第8話 月明かりの下で、短冊に願い書く君の横顔
地下書庫で見つかった差分表と録声板は、その日のうちに三か所へ分けられた。
原本はレオンティナの鍵箱へ、写しはブラルの作業机へ、読み上げ用の抜粋はシャシルの袖袋へ。
ひとつにまとめておけば奪われる。分けておけば、誰か一人が倒れても残る。
それは戦場で覚えた理屈だったが、いま守りたいのは軍令ではなく、食堂の鍋の匂いと、花屋の赤い薔薇と、朝を待つための紙切れだった。
そして、その翌朝には、港じゅうが別の顔をし始めた。
「星渡り祭の竹、足りるか」
荷車の横でズベタが言った。
「足りなければ切りに行く」
シャシルが即答する。
「だから、その即答が怖いんだって」
ケイデンスが笑いながら言う。
「みんなで数えてからにしてよ。去年のぶん、倉庫に寝てるかもしれないでしょ」
「寝てる竹って何だ」
「使われずに埃かぶってる竹のこと」
月明かりの灯台の前庭では、朝から人が出たり入ったりしていた。
子どもたちは古い色紙の箱を覗き込み、シヴは薔薇の枝を折らない位置を見定め、チュバイロフは受付台に使う板を削り、クリスターは食堂から大鍋を二つ持ち込んでいる。
食堂の避難騒ぎからまだ数日しか経っていないのに、もう人は祭りの支度をしている。
昨日まで泣いていた子が、今日は提灯の紐を数えている。
その切り替えの速さを、シャシルは少し不思議に思った。
「何その顔」
チャトリンが短冊束を抱えたまま覗き込む。
「何でもない」
「何でもない顔じゃないです」
彼女は受付台へ束を置き、肩のあたりを軽く回した。
「言いたいことがある顔です」
「昨日、潮闇が港へにじんだばかりだ」
「はい」
「地下では国ぐるみの横流しが見つかった」
「はい」
「なのに、どうして祭りの準備をする」
チャトリンは不思議そうに瞬いたあと、あっさり言った。
「祭りの日は来るからです」
「来ないようにされるかもしれない」
「それでも、来る日には来る支度をしておかないと」
彼女はそう言って、短冊の束を揃えた。
「それに、今年やらなかったら、来年やる理由が一個減ります」
シャシルは返事を飲み込んだ。
理屈としては甘い。だが、その甘さで人が今日を渡れるなら、切り捨てる理由にはならない。
前庭の石段に、去年の祭りで使ったと思しき竹骨が積まれていく。
使えるものと折れたものを分けろ、とシャシルが言う前に、チュバイロフが無言で二山に分け始めた。
ブラルは倉庫から提灯枠を抱えて出てきて、片手で図面を押さえたまま叫ぶ。
「大きいのは灯台前、細いのは坂道の手すり側です! 重みのかかり方が違うので紐の結びも変えます!」
「分かった」
エルケが返し、
「分かったけど、もう少し町の人間にも分かる言い方をしろ!」
と怒鳴り返す。
「つまり?」
ケイデンスが楽しそうに聞く。
「つまり……切れたら困るところを先に丈夫にする!」
「最初からそう言えばいいのに」
笑いが起きる。
その笑いを聞きながら、シャシルは灯台の壁際へ並べた竹束を肩に担いだ。
一本二本ではない。十本まとめて運ぶ。
横で見ていた子どもが口をあんぐり開けた。
「無敵オーラのおじさん、また無茶してる」
「おじさんじゃない」
シャシルが言うと、
「じゃあ何」
と即座に聞き返され、答えに詰まる。
「灯台守だ」
「こわい灯台守」
「そうだ」
子どもたちは、ひと息置いてから笑った。
前なら泣いて逃げた距離で笑われる。
それが悪くない、とシャシルは思った。
坂の途中では、シヴが花籠の位置を決めていた。
咲き直した赤い薔薇はまだ満開ではないが、蕾の数が増えている。
彼女は枝を撫でながら、シャシルへ視線だけ向けた。
「祭りの日の朝に一番よく見える向きは、海じゃなくて町側よ」
