12-6.礼羅
途中白銅が会話に割り込みしたようだけど、それからほどなくして陽光の兄は帰って行った。
こっそり後ろ姿だけ見たけど何か邪気の残り香を感じた。既に陽光が休めと遠回しに伝えているという。
伝わるものだろうかと思ったけれど宮中言葉はだいたいそんな感じのようなので通じただろうとのことだ。お婆も似たような話をしていたのを思い出したけれどこれはかなり面倒だ。
「先程の方とはどんなお話をされたのです?」
「双子の妹の無礼を赦せだそうだ。あと陰陽寮に依頼したものを聞いた。晴明殿から何かあれば話が来るだろ」
陰陽師としての依頼だったのか。陽光は話を続ける。
「妹の娘が瘴気に当てられたんだそうだ。……屋敷には動かそうにもビクともしない黒い箱があるとか」
「黒い箱……!」
内裏で見つけた物も酷似する。あの時は霞が執拗にガリガリとこじ開けようとしたせいか、手が真っ赤になっていたのだ。
「先に陰陽寮が調査するだろうからまだだ」
「さっき白銅を見せてから付喪神に夢中なのよね?晴明は見てくれるかしら」
何ら変哲もないものに短期間で呪力が込められた経緯も調べたがるだろう。次の満月まで晴明が待ち切れるかどうかも疑問だ。
それに内裏で見つけた黒い箱を晴明に見せたとき、呪力の痕跡もなにも無い箱と髪の毛が編み込まれた組み紐を前に晴明達は首を傾げていた。
黒い箱に何が入っていたのか、いつそれが現れたのか持ち主が誰なのかすらも分からないらしい。興味が削がれたら調べてくれなさそうである。
「内裏で大騒ぎになったモノに関連するんだ。調べはするだろう」
そうは言うけど、異母姉がわざわざ陽光に依頼したのだ。もしかしたら急を要するのではないだろうか。
「それに俺は晴明殿か帝の許可を得た上でないと都には行かない」
「まだそれを言うの?」
北の方から帝から赦しを貰ってると聞いた。なのに頑なに陽光は許可を得た上で都に入る。正直馬鹿らしく感じてしまう。
「夜半の君、それよりも目の前の仕事がまだ残っておりますよ」
惟也から声をかけられ、陽光もほら行った行ったと手で払うような素振りをするので私は仕方なく話から引くのだった。
―――
次の日陽光は私を呼び寄せては三枚の紙を見せた。
「以呂波仁保反止?」
「発音は分からないが合ってる」
漢詩には見えない。意味としてはめちゃくちゃに見える。なんだこれは。
ちなみにもう一枚の紙には仮名のみで書かれていた。にごりが判別できなくて読みにくい。
「……素晴らしい歌ですね」
同席していた惟也は三枚目の紙を見ていた。それには「色は匂へと」と書かれている。これは全て七五調の歌だったようだ。こちらの方が意味が分かりやすい。
歌を詠む才が無いと言っていた割によく出来ているではないか。
だけど「寺にいた頃に師匠から教えてもらった」と言う。なんだ、陽光が作ったんじゃないのか。
「全て同じ読みだ。文字を練習するのに丁度いいだろ?かな文字はひとつずつしか使われていない」
そう言われて仮名のみで書かれたものを見れば、本当に仮名文字がひとつずつしか使われていなかった。こんな言葉遊びが上手だなんてどんな人だろう。
「でもこちらの漢字は?内容に意味が無いでしょう?」
「朱く印が書かれているだろ?これ発音の印なんだ。唐国の言葉を話すのに役立つらしい」
そう言われると確かにそんな雰囲気はある。声に出して話してみれば大体しっくりくるものだ。今は唐国との関りが薄いと聞く。今は話せる人はいるのだろうか。惟也が大きく目を見開いていた。
「本当に話せるのですか」
「育ての親が唐国の狐ですから。でもこの話し方も古臭いかもしれません」
「……いいえ、読み書きだけでなく話せるなんてとても優秀です。男なら――いや失礼」
主だった政は男の役目だし、それにまつわる書物も漢文だから読み書きができることは必須なのだろう。陽光の侍従を務める惟也に出世欲があるかは知らないけれど確かに羨むのも無理はない。
「それにしても、この詩、意味としては仏の言葉に近いものを感じますね」
「……あ、あぁ……元の経典は忘れたが、よく分かったな」
「いえいえ。どなたが作ったのでしょう?」
