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幽心庵の温かい日々  作者: 宵月 ゆう
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箸休め① 猫の散歩道と、三つのあたたかい記憶

秋の澄み渡った昼下がり。

普段なら夜しか動かない猫股のクロは、珍しく日当たりの良い瓦屋根の上を軽やかに跳ねていた。

「けっ……別に気にしてるわけじゃないんだけどねぇ」

フンと鼻を鳴らしながら、二本に分かれた尻尾を揺らす。

あやかしの店『幽心庵』の暖簾をくぐり、勘吉の料理を食べて帰っていった人間たち。店での出来事は夢のように薄れて消えてしまっているはずだが、果たして奴らはちゃんと生きているのか——。

ただの気まぐれな散歩の体(てい)で、クロは昼間の街へと繰り出していた。

一、ビル街のスーツ姿(第一話:ケンタ)

最初に通りかかったのは、高層ビルが立ち並ぶオフィス街。

とあるビルの屋根の端から見下ろすと、人波の中に聞き覚えのある足音が混じっていた。

大手不動産会社に勤めるケンタだ。

かつて大雨の夜、仕事の失敗と恋人との別れで絶望し、ずぶ濡れで幽心庵へ迷い込んできた男。

今の彼は、ピシッと皺のないスーツを着こなし、書類を抱えて凛とした顔つきで歩いている。

「ケンタさん! さっきのコンペ資料、すごく分かりやすかったです!」

「おう、ありがとな。よし、午後一番で打ち合わせ行くぞ。その前に……腹ごしらえだ」

後輩と楽しそうに笑い合いながら、彼は定食屋の暖簾をくぐった。

運ばれてきた湯気立つ肉じゃが定食を前に、ケンタは「うまい!」と嬉しそうに頬張っている。

(……ふん。あんなにボロボロで雨に濡れてた癖に、いい顔して飯食ってやがる)

クロは屋根の上で目を細めた。

あの夜の「肉じゃが」の味そのものは覚えていなくても、お腹を満たされたあたたかさと、「まだやり直せる」という感覚だけは、彼の身体にしっかりと残っているようだった。

二、陽だまりのアトリエ(第二話:蓮)

続いてクロが向かったのは、静かな住宅街の路地裏。

日当たりの良い古いアトリエの2階、その開け放たれた窓辺に飛び乗る。

室内では、画家の蓮がキャンバスに向かい、真剣な眼差しで筆を走らせていた。

師匠を失い、絵が描けなくなっていたあの頃の暗い影はもうない。

あの日、店での出来事すら霞んでしまっているはずだが、彼の胸には「受け継いだ想い」が確かに根を張っていた。

アトリエの窓辺には鉢植えが置かれ、青々としたツルを伸ばした鮮やかな朝顔の花が、秋の陽光を浴びて元気に咲き誇っている。

(ほう……夕顔の影を胸に抱いたまま、自分自身の手で新しい花(朝顔)を咲かせたかい)

蓮はふと手を止め、窓辺の朝顔に優しく水を与えると、晴れやかな笑顔で再び筆を握った。

もう彼は、路頭に迷う孤独な描き手ではなかった。

三、木漏れ日のカフェテラス(第三話:神楽坂みう)

最後に訪れたのは、賑やかな若者の街。

おしゃれなカフェテラスのパラソルの上に、クロはそっと舞い降りた。

そこにいたのは、元アイドルの神楽坂みうだ。

ネットの無邪気な悪意に押し潰され、泣きそうな顔で幽心庵に逃げ込んできた少女。

今のみうは、浅く被った帽子の下から晴れやかな笑顔をのぞかせ、新しい音楽仲間とテーブルを囲んでいた。

テーブルの上には、カラフルなパフェと温かい紅茶。

スマートフォンが通知を鳴らしても、彼女はもう怯えることなく、フッと微笑んで画面を伏せた。

(あのドブのような毒虫に怯えるのも終いだ。自分の足を引っ張る暗闇を蹴飛ばして、ちゃんと自分の光を見つけたみたいだねぇ)

みうは楽しそうにパフェのイチゴを頬張り、仲間の奏でるアコースティックギターの音色に合わせて、小さな声で愛おしそうに歌を口ずさんでいた。

四、夜の幽心庵にて

ガラガラ……と引き戸が開き、夜霧とともにクロが店へ戻ってきた頃には、すっかり日が落ちていた。

カウンターの奥では、割烹着姿のお桂と、仕込みをする大将の勘吉が笑顔で出迎える。

「あら、クロちゃんお帰り。今日は随分と長いお散歩だったのねぇ」

「ふぁぁ……ちょっと遠くまで日向ぼっこに行ってただけさね」

クロは大きなあくびをひとつすると、カウンターの端の定位置へ飛び乗り、毛づくろいを始めた。

「何か良いことでもありましたか?」

勘吉が包丁の手を止めて尋ねると、クロはフンと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

「別に。……ただ、前にウチで飯食っていった連中が、どいつともこいつもいい顔して自分の足で歩いてたってだけさ。店のことなんざ、綺麗さっぱり忘れてる癖にねぇ」

その言葉を聞いて、お桂と勘吉は顔を見合わせ、ふっと温かい笑みをこぼした。

「そうかい……それは良かった」

勘吉は嬉しそうに目を細めると、トン、トン、と心地よい音を立てて再び包丁を動かし始めた。

「よし、それなら今夜も、迷い込んできた客が明日を生きられるような……とびきり美味いもんを拵えないとな」

赤提灯が風に揺れ、今夜も『幽心庵』の温かい夜が始まろうとしていた。

今回はメインのストーリーから少し離れた「箸休め(番外編)」として、第一話~第三話に登場した人間たち(ケンタ・蓮・神楽坂みう)の“その後”をお届けしました。

記憶はなくとも残るあたたかさ:

幽心庵を立ち去った人間たちは、あやかしたちやお店での出来事そのものは夢のように忘れてしまいます。けれど、勘吉が作った料理のぬくもりと「前を向いて生きる力」だけは、今も彼らの日常にしっかりと根づいています。

クロのツンデレな優しさ:

口では文句を言いながらも、こっそり昼間の街へ様子を見に行く看板猫股のクロ。彼らの元気な姿を確認して少し誇らしげなクロの素顔を描きました。

第二話メインストーリーの蓮の話で登場した花には、それぞれ花言葉の想いを乗せています。

夕顔の花言葉: 『儚い夜の思い出』

(亡き師匠と過ごした日々、幽心庵での一夜)

朝顔の花言葉: 『明日も爽やかに』『愛情』『固い絆』

(蓮自身が自分の手で咲かせた、新しい明日への一歩)

次回のメインストーリー(第10話)へ向けて、物語の奥行きを感じていただけたら幸いです!

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