「海へ見せるものじゃないのか」
「海へは灯りを見せるの。花は帰ってきた人に見せる」
シヴは即答する。
「分かってる人の顔してないわね」
「分かっている」
「じゃあ、その竹を門の左に二本。右は朝の風を受けるから、短冊が絡む」
命令のように言われ、シャシルは素直に従った。
花屋の言うことは聞け、と彼の中で何となく決まっている。
生き物を咲かせる人間の勘は、だいたい正しい。
昼を過ぎるころ、灯台前の空き地は祭りの輪郭を取り戻し始めた。
受付台には新しい布が掛けられ、その脇に大きな受領箱が置かれる。
坂道の手すりには提灯を吊るすための紐が渡され、灯台の入口には星形に切った薄木板が並ぶ。
去年までは閉鎖前提で縮められていた祭りの形が、今年は少しだけ大きい。
「受付台、広すぎません?」
クリスターが鍋の蓋を押さえながら言う。
「広いくらいでいい」
チャトリンは机の端を布で拭く。
「並ぶ場所が狭いと、願い書く前に帰る人が出るので」
「並ぶほど来るかねえ」
「来ます」
彼女は迷わず言った。
「来なかったら、その時は私が坂を下りて集めます」
「やりかねないな」
エルケが鼻で笑う。
「やりますよ」
チャトリンは平然と返した。
「だって、今年は書いてほしいですから」
その言い方に、シャシルは目だけ向けた。
書いてほしい。ではなく、やってみたい。でもなく、書いてほしい。
願いを書く行為そのものを、彼女は人に返したいのだ。
灯台のためでも、自分の名誉のためでもなく。
レオンティナは祭り飾りの輪から少し離れた卓に座り、写した差分表へ注釈を書き込んでいた。
横ではジュニオールが、読み上げた時に町の人間にも分かる言葉へ直している。
「この『願光収斂量の再配分』ってやつ、難しいな」
ジュニオールが眉を寄せる。
「もっと腹立つ言い方に変えられない?」
「腹立つ言い方とは」
「たとえば、『あんたたちの願いを勝手に抜いて、王都の炉へ横流ししてました』」
「……事実としてはそれで合っています」
レオンティナは一度も筆を止めずに言った。
「ただし公的な場で読み上げるなら、表現は整えます」
「整えすぎて鈍ったら意味ないからね」
「分かっています」
細い声と軽い声が並ぶ。
そのどちらも、祭りの表舞台のために磨がれていく。
シャシルはそれを見て、少しだけ息を吐いた。
戦場では、剣を研ぐ音のほうが落ち着いた。だが今は、紙を整える音のほうが胸に収まる。
午後になると、町のあちこちから去年の飾りが集まり始めた。
褪せた布、木の星、塩で白くなった鈴、子どもが作った歪な小舟。
使えないものも多い。だが、使えないからといって捨てるには、持ち主の手が残りすぎていた。
「これは?」
シャシルが、片羽の欠けた紙の鳥を摘まむ。
「一昨年のです」
チャトリンが言う。
「飛ばすんじゃなくて、入口に吊るしてました」
「羽がない」
「でも風は受けます」
彼女は受け取って、欠けたほうを指で撫でた。
「欠けたまま揺れるのも、祭りっぽいです」
シャシルは紙の鳥を見た。
戦場では、欠けたものは交換する。
刃こぼれした剣、割れた盾、折れた車輪。
だがこの町では、欠けたものを持ち寄って、まだ揺れる場所へ吊るすらしい。
不合理だと思うのに、嫌ではなかった。
日が傾くころ、スターロイグルが港の見張り台から降りてきた。
風向きと潮の具合を書いた小板をエルケへ渡し、灯台前の騒がしさを一度見回す。
「今日は静かだ」
彼は短く言った。
「その言い方、逆に怖いな」
ケイデンスが肩をすくめる。
「静かな日に準備を終えるのがいい」
「祭りも見てく?」
「見張りの交代次第だ」
それだけ言って去ろうとした彼を、チャトリンが呼び止めた。
