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幽心庵の温かい日々  作者: 宵月 ゆう
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第玖話: 月夜の骨董商と、まどろみのクルミおやき

カラン……

静まり返った店内に、涼やかで澄んだ高い音がひとつ響いた。

大黒柱に掛けられた竹筒から、瑠璃色の蕾がふわりとほころび、鈴のような『幽鈴花(ゆうれいか)』を咲かせている。

「おや、お客さんだねぇ」

帳場で煙管(キセル)をくゆらせていた猫股のクロが、紫煙の向こうで億劫そうに目を細めた。

ガラガラと引き戸が開き、夜霧とともに一人の男が足を踏み入れる。

黒の粋な着流しに羽織を引っ掛け、右目にはシルバーの片眼鏡(モノクル)。三十代半ばほどの男前な古美術商の佇まいだ。背中には年季の入った黒塗りの行商箱を背負っている。

だが、店内の行燈(あんどん)が温かい光で男を照らしたとき——その足元には、影がまったく存在しなかった。

「いやはや、失礼。幽鈴花が綺麗に咲いたものでね……今夜は実に美味そうな香りに引き寄せられましたよ」

男——骨董商に化けたあやかしの烏、九十九(つくも)が、鼻頭の片眼鏡を押し上げながら薄っすらとした胡散臭い笑みを浮かべる。

「……けっ。また妙な黒羽虫が舞い込んできやがったね。その胡散臭い笑顔を引っ込ませな、九十九」

クロが不機嫌そうに尻尾を揺らすと、九十九は「おや恐ろしい」と肩をすくめ、背中の大きな黒塗りの箱をドサリと床に下ろすと、カウンターの端へ腰掛けた。

「さて、九十九さん。今夜はどのようなご用件で?」

勘吉が尋ねると、九十九は懐(ふところ)に手を差し入れ、藍色の布地に紐が巻きついた古風な道中財布(長財布のような布巻き入れ)を取り出した。

「ええ……実は旅先で、実に『難儀なお客人』を拾いましてね」

九十九が指先で留め紐をスルスルと解き、片眼鏡の奥で黄金色の瞳を怪しく光らせると、開いた布地へ向かって「……ふぅ」と静かに息を吹きかけた。

すると、財布の奥からうっすらと白煙のような光が立ち上り、カウンターの上に手のひらにちょこんと乗るくらいの小さな人形のような姿をした付喪神(つくもがみ)が、おずおずと姿を現した。

ほつれた古い衣装を着た、小さなぬいぐるみのような佇まい。

それは、塗りが剥げ、角の欠けた古い木製のかんざしの心が形を成したものだった。

「持ち主が亡くなり、捨てられて冷たく固くなっておりました。……ただ『もう一度だけ、あの温もりを感じたい』という一心で、こうして道中財布の奥に縮こまっていたのですよ」

