ抜いた跡です。しかも一度だけじゃない。繰り返してる。だから板の癖になって残ってる」


 「どこへ」

 旅商人の男が、思わず前へ出た。


 ブラルは導板の端を指す。


 「この方向です。地下の旧式圧縮炉。先代守が塞いだ炉へ向かってます」


 レオンティナがすぐに輸送札をその横へ置いた。

 王都宛ての荷受番号。

 旧式炉の刻印番号。

 海から上がった残滓。

 そして導板に残る横抜きの筋。


 ばらばらだったものが、白い光の下で一本に繋がった。


 誰にでも分かる形になってしまった。


 広場の後ろのほうで、年配の漁師が低く唸る。

 「じゃあ、俺たちが書いてた紙は」


 「王都へ持ってかれてたのか」

 隣の女房が続けた。


 「しかも海まで汚して」

 ケイデンスが、いつもの軽さのない声で言った。


 グラウスはそこで、ようやく笑みを捨てた。

 ただし狼狽ではない。別の顔へ替えたのだ。

 冷たく、正しいことだけを言う顔へ。


 「だとしても」

 彼は言う。

 「それは王国を守るための苦い選別です。君たち地方の暮らしが大切なのは分かる。しかし、防衛はもっと大きい。海の向こうから来る脅威を止めるには、安定した願火が要る。小さな願いがその燃料になるなら、国家へ回すのは当然でしょう」


 その言い分は、広場の気温を一度に下げた。


 正しい顔で言われると、人は一瞬だけ言葉を失う。

 だからこそ、最初に動いたのは、文字をうまく使えない人間たちだった。


 老女が、杖をついて前へ出た。

 ベルノ・ラージェの名を戻したあの老女である。

 彼女は懐から一枚の祈紙を出した。何度も開かれ、何度も閉じられた紙だった。


 「これは、うちの人のだよ」

 老女は言った。

 「倉を取られずにすみますように、って書いてある」


 紙は薄く、もう願火はほとんど残っていない。

 だが、その言葉だけで広場の風向きが変わった。


 「これがあんたにとって燃料なら、あたしにとっては、あの人が最後まで手放さなかった明日だ」

 老女の声は震えていない。

 「倉を守りたかった。船を守りたかった。店先で縄を売る朝を守りたかった。それを勝手に奪って、国のためだって言うのかい」


 グラウスは何も答えない。


 答える前に、別の声が重なった。


 「おとうさんの船がぶじに帰りますように」


 あの子どもだった。

 第一話で、王都の仕分け場からシャシルが拾った一枚と同じ文を、別の子どもが今ここで声にしたのかと思ったが、違った。これはクリスターの近所の子が、さっき自分で書いて受領された祈紙だった。

 小さな手が震えている。

 それでも、読み切った。


 「これも、燃やすの?」

 子どもはグラウスへ聞いた。


 返事はなかった。


 シヴが前へ出る。

 花屋の女主人は、自分の短冊ではなく、誰かが灯台へ置いていった一枚を持っていた。


 「花屋さんが明日も店を開けますように」

 彼女は読んで、それから顔を上げる。

 「これを書いた人の顔、私は知らない。でも、知らない誰かが、うちの扉が明日も開くことを願ったんだよ。そういう紙を選別だ何だって削ってたら、町は先に痩せるに決まってるだろう」