「スターロイグルさん、去年の星結びの順番、覚えてますか」
「覚えている」
「あとで教えてください」
「あとで行く」
必要な言葉しか言わない男が、それでもちゃんと戻ってくるのを、町の人間は知っている。
そんな小さな信用の積み重ねで、前庭の空気が少しずつ整っていく。
夕餉はクリスターの鍋だった。
食堂で余った魚の身と根菜を煮込んだ汁を、灯台前の長机へ並べた椀に注ぐ。
働いたあとに外で食う温かいものは、どうしてこううまいのかと、ブラルが三杯目を持って立ち尽くしている。
ジュニオールは塩を足し、エルケは足しすぎだと怒鳴り、ケイデンスは怒鳴り声がいちばんうるさいと笑う。
チャトリンは、皆に椀を渡した最後に、ようやく自分のぶんを持った。
その手首へ提灯の赤い色が乗っている。
昼のあいだに何度も紐を結び直したせいで、細い指の節にうっすら跡がついていた。
「座れ」
シャシルが言う。
「立って食べられます」
「座れ」
言い方が命令になったせいで、近くにいた子どもがびくっとする。
シャシルはすぐに舌打ちしたくなったが、その前にチャトリンが笑って石段へ腰を下ろした。
「はいはい」
彼女は椀を両手で包む。
湯気が頬を曇らせ、その向こうで目が柔らかく細まる。
それだけのことなのに、シャシルは一瞬、視線の置き場所が分からなくなった。
「……熱いなら冷ませ」
「熱いの好きです」
「舌を焼く」
「たまに焼きます」
「知っている」
また知っていると言ってしまった、と自分で思う。
彼女のことを、気づけば前より知っている。
寝落ちすること、請求書に弱いこと、棚の端を揃える癖、怒っている時ほど言葉が丁寧になること。
その一つ一つを覚えている自分のほうに、少し驚く。
クリスターが鍋の向こうから、にやりとした目を向けてきた。
「なんだ、その顔は」
シャシルが低く言う。
「いやあ、灯台の風向きが変わったなと思って」
「鍋を見ろ」
「見てます見てます」
エルケがすぐに割り込んだ。
「おいクリスター、余計なこと言う前に椀洗え」
「はいはい、港湾警備殿は気が利くねえ」
「誰が気を利かせてる。目障りだからだ」
そのやり取りに紛れて助かった、とシャシルは思った。
分かりやすく見られるのは困る。まだ、自分の中で言葉になっていない。
食後、空が群青へ沈むころ、提灯の試し灯しが始まった。
一本ずつ小さな火を入れていくと、坂道の紐に赤や黄の光が連なっていく。
海風に揺れ、光がときどき重なる。
子どもたちは歓声を上げ、シヴは薔薇の鉢を一歩ずつ動かし、ブラルは灯りの映り方を見ながら紐の高さを直した。
「高い」
シャシルが言う。
「風を受けすぎる」
「じゃあ、そこ押さえてください!」
ブラルが叫ぶ。
言われるより先に、シャシルは石段の手すりへ飛び乗っていた。
片手で紐を取り、もう片手で結び目を締める。
見下ろした子どもが、また歓声を上げる。
「無敵オーラのおじさん、やっぱり壁歩ける!」
「歩いてない。乗っただけだ」
「同じ!」
同じなのか、と少しだけ考える。
分からないまま降りると、チャトリンが提灯を抱えたままこちらを見ていた。
その顔に、呆れと笑いと、少しの誇らしさが一緒に出ている。
「何だ」
「いえ」
彼女は首を振る。
「結局いちばん働くなあと思って」
「最初から知っていただろう」
「知ってました」
彼女はあっさり認めた。
「でも、ちゃんと当たると、ちょっとうれしいです」
その返し方はずるい、とシャシルは思った。
責めているわけではない。
からかっているだけでもない。
見ていたうえで、当たったことを喜んでいる。
そんな顔を向けられると、叱る理由が消える。
夜が深まるにつれ、人は少しずつ帰っていった。