小さな付喪神は、寂しそうに肩を寄せ合い、今にも消えてしまいそうだった。

「なるほど……お任せください」

勘吉は力強く頷くと、すぐに厨房の奥へと向かった。

じっくりとこねた生地に、特製の餡を丁寧に包み込んでいく。

炭火にかけた小さな鉄板の上におやきを並べると、チリチリ……と香ばしい音が店内に満ち始めた。

やがて、香ばしい小麦と刻みクルミの香りが、湯気とともにふわりと立ち上る。

「お待たせいたしました。……小さい客人にも、どうぞ」

勘吉が差し出したのは、大きな皿にのった『香ばしクルミ餡のおやき』と——

その隣に添えられた、手のひらサイズの付喪神のための豆皿の「ミニおやき」と、小さなお猪口に注がれた「甘酒」だった。

親指の先ほどの小さなおやきだが、表面はきつね色にカリッと焼かれ、香ばしい匂いを放っている。

「おや……この子の大きさに合わせて拵えてくださったのですか。これは重身に余るお心遣いだ」

九十九が感心したように目を細める。

小さな付喪神は、おずおずと豆皿へ近づくと、あつあつのミニおやきを小さな手で抱えるようにして一口頬張った。

カリッ……

香ばしいクルミの歯ごたえと、溢れ出すあたたかいクルミ餡の甘み。

続いて、小さなお猪口から甘酒をひとくち飲むと、生姜の爽やかな香りと米麹の優しい温もりが、身体の隅々まで行き渡っていく。

「……あぁ……あたたかい……」

付喪神の小さな声が、店内にぽつりと響いた。

「楽屋の……冷たい手で、いつも私を握りしめてくれた……あの人の手のひらと……おなじ匂いだ……」

クルミの香ばしさと手料理の温もりが、冷え切っていた付喪神の心を解凍し、かつて「確かに愛されていた」という記憶を呼び覚ましていく。

最初は色褪せていた小さな体にポッと綺麗な赤みが差し、まるで丁寧に死に化粧を施されたかのように、気品ある輝きを取り戻していった。

「……よかったねぇ」

お桂が目を細め、静かに微笑む。

小さなおやきと甘酒を綺麗に平らげた付喪神は、満足そうにお腹をさすると、ふわりと宙へ浮かび上がった。

「ごちそうさまでした……」

感謝の言葉とともに、小さな身体が金色の細やかな光の粒となって解けていく。

その瞬間、九十九は背中の黒塗りの行商箱から、はじめて漆黒の化粧箱を取り出した。

鏡のように光を反射するその木箱の蓋を滑らせると、中には滑らかな紅い絹織物が敷かれている。

「……さあ、旅立ちの化粧は整いました。お行きなさい」

九十九が優しく促すと、光の粒は吸い込まれるように化粧箱の中の紅い絹の上へと舞い降り、チリン……と、鈴の音をひとつ残して静かに収まった。

箱の中に残されたのは、傷の癒えた綺麗な木製のかんざしがひとつ。

九十九はパタン……と静かに化粧箱の蓋を閉じると、愛おしそうにその表面を撫でた。

「……この化粧箱に納め、温かい供養の記憶を添えて蓋を閉じれば、この品は黄泉の境界を越え、すでにあの世へ旅立った『かつての持ち主』の手元へと届くのですよ」

「……ふん。相変わらず柄にもなくロマンチストなカラスだねぇ。あの世まで配達料も取らずに届けてやるのかい」

「おや、おクロさん。配達料ならすでにいただきましたよ。……勘吉さんの極上のクルミおやきと甘酒の香りをね」

九十九はおやきを割り、中のあつあつなクルミ餡を美味しそうに口へ運ぶと、「実に絶品だ」と目を細めた。

「いやはや、ごちそうさまでした。おクロさんの嫌味は相変わらずですが、幽心庵の味だけは毎度立ち寄らずにはいられない」

九十九は立ち上がり、黒塗りの行商箱を再び背負うと、ガラリと格子戸を開けた。

「それでは、また伺いますよ。……可愛いおクロさん」

「……次に妙なもの持ってきやがったら、マジで叩き斬るからね!」

クロが威嚇するように背を丸めるのを、九十九はニタニタと笑いながら受け流し、黒い羽を一瞬だけ夜風に舞わせながら、月明かりの夜霧の中へと姿を消していった。

あとに残されたのは、クルミの香ばしい余韻と、どこか優しく静まり返った『幽心庵』の温もりだけだった。

新キャラクター・九十九の初来店:

骨董商のあやかし・九十九が幽心庵へ初来店! 看板猫股のクロとは旧知の仲で、店に入った瞬間から阿吽の息で繰り広げられる軽妙な煽り合いも見どころです。

道中財布と息の演出:

藍色の道中財布の紐を解き、九十九が息を吹きかけることで、小さな付喪神が姿を現すあやかしらしい幻想的なシーン。

勘吉のミニ供養膳:

手のひらサイズの付喪神のために作られた、豆皿の「ミニくるみおやき」と「小杯の甘酒」。あつあつの温もりが、冷え切っていた「愛された記憶」を呼び覚まします。

漆黒の化粧箱と黄泉路の配達人:

「死に化粧」を施すように美しく整え、先立ったかつての持ち主のもとへ道具を届ける——九十九の美学と優しさが光る仕上がりとなりました。

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