「さぁ?聞いてないな。空海じゃないか?」
「曖昧ですね……弘法大師ならありえそうですが」
そういう一面を見ると本当に陽光は寺育ちだったんだと実感する。しかし陽光の今の教養と軽い身のこなしは寺での修行のたまものだそうだ。陽光が師匠と呼ぶ僧侶は一体何者なのだろう。
「夜半、それを歌ってみろ」
「構いませんが何故でしょう?」
惟也の手前丁寧に主に訊ねる。
陽光は思い出したくないような顔をする。
「……俺がお経や祝詞を聞けないの知ってるだろ」
すぐに納得した。
陽光は過去の古傷の影響で他者のお経を聞くことが出来ない。以前「お経恐怖症」と独り言をこぼしていたけれど言い得て妙だ。なら私が歌うのは陽光が慣れるために聞かせるためか。
「でも歌うのは侍従様でも良いのではなくて?」
「私では声に華やかさがないでしょう」
陽光の代わりに惟也が苦笑しながら答える。そう言われてしまえば私も断る理由は無い。
惟也がここにいるのも陽光の様子を伺うために控えているのだろう。
「――色は匂へど、散りぬるを」
私はゆっくりと口ずさむ。
陽光は特に何もなく、目を伏せたままじっとしている。
にこりともしないのはなんだか癪だがあまり笑わないのはいつもの事だと考え直す。
全て歌い終えると陽光は安堵の表情を浮かべていた。惟也は陽光の手首をそっと持ち上げた。
「脈も問題無さそうです」
わざわざ確認しなくてもと言わんばかりの顔をしているけど、陽光は普段から表情に出ないからそうせざる得ないのだ。
「なら今度は法華経を唱えてくれないか」
「え、それは……」
「良い」
私と惟也で目を見合わせるがお互いに困った顔をしている。
「長歌でも無理だった時があったんだ。今日は調子が良い」
「主様が問題なかったのは歌だからでしょう?お経でどうなっても私は知りませんよ」
惟也も同意だと頷く。だけど「俺がどうなっても咎めはしない」と言うだけでこちらの話も聞かない。
惟也は心配の目を浮かべながらも文台と共に写本が置かれた。中身は原文のまま、所々読みやすいように返り点や補足の文字があり全体の筆跡から陽光が書いたのだとわかる。やや癖のある悪筆だった。
私は序文から都度翻訳しながら音読していった。
長時間どうにか一帖読み終えても陽光の容態にはさほど問題はなかった。ゆっくりだったからだろう。次の頁をめくると記号がなく原文の写本しか書かれていなかった。返り点なしに翻訳しながら読むなんて流石に私も難しい。
二人の顔を見て今度は唐国の読みで音読してみる。突然私が唐国の言葉で読み始めたことに惟也は目を見張るも止めることはなかった。やはり地の文をそのまま読む方が楽だ。
だけど三行くらい読み終えた辺りで陽光の左手がピクリと動き、横から見ていた惟也が動いた。
「旦那様、息をしてください……!」
「っか、はっ!?」
惟也の声で私も止まる。彼が背中を撫でるとやっと陽光が息をする。以前は魔力が乱れていることしかわからなかったけれど、こうして正面から見ると顔も青ざめていたし震えも止まらなかった。
私は思い出して陽光に側にあった水を渡そうとすると器ではなく手首を握られそうになる。
「あ――」
どちらが声を出したか分からない。思わず陽光の手を避けたのでその手は空を切り床についた。水は無事だったけど陽光の身体が崩れる。
顔を上げた陽光の目とかち合い、思わずすぐ逸らした。
「旦那様、落ち着いてくださいませ」
「……悪い」
何回か呼吸をして陽光はようやく落ち着いてきた。
その後陽光が他人のお経に慣れる特訓はお開きとなった。
惟也は用意した法華経の書が陽光がかつて手習いで使っていた物だと気付かなかったそうだ。平謝りしていた。次は異国の言葉を使わないようにしようと私は心に決める。
ちなみに陽光が用意した「いろは歌」は惟也が新しく別の紙に書き写しては実家の母に文と共に送った。よほど気に入ったようだ。
それが密かに都で広まるのはそれから十数年後の話である。
そして私はかち合った時に見た、ぎらついた真っ赤な目からすぐに何かが抜け落ちたような顔に変ったのが頭から離れなかった。