子どもたちは眠そうな目で紙星を抱え、クリスターは鍋を洗いに戻り、エルケは見回りの順路を確認し、レオンティナとジュニオールは資料束を持って診療所の奥へ移った。
最後まで残ったのは、竹組みの最終確認をするブラル、花鉢へ布を掛けるシヴ、板屑をまとめるチュバイロフ、それから受付台の位置を何度も見直すチャトリンだった。
「もう十分だ」
シャシルが言う。
「十分じゃないです」
チャトリンは受付台の横へ立ち、坂道を見下ろした。
「ここ、並んだ人の影が提灯にかかるんですよ。もう半歩、海側に寄せたいです」
「半歩で変わるか」
「変わります」
言い切るので、シャシルとチュバイロフで台を持ち上げた。
半歩より少しだけ海側へ寄せる。
チャトリンはしゃがみ、座る人の目線の高さまで下りて、影の落ち方を見る。
それから顔を上げ、満足そうに頷いた。
「これです」
「違いが分からん」
シャシルが言うと、
「分からなくていいんです」
彼女は笑った。
「書く人が、書きやすければ」
その言葉に、シャシルは黙った。
いつからこの灯台は、こんなふうに人の手つきで息をし始めたのだろう。
前は、閉鎖のために数字を片づける場所だった。
今は、誰かが腰を下ろして願いを書く、その姿勢まで気にする場所になっている。
変えたのは自分ひとりではない。むしろ、自分は火力が強かっただけで、形を整えたのは彼女だ。
ブラルが帰り際に、地下書庫から写してきた古い祭礼図を渡してきた。
そこには、星渡り祭の夜明け前、受付台の脇に「見届け役」が立つと記されていた。
願いを受け取るだけでなく、納める人の背を見送り、灯台へ向かう流れを乱さぬよう導く役だという。
「昔は灯守がここ」
ブラルが図面の端を指す。
「綴り手がこっち。二人で受ける形だったみたいです」
「二人で」
チャトリンが小さく繰り返す。
「だから受付台、横幅が広いんですね!」
彼女は突然ひらめいたように言った。
「一人用じゃなかったんだ」
シャシルは古図を見下ろした。
並んで立つ二つの影。
細い線で描かれたその配置が、妙に胸へ残る。
「保存しといてくださいね!」
ブラルはそう言い残して帰っていった。
「地下の流路図の続き、明日にはもっと読めるようにしますから!」
前庭に残る灯りは、試し灯しした提灯と、灯台入口の常夜灯だけになった。
シヴも帰り支度を終え、花鉢の上から一度だけ布を撫でる。
「朝まで風が強かったら、布を二重にして」
彼女はチャトリンへ言う。
「蕾は冷えすぎると開く気をなくすから」
「はい」
「あと、あんた」
シヴはシャシルを見る。
「竹を抱えたまま走らない」
「走っていない」
「昼に走ってた」
見られていたらしい。
花屋の目はやはり信用ならないほどよく届く。
「祭りの日は、綺麗なものを綺麗なまま置くためにも人手が要るの。壊さないで」
「分かった」
「ほんとに?」
「努力する」
「まあ、それなら少しは」
彼女はそう言って帰っていった。
残るのは、夜風と、灯りと、坂道の途中で揺れる提灯の影だけになる。
チュバイロフも板束を抱えて去り、ついに前庭へ残ったのはシャシルとチャトリンだけになった。
町の音は下のほうで小さく続いている。
食堂の皿の触れ合う音、遠い笑い声、船具を片づける金属音。
そこへ、提灯の火がぱち、と細く鳴った。
「やっと静かですね」
チャトリンが言う。
「さっきまでが騒がしすぎた」
「祭り前の夜は、毎年こうです」
彼女は受付台の布を撫でながら、どこか懐かしそうに笑う。
「去年は縮小されてて、もっと寂しかったですけど」
「去年も、おまえはここで準備したのか」
「しました」
彼女は頷く。
「でも、去年は途中で片づけの指示が増えて、結局、飾りを半分しか出せませんでした」
「なぜ従った」
「一人だったからです」