 クリスターも続いた。

 「今日、食堂の火が止まりませんように」


 ジュニオールが、その横から笑わずに読む。

 「熱が下がりますように。今夜だけでも眠れますように」


 漁師の女房。

 荷役の若い衆。

 旅商人。

 片袖を縫い直した老人。

 次々に短冊が開かれた。


 どれも大きくない。

 王都の帳面に書けば、たしかに価値なしの印を押されるのかもしれない。

 けれど、読み上げられるたびに、広場へ集まった者たちは、それがどの暮らしのどこに刺さる願いなのか、すぐに分かった。


 明日も魚が獲れますように。

 母さんと仲直りできますように。

 灯りを消さずに眠れますように。

 足の痛みがひどくなりませんように。

 あの人に今日こそ謝れますように。


 短い。

 だが短いからこそ、誰の一日にもそのまま入る。


 チャトリンは最初、自分の位置を動かなかった。

 受け取る役目を離れないつもりだったのだろう。だが、子どもたちが読み、大人が読み、老女が読んだあとで、彼女もついに筆台の横から一枚を取った。


 それは、第八話の夜に彼女が書いたものだった。

 シャシルだけが、すぐ分かった。


 「捨てられるはずだった願いが、もう捨てられませんように」


 チャトリンの声は大きくなかった。

 それでも、いちばん遠くまで届いた気がした。


 なぜなら、その願いは、この場に並んでいる全部をまとめていたからだ。

 店を開ける朝も、帰ってくる船も、戻したい名前も、熱の下がる夜も、謝りたい夕方も。

 捨てられなければ、まだ明日に繋がる。


 グラウスの頬の筋肉が、そこで初めてこわばった。


 「感傷で国家は回らない」

 彼は言った。

 さっきより強い口調だった。崩れたのは理屈ではなく、抑えのほうだと分かる。

 「君たちは目の前の小さな善意で酔っているだけだ。王都が何を背負っているかも知らずに」


 「酔っているのは、そっちだろう」

 エルケが吐き捨てた。

 「顔も見ないで紙を燃料扱いして、まだ自分は冷静だって思ってる」


 「港湾警備風情が」


 「見張りの数と死体の数くらいは数えられる」

 エルケは一歩も引かない。

 「灯が痩せた年、どれだけ夜の海で拾い損ねたと思ってる」


 スターロイグルは何も言わなかった。

 ただ、見張り鉤の柄を静かに握り直した。

 それだけで、彼も同じ側に立っていると分かった。


 レオンティナが最後の紙を持ち上げる。

 それは今朝つくった公開監査記録ではない。

 王都からの差し止め理由の記入欄が、まだ空白のまま残る紙だった。


 「特使グラウス・ヴァルケン」

 彼女は伯父の名を、肩書きごと読み上げた。

 「物証照合、録声、輸送札、流路痕、現場所属者証言、すべて出ました。それでも本日の納願を停止するなら、この欄へ理由をお書きください」


 広場中の視線が一斉に集まる。


 グラウスは紙を見る。

 次に、物証台を見る。

 そして、短冊を握る住民たちを見る。


 彼の顔はもう整っていなかった。

 代わりに、別の種類の本音が覗いている。

 地方を相手にする時だけ使う、説明するふりをした見下しだった。


 「理由なら簡単です」

 グラウスは言った。

 「地方灯台は、すでにいくつも役目を終えている。守れない灯を抱えても被害が増えるだけだ。多少の切り捨ては、どのみち必要だった」


 その一言で、シャシルの中の何かが、音もなく立ち上がった。


 多少。

 切り捨て。

 必要だった。


 家族を失った夜、霧の向こうで届かなかった光。

 朝になって見つけた、声のない家。

 王都の仕分け場で見た、価値なしの赤印。

 全部が、その三つの言葉の中へ押し込まれた。


 チャトリンが、すぐ横で息をのむ。

 彼女はまだ何も知らないわけではない。だが、今の一言が、シャシルの中のどこへ触れたかまでは知らない。


 それでも、分かったのだろう。

 筆台の下で、彼女の指先がきゅっと白くなる。


 シャシルはゆっくりグラウスの前まで歩いた。


 濡れた外套はもう乾き始めていたが、潮の跡はまだ肩に残っている。

 防波堤に立っていた時より、かえって今のほうが静かだった。

 静かだから、余計に怖かった。


 「もう一度言ってみろ」


 声は低い。

 だが広場の隅まで届いた。


 グラウスは、一瞬だけ躊躇した。

 けれど高官の意地が、それを飲み込ませる。


 「必要な切り捨てだと言った」


 次の瞬間、広場の空気がぴんと張った。


 誰も動かない。

 動けない。


 シャシルの目の前で、過去と今がほとんど同じ距離まで重なっていた。

 ここで殴れば早い。

 壊せば静かになる。

 だが、それをした瞬間に、眩しいランプの下で繋いだ全部が、また別の言葉で潰されることも分かっていた。


 だから彼は、拳ではなく、言葉のほうを握った。


 握ったまま、次の一歩を踏み出す。


 その一歩で、眩しいランプの下へ並んだ証拠は、もう誰にも引き戻せないところまで来た。


 公開監査は、何が行われていたかを示し終えている。

 あとは、その事実へ、誰がどう責任を取るかだった。



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