11-6.礼羅
木の枝をかじるように歯を磨いて口をゆすぐ。その後しっかりと強飯を噛みしめ、唾と絡めては壺に入れて蓋をする。その後日の当たらない涼しい場所で数日放置すれば口噛み酒の完成だ。
私が口嚙み酒を仕込む様子を麻杜は後ろから見ていたけど壺に入れてからは雑舎の中にある自分の寝床に入ってしまった。一瞬懐いたと思えばまたそっぽ向かれた。その年頃の娘は本当に対応に困る。
口嚙み酒の作り方を教えてくれたのは山の麓の村人だ。お婆はなぜか口嚙み酒の存在を知らなかったらしい。隠して仕込んでいたらバレてしまい、献上したらお婆は気に入ったのかはまってしまったのだけれど。
先ほど向呉が屋敷で寝かせていた酒を笏でそっと上澄みだけを取り除き、濁りの濃さで瓢箪に分けて入れていた。陽光の好みは透き通った甘味の少ない酒のようで、試行錯誤して出来上がった代物らしい。通りで契約した際に口にしたそれは綺麗なものだったわけだ。
身の回りのことは自分でしたり、必要最低限の物しか揃えなかったり清貧しても、食事の味にうるさいのはそれだけは譲れなかったのだろうか。内裏ではどれくらい美味しいものを食べていたのだろう。
ちなみに比較的濁りの多い酒は惟也が時々飲むか調味のために食事に混ぜるのだそうだ。酒精は火を通すと消え、濾す際に出た酒粕は野菜に漬けてもおいしくなるという。今度自分も飲み比べてみたいものである。
今頃陽光はその澄んだ綺麗なお酒を白銅と名付けられた妖狸と飲んでいる。自分の血は既に与えていたのでこれで正式に式神としての契約を果たすのだろう。そこに混ざるのは野暮と言うものだ。
つっかえ棒を立てた上で雑舎を出る。外側から開けられないことを確認すると北の対にある階まで歩く。
結局自分は雑舎で他の下人らと一緒に雑魚寝することは無く、陽光から局を用意された。場所は母屋と北の対を繋ぐ渡殿の中にある庇の間だ。
本当は雑舎が近い北の対の方が都合がいいのだけれど、北の対は正妻の離だ。私は陽光の正妻になりたいなんて微塵も思っていない。ちなみに惟也の局は母屋の中にある東庇にある。
階に上がる前に既に真っ暗になった空を眺める。三日月は西の空で細い弧を描いている。上弦だから月が微睡んでいるようにも見えた。
(昔、満月を見ると月に睨まれている気がしてお婆に泣きついたことがあったっけ)
月光は魔力の恩恵はあった反面人を惑わす力もある。潮の満ち引きにも影響する力だ。子供ながらに何か感じるものがあったのだろう。あの時はお婆に笑われたけれど。
風に運ばれた草の匂いを嗅いで季節を感じる。山の上なら東の空から天の川が見えただろう。大和の山で毎日嗅いでいたツツジと竹の匂いは遠い記憶のようだ。お婆が生きているならお婆も同じ空を見ているだろうか。
「去にゆきし きみはいづこの星なるや とき別れなど思はざしに」
(去って行った あなたはどこの星にいますか? はやい別れが来るなんて思いませんでしたのに)
口に出すと感傷的になる。柄にもなく歌ってみるものじゃない。自分が探すべきはお婆じゃなく父親の方だ。
しかし以前内裏に現れた鹿男。悪魔が総じて人ではなく獣であったなら、自分の父親も頭が熊や兎だったりするのだろうか。せめて人の姿であった欲しいものである。
刹那、女の笑い声が聞こえた。
「お婆……?」
期待しそうになって足の向きを変えたが我に返る。
いいや、陽光と母屋にいるはずの白銅だろう。見た目はずんぐりむっくりなのに声は涼し気な女性のそれだった。まさかこんなところにお婆がいるわけがない。