その返事は軽くなかった。
シャシルは黙る。
彼女は別に責めてはいない。ただ事実を言っただけだ。
一人では、守れる数に限りがある。
紙も、灯台も、祭りも。
「今年は一人じゃないです」
チャトリンはすぐに言い足した。
「だから、半分じゃなくて全部出せます」
「全部はまだ出ていない」
「明日出します」
きっぱり言うので、シャシルは小さく息を吐いた。
夜風が冷たくなってきたせいか、彼女の肩先に少し力が入っている。
「もう上がれ」
「その前に」
チャトリンは受付台の引き出しから、新しい短冊束を取り出した。
「試し書き、しておきます」
「今か」
「今です。筆の滑りと、墨の乗りを見たいので」
理屈は通っている。
だが、単に書きたいのだろう、とシャシルは思った。
祭りの前夜に、真新しい短冊へ最初の一文字を入れる。その役目を、彼女は大事にしている。
受付台の上へ、小さな硯と水差しが置かれた。
彼女は袖を少しだけまくり、提灯の火を背にして座る。
筆先を整える所作が思ったより丁寧で、むだがない。
灯台の帳簿を書く時の拙さと違い、願いを書く準備だけはずっと馴染んでいる手つきだった。
「見るなよ、って顔してますね」
チャトリンが言う。
「見ていない」
「見てます」
「周囲の警戒だ」
「受付台の上しか見てませんでしたけど」
図星だった。
シャシルは咳払いをひとつして、受付台の横へ立つ。
海のほうを見るふりをしても、提灯の明かりに照らされた彼女の横顔が視界の端へ入る。
髪の毛の細いほつれ、筆を持つ指先、息を吸う時にわずかに上がる肩。
そんな細部を、どうしてこんなに見てしまうのか、自分で分からなかった。
チャトリンは試しの一枚へ、受付用の定型文を書いた。
字は帳簿より少し丸い。
人に見せる字だからだろう。
書き終えてから首を傾げ、もう一枚取り出す。
「次は?」
「本番です」
「試し書きではなかったのか」
「さっきのは試しです。今のは、最初の願い」
彼女は当然のように言った。
「新しい束の一枚目、空白のまま置くの、ちょっと寂しいので」
寂しい。
そう言う人間が綴り手なのだろう、とシャシルは思った。
紙の空白に寒さを見る人間。
だから捨てられる紙を抱え込んだ。
彼女はしばらく筆を止めた。
夜風が提灯の火を揺らし、橙の色が頬から耳へ移っていく。
海からの湿った匂いに、シヴの薔薇の甘さが薄く混じる。
灯台の石壁は昼の熱を少しだけ残していて、背中へ伝わる冷たさが和らいでいた。
「何を書く」
シャシルは、気づけばまた聞いていた。
「まだ秘密です」
「またか」
「たまには最後まで待ってください」
彼女の声は軽いのに、筆を持つ指には少し力が入っていた。
遊び半分ではないのだと分かる。
シャシルは黙って待つことにした。
筆先が紙へ触れる。
する、と音がするほど静かな夜だった。
一文字目は捨。
二文字目はて。
そこで、シャシルの呼吸が少しだけ止まる。
見ないつもりだったのに、見えてしまう。
というより、目が離れなかった。
捨てられるはずだった願いが、もう捨てられませんように。
紙へ現れたその一文は、地下書庫で見えた端書きと同じ願いだった。
けれど今度は、壁裏の暗がりではなく、提灯の下で、祭りを迎えるための受付台で書かれている。
隠すための文字ではない。
迎えるための文字だ。
チャトリンは最後の一画を払うと、しばらくその紙を見つめていた。
自分の書いた言葉を、受け取る前に一度見送るみたいに。
「それでいいのか」
シャシルは低く聞いた。
「はい」
「自分のことは書かないのか」
「これ、自分のことです」
彼女は紙から目を離さずに言う。
「だって、これがいちばんそうだから」
提灯の火が、短冊の端を透かした。
