13-1.礼羅
慈雨の宮は扇を落とし、首を横に振りながら頭を抱えた。
「うそ……うそよ……!見えないなんて!ならどうして!」
脇目も振らず暴れかけるので女房が必死に宥めようとする。陽光がそっと袖を上げて私を後ろに下がらせた。
「この中に箱が見える者はいるか」
少し声を張った陽光の言葉に女房達は少し戸惑いながらも全員首を横に振り、後ろを振り向くので私も首を横に振る。
『最近旦那も死んで、娘も容態が悪いんだ。気が狂うのも無理はないだろ』
陽光は私も知らない事情を念話で伝える。人の心がそうさせている幻だったのだと陽光は考えているそうだ。
でもこの陽光の姉、なぜ娘の容体が悪いのに箱の事ばかり気に掛けるのだろう。小さな子供なら異性でも顔を見せなくても問題ない。ましてや赤子に等しい歳なら猶更だ。娘にとって陽光は叔父にあたるのだし。
『黒い箱ってそんなに話が広まっているのかしら?』
『どうだろうな。慈雨の宮がなにか知ってるならそう思い込むこともありえなくはないけど』
取り仕切っているらしい一人の女房が慈雨の君を取り成し他の女房と共に自室に戻っていく。
「宮様に仰って頂きありがとうございました」
「……事実を言ったまでだ」
先ほど案内してくれたおしゃべりな女房が頭を下げる。彼女は「藍の君」と呼ばれていた。
「あの方は幼い頃から時々天啓のように遠くのことを察知することが出来たようです。その才があって斎宮に選ばれたとか」
この女房陽光の顔を見ても何か反応することは無かった。白銅がいたら何か感情の動きが分かったのだろうが、陽光には余計な負担を強いたくない。
「ですが幼い頃に斎宮となったせいか未だに自分が内親王であるという意識が残っているようで……殿下に使いをやることはお止めしたのです。ですが斎宮のころからの勘の良さは健在のようで、わたくし共が目を離している隙に陰陽寮まで童を出したのです」
女房は慈雨の宮の黄道には手を焼いているようだ。陽光は女房の話に頷きもせず黙って聞いていた。
「ちなみに姫君はどうしてる。どうせならそちらも見ておきたい」
「雨の宮があぁなので会わせておりません。突然物の怪の触りが出て姫様に何かがあったら困りますから」
「……」
陽光が無言の圧をかける。
「そ、そう少外記の宮様から仰せつかったのですよ?わたくしがそんないたずらに母娘を引き離すことはできませんわ」
「……そうか」
それは陽光の兄が指示したことのようだ。母から娘を引き離すということに言葉に出来ない違和感を覚える。
『こういう時って母娘を引き離すものなの?』
『……母親の気狂いを見せるのは子供の教育には良くないだろうな。忘れていたとしても心の傷になる』
『そう』
「医者によると風邪が続いているとのことですが、本当にご覧になられるのですか?」
「あぁ。治すことはできないが、悪化させることもないだろ」
それでも陽光は治せないことを前提に慈雨の君の娘の様子を見る事になった。
―――
侍従に化けている私は姫の部屋に入れなかったけれど、御簾の隙間を伺う形で中を除けば几帳ではなく透けるほど薄くて広い布が帳のように天井から吊るされていた。
御帳台ではないけどこんな大きな布が使われるなんて贅沢だ。それに隠すものも隠せていない。後で聞くと吊るされているものは蚊帳と呼ばれる蚊から守るものらしい。
そこの中には横たわる子供と乳母の女がいる。
影でしか見えなかったけれど姫と呼ばれる娘はまだ髪も短い赤子だったようだ。陽光の善意か式神の術で視界を共有すれば、泣きもせず荒い呼吸を繰り返している女の子がいた。何となくだが生まれて一年と半年くらいだろうか。
「……おたふくか?」
「おたふく?」
「いやなんでもない。……数日起きに熱が出たり下痢もしてないか?」
「瘧(マラリアのこと)のことでしょうか?医師も気にされておりましたがそういったことはございませんでした」
「……そうか」
病のことはよく分からないけど陽光も姫の症状がよく分からないらしい。
「……病が移るのを恐れないのですね」
乳母が関心したような声で陽光を見ていた。先ほどの女房もそれを気にして本当に見に行くのかと気にしていたのだろう。
「気にした所でどうしようも無いだろう。元来の性格や徳の高さ関係なく移る時には移るし、禊はそのためにある。だれか湯桶と手ぬぐいを」
そう指示すれば周囲の女房は戸惑う「禊の代わりだ」と陽光が言えばすぐに用意された。
禊をすれば問題ないということではないと思うのだけれど、陽光は邪魔だと言って頭巾を外し、懐から紐で袖を括ると手ずから湯桶と手ぬぐいで姫の身体を拭う。泣いたらあやし、おしめを代え、抱っこしては水を含ませた布を吸わせる形で水を飲ませたのには私も含めた周囲がざわつき、中には袖で涙を拭う女房もいた。
―――
帰る頃には日も傾いており、姫に仕えていた女房達はみんな頭を下げて見送ってくれた。流石に慈雨の宮は部屋にこもったままだったけれど。
陽光は黒弓に乗る前に折り紙の式神で自分の屋敷に向かって文を投げる。これから帰るという先触れらしい。
長時間化けるのは久しぶりなので私も少し疲れた。帰りまでこの姿を維持しなければならないからそれまでの辛抱だ。
「帰ったら風呂……禊をする。お前も一応口をゆすいでおけ」
「かしこまりました」
口の中にも悪いものが入るから念のためだそうだ。陽光は潔癖だし行う禊はなんだか不思議なことが多いけど主の言い付けは守るに越したことは無い。
陽光は毎日のように水を浴びる。毎朝井戸の前で行水をするので身の回りの世話をする惟也は陽光の髪結いが上手くなったらしい。
「主様」
「なんだ気色悪い」
尊敬の威を持って話したのにその言いようは酷くないだろうか。
「貴方が子供の扱いに長けていたなんて思いませんでした」
「……同母の妹がいたからな」
妹も火事で傷を負ったんだったか。私としたことが気が回せていなかった。陽光はそれ以上何も言わなかった。