その向こうの横顔があまりに静かで、シャシルは急に言葉を失った。
彼女は、綺麗だった。
髪がどうとか、目がどうとか、そういうことをうまく数えられるわけではない。
戦場でも役所でも、顔の良し悪しを考える暇などなかった。
だが今、提灯の下で、自分の願いではなく人の願いの居場所を願うその横顔は、灯台の石壁よりも、海よりも、目の前のどの灯りよりも、強く胸へ残った。
シャシルは理解が遅れてやってくる種類の男だった。
だから、その瞬間まで分からなかった。
自分がどれだけ、彼女のことを見てきたのか。
どれだけ、彼女が笑えば場がほどけ、黙れば空気が締まり、困れば手を出したくなってきたのか。
「シャシルさん?」
呼ばれて、ようやく瞬きをした。
自分が黙りすぎていたと気づく。
「何だ」
「怖い顔のまま固まるの、やめてください」
チャトリンは少し心配そうに笑った。
「なんか、願いの内容、変でした?」
「変ではない」
「じゃあ、そんな顔しないでくださいよ」
そんな顔、と言われても、自分でどんな顔をしているのか分からない。
ただ胸の真ん中へ熱いものが落ちたまま、うまく動かせない。
「……いい願いだ」
ようやくそれだけ言えた。
チャトリンは一瞬目を丸くし、それから、いつもより小さく笑った。
「よかった」
「何が」
「言ってもらえて」
彼女は短冊を持ち上げ、乾かすように少し揺らす。
「受ける側が、いい願いだって思ってくれると、少し安心するので」
「受ける側は俺だけじゃない」
「でも、いちばん怖い顔の人に先に認めてもらえたら、だいぶ強いです」
ひどい理屈だと思う。
だが、その理屈の中に自分がちゃんと入っていることへ、情けないほど安堵してしまう。
チャトリンは乾いた短冊を、新しい受領箱の一番上へ置いた。
まだ誰の願いも入っていない箱に、最初の一枚が収まる。
その小さな音が、夜の前庭で妙に響いた。
「これで、空じゃなくなりました」
彼女は満足そうに言う。
「空でも、明日には埋まる」
「はい。でも、最初の一枚があると、呼び込める気がするんです」
「おまえは本当に、そういうことを言うな」
「そういうこと?」
「……空いた場所を、ただの空きにしない」
言ってから、自分が何を言ったのか少し照れた。
チャトリンは驚いたように瞬き、それから困ったように笑う。
「褒めてます?」
「たぶんそうだ」
「たぶんなんですね」
「慣れていない」
「知ってます」
また、知っていると言われる。
彼女は知っているのだ。自分が不器用で、言葉の出し方をよく失敗することも。
それでも待ってくれる。その待ち方が優しい。
夜風が強くなり、提灯列がいっせいに揺れた。
短冊束が飛ばないよう、シャシルは反射で手を伸ばす。
同じ瞬間にチャトリンも手を伸ばしていた。
指先が軽く触れる。
それだけで、心臓が一拍遅れた。
「すみません」
彼女がすぐ手を引く。
「謝るな」
シャシルは短冊束を押さえたまま言った。
「風だ」
「ですね」
だが風だけではない、と二人とも分かっている気配があった。
分かっているのに、そこへ名前をつけない。
まだつけなくていい夜だった。
受付台の片づけをしてから灯台へ上がる途中、石段の踊り場でチャトリンが立ち止まった。
下を見れば、提灯が灯台までの道を細く導いている。
その先に港の家々の灯りが点々と続き、もっと向こうでは海が夜と混ざっている。
「明日、ちゃんと来ますかね」
彼女が言った。
「誰が」
「願いを書く人たちです」
「来る」
「どうしてそんなに言い切れるんですか」
「来ない理由が減った」
シャシルは坂の下を見た。
「猫は戻った。薔薇は咲き直した。食堂は逃げなかった。短冊は捨てられずに残った」
「全部、灯台の手柄みたいに言う」
「違う」
彼は首を振る。
「町の手柄だ。灯台は受けただけだ」
チャトリンはしばらく黙り、それから小さく息を吸った。
「だったら、やっぱり来ますね」
「言っただろう」
「はい」
彼女は笑う。
「でも、今の言い方のほうが好きです」
また、胸の奥が妙に落ち着かなくなる。
気を抜くと何か余計なことを言いそうで、シャシルは先に階段を上がった。
灯台の上層は、昼の作業の名残で散らかっていた。
紐の切れ端、紙屑、木の星、墨の付いた布。
それを片づけながらも、シャシルの頭の中にはさっきの横顔が残り続けた。
提灯の明かりに照らされて、願いの言葉へ呼吸を合わせていた顔。
あれを見て、どうして息が詰まったのか。
いや、もう答えは半分出ている。
出ているのに、認めると何かが一気に変わる気がして、口にできない。
チャトリンは窓際の棚へ短冊束をしまい、空になった硯を洗った。
水を捨てる手つきが、いつもより少しだけ慎重に見える。
彼女も何かを意識しているのかもしれない。そう思うだけで落ち着かなくなる自分が、少し面倒だった。
「シャシルさん」
「何だ」
「明日、本番前に、もう一回だけ受付台の位置を見ます」
「まだ見るのか」
「見ます」
「好きにしろ」
「あと」
彼女は少し迷ってから言った。
「さっきの願い、誰にも言わないでくださいね」
「言わない」
「絶対ですよ」
「言わない」
「ほんとに?」
「二回言わせるな」
彼女は安心したように笑った。
その笑顔を見た瞬間、シャシルは自分の負けを悟った気がした。
何に負けたのかはまだ言葉にできない。
だが、もう前と同じではいられない。
夜更け、各部屋の灯りが消えたあとも、彼はしばらく眠れなかった。
窓から見える提灯の列が、風に揺れるたび、受付台の前で短冊を書く細い指が思い出される。
潮闇の流れや、回収船の危険や、祭りで読み上げる記録の順番も考えなければならないのに、その合間へ不意に、提灯の下の横顔が差し込んでくる。
面倒だ。
だが、嫌ではなかった。
むしろ、その面倒さが、これまで知っていた戦場の緊張とはまるで別物だと分かるぶん、厄介だった。
相手を斬るか、守るか、退くか、進むか。
そういう単純な話ではない。
近づくほど、丁寧にしなければ壊してしまいそうなものがある。
それを前にした時、自分の手は案外不器用だ。
夜の後半、風が少し強まった気配で彼は起き上がった。
提灯が心配になり、上着を引っかけて外へ出る。
前庭へ降りると、提灯列はまだ持ちこたえていた。
竹骨が鳴り、星の薄板がかすかに擦れ合う。
受付台の上の布もめくれていない。
その代わり、灯台の入口の脇に、人影がひとつあった。
「……何をしている」
シャシルが低く言うと、
「わ」
チャトリンが振り向いた。
「びっくりした」
「こっちの台詞だ」
彼女は肩へ毛布を掛け、受領箱の蓋を押さえていた。
風で開かないか見に来たらしい。
「寝ろと言った」
「言われました」
「なら寝ろ」
「シャシルさんも」
返す言葉がない。
彼は受領箱の蓋を確かめ、掛け金を一段きつくした。
「飛ばない」
「はい」
「おまえが見に来る必要はない」
「でも、一枚目が入ってるので」
その言い方で、また胸のあたりが熱くなる。
一枚目。
彼女の願い。
ただの紙ではなくなった箱を、彼女は自分で見に来たのだ。
「……なら、明日は二枚目以降を入れさせろ」
シャシルはそう言った。
「一枚で止めるな」
チャトリンは目を丸くし、それから、夜の中で静かに笑った。
「はい」
風が受領箱の縁を撫でる。
提灯の光が、毛布の端と彼女の髪へ淡く乗る。
こんな時間に、こんな場所で、二人きりで立っていることが妙に胸へ響いた。
戦場では夜の見張りは山ほどした。だが、誰かの願いが入った箱を一緒に守る夜など知らない。
「戻れ」
シャシルは少しだけ声を落とした。
「風邪を引く」
「シャシルさんもです」
「俺は引かない」
「その言い方、引く人の言い方です」
「引かない」
「じゃあ、競争ですね」
「何の」
「どっちが先に部屋へ戻るか」
「子どもか」
「負けます?」
「負ける気はない」
言った瞬間、チャトリンは毛布を押さえて灯台の階段へ駆けた。
走るのか、と呆れるより先に、シャシルの足も動く。
石段を上がる軽い足音。追う重い足音。
途中で彼女が振り返り、
「ずるい、大股!」
と笑いながら言う。
「競争だろう」
「言いましたけど!」
灯台の入口で先に手をかけたのはシャシルだった。
扉を開けて振り向くと、チャトリンが息を弾ませて睨むふりをしている。
「大人げない」
「仕掛けたのはおまえだ」
「でも、少しくらい譲っても」
「譲らない」
そう言うと、彼女はくすりと笑った。
その笑い方があまりに楽しそうで、シャシルの中の何かが、また一段深く沈んだ。
もう誤魔化せないところまで来ているのかもしれない。
「おやすみなさい」
チャトリンは毛布を抱え直す。
「明日、ちゃんと起きてくださいね」
「起きる」
「寝坊したら、受付台の横に『本日の灯台守 寝不足』って札を出します」
「やってみろ」
「やりますよ」
彼女はそう言って階段を上がっていった。
上の踊り場で一度だけ振り返る。
提灯の残り火よりも柔らかい顔で、小さく手を振った。
シャシルはその場に立ったまま、しばらく動けなかった。
祭りの準備、記録の整理、回収船への備え、再起動の段取り。
やるべきことは山ほどある。
そのどれも忘れてはいない。
忘れてはいないのに、いま胸へ強く残っているのは、短冊に願いを書く横顔と、夜風の中で笑った声だった。
灯台の壁へ背を預け、彼は遅れて息を吐いた。
認めるしかない。
あの横顔を見た瞬間、自分の中で何かが変わった。
それが戦場の決意みたいに単純ならよかった。
だが実際は、近づきたいのに乱暴に触れたくなくて、守りたいのに囲い込みたくなくて、言葉にしたら今の軽さが壊れそうで怖い。
そんな、面倒で、手順の多い気持ちだった。
灯台の上層から、誰かが戸を閉める小さな音がした。
町は眠りへ向かっている。
祭りの朝は近い。
そして、その朝の前に、自分はもう一度、地下の心臓部へ降りて誓約の条件を確かめなければならない。
灯守と綴り手。
二人で並ぶ古図。
受付台の横幅。
提灯の下の願い。
頭の中で、別々だった線が少しずつ近づいていく。
まだ触れない。だが、次に地下へ降りた時、その意味を無視できなくなる気がした。
シャシルは最後に前庭を見回った。
受領箱は閉まっている。
提灯列も持ちこたえている。
受付台の上には、もう何もない。
けれど新しい箱の底には、一枚目の願いが入っている。
捨てられるはずだった願いが、もう捨てられませんように。
その願いを胸の中で繰り返した時、不思議と、自分自身の願いもその横に並んだ。
この灯台を守りたい。
この町を守りたい。
そして、あの横顔が、明日の朝もここで灯りの下にありますように。
そこまで考えて、彼は眉を寄せた。
あまりに率直で、誰にも見せられない願いだった。
だが、書かなくても願火は宿るのかもしれない。
少なくとも今の胸の熱は、焚き上げる前から十分すぎるほど明るい。
シャシルは前庭の石段を上がり、扉を閉めた。
明日の支度はまだ残っている。
その先には祭りがあり、祭りの先には、灯台の心臓部を起こすための誓約が待っている。
厄介な順番だ、と彼は思った。
だが、逃げる気はなかった。
むしろ、逃げたくないと思っている自分のほうが、よほど厄介だった。




